第107話 別の帳面
朝のうちに、ミレアは卓の上を空にした。
綴りも算盤も端へ寄せて、真ん中に白い紙を二枚置いた。どちらにも書き込みはない。欄と凡例だけが刷ってある。
「様式です」
「白紙のか」
「監査部にいた頃、書き損じ用に配られていたものです。中身のない紙なら持ち出しても咎められません」
左の一枚が監督院の処分票だった。ユークは指で欄をなぞった。迷宮名。所在。危険等級。採集等級。安定運用等級。調査の日付。処分の別。決裁の名。いちばん下に備考の欄がひとつある。
その備考の脇に、小さな字で注記があった。
――処分の実施に関することのみ記すこと。
「実施に関することのみ、か」
「処分票は処分の紙です。落とすまでを書いて、落としたら閉じます」
「落としたあとの土地は」
「書く場所がありません」
ユークは紙をもう一度上から下まで見た。欄は十以上ある。どれも埋める場所がきちんと決めてある。埋めれば埋めるほど正確な紙になる。そしてこの紙をどれだけ正確に書いても、落とした先の村がどうなったかは一字も残らない。
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右の一枚は、村が毎年領へ出している届けの様式だった。
その脇に、綴じた冊子がもう一つ置いてある。クルン村の控えだ。朝の便で、井戸の当番のついでに寄ったという顔で、リクが受付台に置いていった。
「うちの書役が写しを取ってる」
「助かる」
「……水は戻ってる」
リクは帰りぎわに一度だけ振り返った。
「次のぶんは、まだ言ってこないのか」
「言えるようになったら言う」
ユークは受付台の内側から答えた。
「何を買うのか分からないうちは、二日目はもらえない」
リクは何か言いかけてやめ、井戸のほうへ下りていった。
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村の届けは、処分票とはまるで違う様式だった。
戸数。田畑の反別。納めの高。水汲みの場所。そのあとに増減の理由を書く欄がひとつある。
欄の下に凡例が刷ってあった。
――一、不作。二、疫。三、火災。四、他所への移り。五、その他。ただしその他は上の四つに当てはまらぬ場合に限り、事由を十字以内で記すこと。
「十字」
ユークは声に出した。
「十字以内だ」
「集計の紙ですから。長い事情は数えられません」
ミレアは冊子のほうを引き寄せて、クルン村の去年の頁を開いた。理由の欄には五が丸で囲ってあり、その横に村の書役の字で短く書かれていた。
――井戸濁り。
五文字だった。凡例の許す範囲でいちばん遠くまで書いてある。
「書いてる」
ユークは紙から目を離さなかった。
「村は、ちゃんと書いてるじゃないか」
「書いています」
ミレアは自分の綴りのほうを引き寄せた。北の村の頁だ。監査部が領の台帳から写した最後の一行。
〈人口減〉。
「上へ行くあいだに、落ちたんです」
ミレアの指が二枚のあいだを行き来した。
「村の届けは十の村ぶんまとめて領の台帳へ写されます。そのときの様式には、理由の欄がありません。戸数の増減だけを集めて年ごとに並べる紙ですから。……〈井戸濁り〉は、写す紙のほうに置き場がなかったんです」
「誰かが消したんじゃなくて」
「消していません。写した書役は、写せる欄へ写せるものを写しただけです」
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ユークはしばらく何も言わなかった。
二枚の白紙のあいだに立っているのは、叩ける誰かではなかった。
処分票を書いた役人は正確に書いた。村の書役も正確に書いた。領へ写した者も正確に写した。三人とも、自分の紙の上では完璧に仕事をしている。
「……直すとしたら」
ユークは低く言った。
「誰を叩けばいい」
ミレアは答えなかった。かわりに白紙を二枚、指一本ぶんの隙間をあけて並べ直した。
「ここです」
ミレアは隙間を指した。
「ここに置く紙を、こちらで作ります。……どの役所の様式でもないものを」
卓の上に、何も置かれていない指一本ぶんの空白ができた。
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昼過ぎ、ドーランの荷馬車が坂を上ってきた。
グニェルもちょうど定期の納めで前砦に来ていた。ユークは二人を受付台の前に呼んで、帳面を見せてもらえないかと言った。
ドーランは露骨に嫌な顔をした。
