第112話 消せない形
二度目の震えが止んでも、ユークは席を立たなかった。
立って走ればそれは追う動きになる。追えば逃げる。逃げた先で暴れる。どちらも避けたかった。ユークは卓についたままパスの奥へ意識だけを流した。
シルクスの糸はもう鳴っていない。鳴りやんだ位置だけが残っていた。中枢へ向かう分岐の床すれすれに張った古い一本。そこを何か小さいものが這って通り過ぎた感触だった。
春先と同じだ。あのときは配分の枝が狂った。今度は枝ではない。
ユークは先に狙いを決めようとした。守る場所を間違えれば守り切っても負ける。
枝を狂わせる手なら水位に触れる。だが今夜の這うものは水路のほうへは向かっていない。分岐から奥、細い下り口のほうへ寄っていた。
あの下り口は深いところの実物まで人が降りられる唯一の道だ。塞がれれば二度と誰も降りられない。
ユークは指を止めた。
狙いは押さえそのものではなかった。押さえを壊せば土地が沈む。壊し方は誰も知らないし壊したい者もいない。相手が消したいのは押さえではなく、押さえがそこにあると確かめる手立てのほうだ。
降りられる道を塞ぎ、卓の綴りを焼く。それだけで灰環が本当は何かを誰も確かめられなくなる。あとは水が細るのを待てばいい。沈むのはずっと先で〈人口減〉の一行にしかならない。
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ミレアが灯を持って卓の向かいに座った。
「奥ですか」
「奥だ。下り口を塞ぎに来てる」
ザグレスは戸口の柱に背を預けたままだった。卿を見送ってからまだ発っていない。
「押さえを壊しに来たんじゃねえのか」
「壊さない。壊せば自分の畑まで沈む」
ユークは脈の記録の端に指を置いた。
「確かめられなくすればいいだけだ。灰環は放っておいても細って死ぬ」
ザグレスが柱から背を離した。
「じゃあ今夜のは何を潰しに来た」
「道と、紙だ」
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ユークは動かす順を頭の中で組んだ。
最初はルーメだった。這うものは壁の魔力の濃淡を頼りに道を選ぶ。頼りにするものを揺らせば細い下り口の在処が読めなくなる。
分岐の苔が明滅の間をずらした。湿りの濃淡が入れ替わり、道筋の輪郭がぼやける。ルーメは戦わない。道のほうを分からなくするだけだ。
次にモルトが下り口の手前の窪みへ泥を寄せた。食べるためではない。薄く延ばして足場を鈍らせる。這うものはそこで進みを落とした。速さを削るだけで傷はつけない。
フェズは正面へは出なかった。這うものの脇に幻の匂いと足音を置いて、下り口とは逆の、外へ抜ける古い横穴のほうへ気を引く。
逃げ道を一本だけ空けておくのがフェズの役だった。追い詰めれば暴れて壁を掘る。掘られれば塞ぐより早く道が変わる。だから詰めない。抜けられる隙間を残してそちらへ流す。
グランは下り口には手をつけなかった。触れたのは這うものが入ってきた側の低い庇だけだ。落としてよいだけの石を落として来た道を細める。深いほうへは指一本入れない。そこを掘れば押さえが緩むと、グランの手の感触が先に知っている。ユークはその感触を信じて締める側だけを許した。
パスの向こうで這うものが向きを変えた。塞ぐべき下り口を見失い、鈍った足で、空いている横穴のほうへ逃げていく。
五体はどれも力では勝っていない。ルーメは道を隠しただけ、モルトは足を鈍らせただけ、フェズは逃げ道を作っただけ、グランは来た道を細めただけだ。一体で仕留めた者はいない。噛み合って初めて、殺さずに退けるという一つの仕事になった。
誰も殺していない。誰も奥へは入れていない。傷一つついていない。
残ったのはシルクスが並べ直した跡だけだった。
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朝、ユークはその跡を春先の控えの隣へ置いた。
入り方が同じだった。床すれすれ、同じ高さ、同じ寄せ方の石。一度目は事故の形をしていた。二度目が同じ形で来れば、事故ではなく手だ。二つ並べて初めて一つの手の癖が見える。
