第108話 水の下
夜明け前に、下りた。
グランが二日ぶりに上がってきて告げた道は、旧保守導線の突き当たりから、さらに下へ折れていた。これまで一度も足を入れたことのない向きだ。導線を保守のために掘った者が、そのもっと下に別の道があるのを知っていて、あえて繋げずに残したような折れ方だった。
口は狭い。人ひとりが肩をすぼめてやっと通る幅しかない。
「先に行ってくれ」
ユークはグランの背へ手を置いた。掘角竜は角の先で壁の一点を軽く突いてから、ゆっくりと体を沈めて先へ入っていった。崩れそうな岩を先に読んで、通ってよい線を体で示す。ユークはその通ったあとだけを踏んだ。
ルーメが頭の上を漂って、行く先を淡い緑で撫でている。灯りというより、道の湿り具合をあらかじめ見せておく光だった。
モルトは殿についていた。狭いところは苦手なはずだが、今日は文句も言わない。ユークが連れてきた理由は照らすことでも掘ることでもない。下に何が淀んでいるかを、鼻先で読ませるためだった。
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降りるほど、静かになった。
迷宮の下は、いつもどこかで水が鳴っている。配分槽へ落ちる音、枝流路をなぞる音、壁の裏を伝う滲みの音。それが灰環という場所の、いちばん奥の呼吸だった。
その音が、消えていく。
ユークは足を止めて耳を澄ませた。乾いているわけではない。壁は湿っているし、ルーメの光も湿り気を拾っている。水はある。あるのに、鳴っていない。
「……動いてないのか」
声が思ったより近くで返ってきた。天井が低いせいだ。
動いていないのではない、とすぐに思い直した。止まった水は淀んで臭う。ここの空気にその臭いはない。モルトも鼻を鳴らしていない。水は動いている。ただ、鳴らないように動いている。
それは、押さえられている音だった。
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いちばん下と呼べる場所へ着いたのは、ずいぶん長く下ってからだった。
広くはない。天井は手を伸ばせば届くほどで、床は一面、黒く濡れた岩だった。ルーメの光がその床を撫でると、脈が浮かんだ。
ユークはその脈の形を見て、動けなくなった。
配分の幹は、この砦の底から出ていると、ずっと読んでいた。だがここに浮かんでいる脈は、その幹よりさらに下から来ている。床の岩の、そのまた向こうだ。太い。配分の幹が指なら、これは腕ほどある。そしてその太い流れが、床の下で、ほとんど動いていない。
動いていないのではない。
ユークは床に膝をついて、掌を岩へ当てた。
重い。
水の流れというより、大きなものが身じろぎしようとして、そのたびに上から押さえ返されている感触だった。押す、抑える、また押す。ごく緩やかに、しかし絶えず。足の裏どころか、膝の骨に響いてくる。
「これは、配ってる水じゃない」
ユークは低く言った。
村の井戸へ届いているあの水は、これのことではなかった。あの水はもっと軽い。この下の流れは、井戸へ通すには重すぎるし、多すぎる。
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グランが、床の一点を角の根元でこすっていた。
パス越しに、いつもと違う感触が来た。掘るときの手応えでも、崩れそうな場所を避けるときの警告でもない。もっと戸惑いに近い、確かめ直すような重さだった。
「どうした」
ユークが問うと、グランはもう一度同じ場所をこすって、それから床全体を角でなぞった。
――組んである。
言葉ではない。だが、そう伝わった。
ユークは床を見回した。黒い岩は、一見どこも同じに見える。だが掘る者の目には違うのだろう。グランがなぞった線に沿って見ていくと、岩の目が不自然に揃っている。自然に割れた岩は、割れたい向きへ勝手に割れる。ここの岩は、割れたくない向きへ、無理やり噛み合わされていた。
「誰かが積んだのか」
――積んだ。ずっと下まで。
グランの角が、床から天井へ、それから壁の四方へと向いた。この部屋は掘った穴ではない。組んだ器だった。下の重い流れが上がってこないように、岩を意図して噛み合わせ、上から蓋をしている。灰環は、この蓋の上に建っている。
いや、と、ユークは思い直した。
蓋の上に建っているのではない。灰環そのものが、蓋だった。
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しばらく、誰も動かなかった。