「中は見せねえぞ。値も仕入れ先も商売の内だ」
「値はいらない。荷の数と行き先だけでいい」
ドーランはしばらく革の鞄を撫でていたが、やがて厚い帳面を引き出して、勝手にめくれと言うように卓へ放った。
年ごと、村ごとに、運んだ荷の数が並んでいる。ユークは北の村の名を探した。
あった。十年ぶん。上から順に、行が短くなっていく。二年めで半分になり、四年めで三行になり、六年めから先は名前だけが残って数字がない。
そしてその同じ頁の下のほうに、灰環の名で樽の数が並んでいた。
「そっちは伸びてる」
ドーランは煙管の先で頁を叩いた。
「北が枯れて、こっちが伸びた。俺の帳面にゃそれしか書いてねえ。だがな、村がなくなりゃ荷が減る。迷宮が死のうが役所がどう書こうが、俺には関係ねえことだ。……関係ねえのに、樽の数だけは両方のせいで動く」
グニェルが横から自分の帳面を開いた。
「俺のはもっと露骨だぞ」
採った量。村の井戸の水位。街道の荷の値。三つが同じ頁に、同じ日付で並んでいた。
「役所は分けたがるが、商いは分けられん。井戸が濁った年は人が減って、人が減りゃ荷が減って、荷が減りゃ街道が荒れて、荒れりゃ俺の運び賃が上がる。……全部つながってるのを別々に書いたら損をするだけだ」
ユークは二冊の帳面を見下ろした。
役所が跨げない因果を、この二冊は最初から跨いでいた。正しさのためではない。分けて書いたら商いが立たないからだ。だからこの形は、誰にも命じられずに何十年も続いてきた。
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「正式ではありません」
ミレアの声は冷たいというより、正確だった。
「監督院の様式でも、領の様式でもありません。どちらへ出しても様式外として一度は突き返されます。受理の印を押せる欄がそもそもないのですから」
「押させる必要があるか」
ユークが訊くと、ミレアは少し黙った。
いつのまにか奥の椅子にザグレスが座っていた。定期の報せを置きにきた帰りらしい。椅子を後ろへ傾けている。
「突き返されるのは最初から分かってんだろ」
ザグレスは天井を見たまま言った。
「問題は、突き返されたあとに残るかどうかだ」
ユークは白紙の二枚と、商人の帳面二冊を見比べた。
正式な一冊を作ろうとすれば、どちらかの様式に合わせることになる。処分票の形に寄せれば土地の欄が落ちる。届けの形に寄せれば迷宮の欄が落ちる。合わせた瞬間、また二つに割れる。
「合わせない」
ユークは言った。
「正式な一冊は作らない。跨いだままの形で書く。……そのかわり、一冊にしない」
ミレアの筆が止まった。
「同じ形の紙を、同じ中身で、置く場所を増やす。村に一冊。ラスティアのドーランさんに一冊。坑区に一冊。ここに一冊。突き返す役所があっても、突き返した先が空になるわけじゃない」
「様式外の紙が、四つになるだけです」
「四つになる」
ユークは頷いた。
「どこの役所のものでもない紙は、どこの役所にも取り上げられない。……いまはそれで足りる」
ミレアはしばらく考えてから、新しい頁を開いた。
「写しの形をそろえておきます。四冊が別々の書き方になっていては、四冊とも別の紙になってしまいますから」
ドーランが鼻を鳴らした。
「預かるのはいいがな。俺は読めねえぞ、そんな面倒な字は」
「読まなくていい」
ユークは言った。
「持っていてくれるだけでいい」
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夕方、床が短く震えた。
グランが下から上がってきていた。爪の先に黒い泥が固まっている。旧保守導線の下の点検に出したまま、二日戻っていなかった。
パス越しに感触が来た。
重い。狭い。細い。
ユークは受付台を離れて、階下へ下りる口のところまで歩いた。掘角竜は途中で足を止めたまま、同じ感触をもう一度送ってくる。
――一本。
「一本だけあるのか」
返ってきたのは肯定でも否定でもない、押し返されるような重さだった。行けるとは言っていない。ただ、そこに道があると言っている。
ユークは足元の岩を見下ろした。
紙の上で跨げるのは、ここまでだった。七つの村はもう死んでいる。掘り返して見せることはできない。残っているのは相関だけで、それを因果に変えられるものは灰環の実物しかない。
その実物を、まだ誰も見ていない。
「ミレア」
ユークは階下を見たまま呼んだ。
「明日、下りる」