ミレアが二枚を突き合わせて控えた。
「同じ手ですね」
「並べればな。……並べただけだ」
ユークはそこで手を止めた。物のほうは守り切った。だが守り切れないものがまだ卓の上にある。
卓には綴りが積んであった。灰環が何を押さえているか、脈がどう通っているか、村の水がどこから溢れているか。読み解いてきたものが、この一束に入っている。
群れは道を守れる。人を通さず、傷つけず、殺さずに退けられる。だが紙は守れない。
「紙は焼ける」
ユークは言った。
「今夜みたいな手が、次は下り口じゃなくてこの卓に来る。一冊なら一晩で消える」
ミレアが束の背に触れた。
「一冊だから消せるのですね」
「そうだ。なら一冊にしない」
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ミレアはすぐには頷かなかった。筆を置いて束を二つに分けた。
「写しを配れば、閉じると決めたものまで外へ出ます」
それは前に線を引いた話だった。深いところの実物の形、脈の通り方。それを写しに入れれば押さえの外し方を教える紙になる。守るために配ったものが壊す手順の見本になる。
「入れない」
ユークは分けられた束の片方だけを手前へ寄せた。
「深いところの形は一枚も出さない。出すのは土地が痩せる順番のほうだけだ」
迷宮を落とした翌年に井戸が濁り、街道が荒れ、人が減る。北の村でもその前の村でも同じ順で起きている。灰環の周りではまだ起きていない。それだけの帳面なら押さえの在処を一言も書かずに作れる。土地がなぜ痩せるかを問う紙であって、灰環の奥を晒す紙ではない。
ミレアは片方の束をもう一度繰って、深いところに触れた頁を抜いた。抜いた頁は卓の上に残し、残りを写しはじめた。
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写しは同じ形で何通も作られた。
ザグレスが仕上がった束を数えた。
「クルン村のオドル、ラスティアのドーラン、坑区のグニェル、それと冒険者の受けが一つ。……四つか」
「同じ夜に四つとも焼けるやつはいない」
ユークは言った。
「一冊なら盗んで燃やせる。四つを別々の家に置けば、消すには四軒を同じ晩に襲うしかない。そこまでやれば事故の顔はできなくなる」
ザグレスが低く笑った。
「なるほどな。焼くほど、焼いたことが残る仕掛けか」
「消しに来る相手には通さないだけじゃ足りない。消せない形にしておくしかない」
ミレアは配る前に写しを一通ずつ最後まで読んだ。深いところの形が一行も紛れていないことを確かめてから背を綴じる。
「これは土地の話しかしていません」
「それでいい」
「灰環の名は真ん中に置いていません。端に一度だけです」
「それでいい。真ん中に置いた瞬間に、また灰環の値踏みが始まる」
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束が四つに分かれてそれぞれの手へ渡っていった。
ザグレスが最初の一つを背負い、夜のうちに坂を下りた。オドルは水を取りに来た荷のいちばん下へ写しを入れて村へ運ぶと言った。残りはドーランとグニェルの帳面のあいだへ、ただの控えの顔をして紛れていく。
卓の上の綴りは一冊のままだ。だが同じ形のものが、もう灰環の外で四つ息をしている。今夜の手が卓を焼いても話は残る。灰環が本当は何かを確かめる手立ては、もう灰環だけのものではなくなった。
ユークは下り口の方角を見た。塞がれずに済んだ細い道は、まだそこにある。実物に触れられる者が、まだいなくならずに済んだ。
守るということが、閉じることではなくなった夜だった。閉じたまま守れば一晩で消える。開いてしまえば値踏みが始まる。そのどちらでもない置き方が、ようやく一つ見つかった。
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数日して、写しの一つが手を伝って思わぬところへ届いた。
返事が一通、砦へ来た。四つの手のどれでもない。
封には監督院の印があった。差出はヴェッセルの名だった。