ルーメの光だけが、床の脈をゆっくりとなぞっている。その脈は、部屋の隅で細い一本に分かれて、上へ立ち上がっていた。ユークはそれを目で追った。細い枝は、天井の裂け目へ吸い込まれて消えている。行き先は分かっていた。この上だ。配分の幹へ合流し、槽へ落ち、村の井戸へ届く。
押さえて、溢れたぶんだけを、上へ逃がしている。
その溢れが、村の水だった。
「……ミレアの言ったとおりだ」
ユークはつぶやいた。配分は本体ではない。この重い流れを押さえ込む仕事があって、その押さえから溢れた余りが、たまたま外へ通じていた。順番が逆だったのではない。初めからこうだった。誰かが、逆に読んでいただけだ。
確かめたい、と思った。
この蓋の下に何があるのか。どれほど重いのか。岩を一枚外して、下を覗けば分かる。ルーメの光を差し込めば、脈の底まで写せる。手が、床の継ぎ目へ伸びかけた。
その手を、グランが角で押し返した。
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強い力ではなかった。だが、はっきりと押し返された。
パス越しに、限界線が来た。
――ここまで。これより下は、緩む。
ユークは手を止めた。
グランの角が、床の継ぎ目を一つずつ示していく。この一枚を外せば、隣が動く。隣が動けば、その下が動く。組んだ器は、一枚を抜けば崩れるように積んである。抜いてよい石は、一つもない。掘る者だからこそ、それが分かる。掘れる場所と、掘ってはいけない場所を、グランは同じ目で見分けていた。
「……外したら、押さえが緩むのか」
――緩む。戻せない。
ユークは伸ばしかけた手を引いた。
確かめれば、緩む。緩めば、この下の重い流れが動く。動けば――そこから先を、ユークはまだ知らない。知らないが、知らないまま外していい継ぎ目でないことは、膝の骨に響くこの重さが教えていた。
見たい、と、確かに思った。だが見るために外すのは、読むために井戸を細らせるのとは、わけが違う。細らせた井戸は、翌日には戻った。この石は、戻らない。
「引く」
ユークは立ち上がった。
「見えたぶんで足りる。……いや、足りない。だが、足りないままで持って帰る」
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戻り道は、来た道より長く感じた。
モルトが途中で一度立ち止まって、床の隅を鼻先で示した。淀みの底に、細かい沈殿が積もっている。ここへ来る水は、鳴らないぶん、澱む。押さえるということは、流れを殺すことでもあった。モルトはその澱みを腹へ入れながら、殿を務めた。三日までなら濁らせずに済む、と前に言ったその腹の底が、ここでも一つ働いていた。
ルーメは登りながら、脈の形を写し続けた。意味は読まない。ただ、この下の流れがどれほど太く、どれほど深くから来ているかを、光の記録に正確に刻んでいく。あとで卓の上に並べれば、誰の目にも同じ形が見えるように。
旧保守導線まで上がって、狭い口をくぐり抜けたとき、ユークは一度だけ後ろを振り返った。
下から、あの重さはもう届かない。だが確かに、いまも下で押している。灰環がここに建っているかぎり、ずっと。ハズレの野良迷宮と呼ばれ、帳簿から落とされ、誰にも見向きされなかった年月も、この蓋は一度も休まずに、下を押さえ続けていた。
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砦へ戻ると、ミレアが受付台で待っていた。
「見えましたか」
「見えた」
ユークは記録帳を卓に置いた。まだ何も書いていない。書く前に、確かめたことを声にしておきたかった。
「灰環は、水を配る迷宮じゃない。……下に、重い流れがある。それを上から押さえてる。押さえた余りが、村の井戸へ行ってた。順番じゃない。初めからそういう建物だ」
ミレアは筆を取らなかった。取らずに、しばらくユークの顔を見ていた。
「押さえ、ですか」
「押さえだ。……外せば緩む。緩めば、たぶん戻せない。グランが止めた。あいつが止めなきゃ、俺は継ぎ目に手をかけてた」
ミレアは頷いて、それから中枢のほうへ目をやった。
「では、あとは一語だけですね」
接続。循環。配分。その前に、まだ半分を霧に沈めた一語がある。見えているのに読めない、あの字だ。
「村が、最後の一日ぶんを承知してくれた」
ミレアは静かに言った。
「今夜、払われます」
その夜、ユークは中枢の暗がりに立った。
枝の締まりが緩んで、字が下から押し上げられる。井戸端で一日ぶんと決めた、その最後の一日だ。村の畝が、今日も二列、乾いている。
霧が、動いた。
半年動かなかったものが、今度は途中で止まらなかった。




