第110話 奪いに来ない客
フェンウィックは記録帳を求めなかった。
前に坂を上ってきたときは、まず登録の書式を卓へ広げた。角のそろった紙に丁寧な字で灰環の名を書き込む場所が用意されていて、そこへ判を一つ押せば制度の線が痛くなくなる、という顔をしていた。ユークはその紙を受ける・断るの二択に乗せずに押し返した。あのときの男は押し返されても丁寧なままだった。財の匂いのするものを前にすると、この男の指はわずかに動く。ユークはそれを覚えていた。
今日はその紙がない。
受付台にはミレアが並べたままの帳面がいくつか出ていた。利用の記録、精算の控え、水位の表。数字の詰まった頁だ。前のフェンウィックならこういう頁の上でこそ指を止めた。値のつくものがそこに並んでいるからだ。
男の目は頁の上を通り過ぎた。
止まらなかった。
「近くまで来たものですから」
フェンウィックは穏やかに言った。
「様子だけ見せていただこうと」
ユークは黙って相手の手を見ていた。荷はない。供もいない。売り買いの話をしに来た者の身なりではなかった。
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長くはいなかった。
フェンウィックは砦の中を一度だけ見回し、それから中枢のある方角へほんの短く目をやった。数字の頁ではなく、そちらを見た。ユークはその視線の向きをはっきりと拾った。
去り際に男は一言だけ置いていった。
「読まれましたか」
それだけだった。何を、とは言わない。答えを待つ様子もない。フェンウィックは丁寧に頭を下げて、上ってきた坂を静かに下りていった。
ユークはその背が見えなくなるまで台の前に立っていた。
「……登録の話しなかったな」
背後でミレアが筆を止めていた。
「一言も」
「あの男が数字の頁を素通りした」
ミレアは頷いた。前のフェンウィックをこの砦で誰より近くに見ていたのはミレアだ。その頷きにはユークと同じ引っかかりが乗っていた。財しか見ない目が財を見なかった。それはこの男が今日は財を取りに来ていないという意味だった。
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ザグレスが坂を上ってきたのはその日の午後だった。
噂の温度を確かめに、数日前からラスティアの側に下りていた。街道を上ったあの言葉が上でどう独り歩きしているかを聞き回っていたのだという。前砦の卓に腰を下ろすなりザグレスはユークの顔を見て眉を寄せた。
「なんかあったな」
「勘定方が来た。朝に」
ユークはフェンウィックが数字を素通りしたことと去り際の一言をそのまま伝えた。ザグレスは腕を組んで、しばらく黙って聞いていた。
「そいつ、前は金の話しかしなかったんだろ」
「財にしか関心がない男だった。俺もミレアもそう読んでた」
「その男が金の話をせずに坂を上ってきた」
ザグレスは低く笑った。笑ったが、目は笑っていなかった。
「値のつくもんに人は動く。だが今日のそいつは値を見に来てねえ。……値じゃねえもんのためにわざわざ坂を上ってきたわけだ」
ザグレスは卓を指で一度叩いた。
「値じゃなきゃなんだ。痛みだよ。こいつの後ろの主にとって灰環の中身は儲けじゃねえ。持ってきゃ得するもんならあの手の男はとっくに囲いに来てる。囲いに来ねえで様子だけ見に来る。……痛えんだ。触りたくねえほど痛え」
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痛い、という言葉がユークの中で一つの記憶に触れた。
春先の配分の枝に何かが這った夜だ。床すれすれを小さなものが送り込まれ、枝の締まりがわずかに狂った。あのときは群れの噛み合いで人的被害を出さずに収めた。村の水も涸らさずに済んだ。ユークはあれを登録を急がせるための一手だと読んでいた。灰環に事故を起こし、こちらが不安になったところへ、安定の紙を差し出す。そういう筋書きだと。
だが痛みだとすると筋書きの向きが変わる。
「……急がせる手じゃなかったのかもしれない」
ユークは低く言った。
「あの夜のあれはこっちを不安にさせるためだと思ってた。でもそうじゃない。枝を狂わせて、押さえを少しずつ緩ませる手だったとしたら——辻褄が合いすぎる」
ミレアが顔を上げた。
「緩ませてどうするんです」
「事故に見せて、灰環をゆっくり弱らせる。急いで壊すんじゃない。放っておけば勝手に緩んで、いずれ死ぬ。誰かが討ったわけでもない、野良迷宮がひとりでに終わっただけ——そういう終わり方をさせる手だ」
卓の上に下の重い流れの脈の記録が広げたままになっていた。ユークはその太い線に目を落とした。押さえが緩めば、この流れが動く。動けば、土地が沈む。その順番を灰環はもう教えてくれている。
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「奪いに来てなかったんだ」
ユークは言った。
「監督院は資格を剥がしに来た。勘定方は地所として囲いに来た。どっちも灰環から何かを持っていこうとしてた。持っていく相手なら通さなければ足りる。あの夜も越権の記録だけ残して通さずに終わらせた」
ザグレスが先を継いだ。
「今度のは持っていこうとしてねえ」
「なかったことにしに来てる。……奪う相手には通さないで足りた。消す相手には通さないだけじゃ足りない」
ミレアが筆を置いた。
「消す、というのは。灰環をですか」
「灰環を、というより——灰環が何なのかをだ」
ユークは脈の記録の端を指でそっと押さえた。
「灰環が本当に土地を鎮めてるなら、討伐で家の名を立ててきた側にとってこれは資産じゃない。自分たちのやってきたことがそのぶん間違いだったっていう紙だ。持ってても得しない。むしろ消えてくれたほうがいい。だから奪いに来ない。緩ませてひとりでに終わらせて、なかったことにしたい」
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言いながらユークは一つ腑に落ちないところで足を止めた。
灰環が本当に鎮めなら——灰環を消した側の土地もいずれ沈む。押さえが緩めば下の流れは相手の領地の下でも動く。消せば得をするどころか、消した本人の足元が痩せる。それでも消しに来るというなら相手は三つのうちのどれかだ。灰環が消えても沈まないと思っているか。沈んでも構わないと思っているか。あるいは——沈むかどうかをそもそも確かめていないか。
ユークにはまだそのどれかが分からなかった。
「わざわざ坂を上ってきて、様子を見て『読まれましたか』とだけ置いていった」
ユークはフェンウィックの去り際を思い返した。
「読まれたかどうかを確かめに来た。……こっちがもう知ってるなら緩ませて終わらせるやり方は通じなくなる。知らないうちに緩めば事故で済むが、知られた後に緩めばそれは仕組まれたことになる」
ザグレスが低く唸った。
「じゃあ今日のは、こっちの手札を数えに来たわけだ。金勘定はしねえが、手札の数だけは数える。……いやな客だな」
「いやな客だ」
ユークは頷いた。奪いに来る客なら、扉を締めればいい。だがこの客は扉の外に立って、中に何があるかを確かめずに帰った。確かめずに帰ったということは、確かめずに済む手をまだ後ろに持っているということだった。
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翌々日の昼だった。
シルクスの糸が坂の下で震え、その報せが砦へ上ってきた。一人ではない。数人が連れ立ってまっすぐこの前砦を目指して上ってくる。荷は軽い。だが、歩調がそろっている。
ユークが受付台へ出ると、ザグレスも卓を離れて外を見た。坂の途中に一行の姿があった。勘定方の使者の身なりではない。監督院の査察の装いでもない。もっと静かで、もっと格の高い見慣れない一団だった。
ザグレスの顔から皮肉が消えた。
「……本人が来やがった」
その声が、いつになく低かった。




