第106話 人口減という一行
古い綴りは表紙を開くまでに少し間があった。
ミレアは糸の色褪せた背を左手で押さえ、右の指を扉のところに掛けたまましばらく動かさなかった。開くかどうかを迷っていたのではない。開けばこれがどういう紙かを言葉にしなければならなくなる。その順番を頭の中で先に組んでいる手つきだった。
やがて表紙が起きた。
「北の街道ぞいの村です」
ミレアは最初の頁を卓の上でユークのほうへ向けた。
「名は残っています。人はもうほとんど残っていません」
頁には監査部の様式で数字が並んでいた。年ごとの戸数。年ごとの水汲みの場所。年ごとの街道を通った荷の数。どれも監査の書き方で余計なことは一言も書いていない。
「迷宮を一つ落とした村です」
ミレアは指を頁の上のほうへ置いた。
「討ったのではありません。低価値と裁定して帳簿から落とした。……灰環とよく似た筋です」
「落とした翌年は」
「井戸が濁っています」
ミレアの指が一段下がった。
「その次の年、水汲みの場所が沢へ移っています。さらに次の年、沢も細って戸数が半分になりました。……最後の頁に領の台帳から写した一行があります」
ユークはその頁を見た。
〈人口減〉。
三文字だけだった。なぜ減ったのかはどこにも書いていない。書く場所がなかった、というふうにその一行は他のどの数字よりも短かった。
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ユークはしばらくその三文字から目を離さなかった。
どこかで見た並びだった。井戸が濁り、汲む場所が変わり、それでも足りずに人が出ていく。順番まで覚えがある。
「……ミレア。ほかにもあるのか」
「あります」
ミレアは頁をめくった。次の村。次の村。数は多くなかったが、少なくもなかった。
「切り捨てられた迷宮のそば、討たれた迷宮のそば。私が控えていられた範囲で七つ」
「七つとも、同じか」
「同じです」
ミレアの声は平らなままだった。
「濁る、移る、細る、減る。その順で。……早い村で三年、遅い村で六年。順番だけはどれも動きません」
ユークは椅子の背から身を起こした。
七つの村が同じ順で痩せている。そして灰環の下のクルン村がかつて辿りかけた道も寸分たがわず同じ順だった。井戸が濁り、沢へ移り、半分の家が出た。あの村だけは灰環が死に切らなかったおかげで途中で止まっただけだ。
「よくある話だと言われる」
ユークは低く言った。
「辺境の村が縮むのは珍しくない。役所ならそう書く」
「書きます」
「だが、よくありすぎる」
ユークはその言葉を口の中で確かめた。よくあること、で片づけられてきた。よくあることの中に同じ順番が七つ隠れていた。誰も並べて見なかったからよくあることのままだった。
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その夜、ユークは一度だけこの紙の使い道を悪いほうへ転がしてみた。
これは効く。追放も、切り捨ても、灰環を低価値と裁いた筋も、七つの村の痩せ方が裏で繋がっていると並べればこちらの正しさが立つ。監督院へ突きつける材料になる。晴らすつもりはないと決めていたが、材料としては申し分ない。
考えて、すぐに手を止めた。
晴らすために並べればこれは逆恨みの紙になる。追われた男が追った側を後ろから刺すための証拠集めに見える。そう見えた瞬間、七つの村の一行は村のものではなくユークの私怨のものになる。
村を、材料にしてはいけない。
「使うなら、別の顔でだな」
ユークはミレアに言った。
「灰環と繋げて出さない。……〈土地が痩せるのはなぜか〉。それだけを先に立てる。俺の話も、追放の話も、後ろへ置く」
「同意します」
ミレアは頁を閉じずに答えた。
「私もその顔でしか出せないと思っていました。灰環の恨みの証しとして出せば正しくても信じられません。土地の話として出せば恨みを持たない人間も自分の村の井戸を思い出します」
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翌日、ザグレスが砦の卓の端に腰を下ろして七つの数字を眺めた。
長いあいだ指で頁の縁をはじいていた。
「紙は崩されるぞ」
最初にそう言った。
「役所ってのは紙で殴られるのに慣れてる。数字を七つ並べられたってたまたまだと言や済む。並んでるのがどうしたってな」
「崩されないものがあるか」
「井戸端の話だ」
ザグレスは煙草をくわえたまま火をつけなかった。
「北の村にまだ半分残ってるんだろう。そこの年寄りが濁った年のことを覚えてる。役所の紙は『人口減』の三文字だが、井戸端じゃもっと長い。誰が最初に町へ出たか、どの畝から先に枯れたか、全部順に喋れる。……紙は消せても口は消せねえ」
「口も、たまたまと言われる」
「一人ならな」
ザグレスは頁を指で叩いた。
「七つの村の年寄りがみんな同じ順を喋ったらたまたまじゃ済まねえ。役所の紙と井戸端の話が同じ形をしてる。それを崩すには七つの村の口を全部ふさぐしかねえ。……そこまでやったらそれこそ何か隠してますって白状してるようなもんだ」
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ユークはその足でクルン村へは下りなかった。
下りる前に確かめておきたいことがあった。あの井戸端でリクが話したことがある。灰環が帳簿から落とされた翌年に井戸が濁り、汲む場所を沢へ移し、その沢も細って、半分の家が町へ出た——そう話した。あのとき村は水を探すことしかしなかったと。なんで濁ったのかを誰も調べなかったと。
ユークはミレアの綴りの北の村の頁を開いた。
濁る。移る。細る。減る。
リクの話した順と一字一句同じだった。
あの子——若い働き手がじいさんから聞いたと言って井戸端で話した順番はミレアが監査部で控えた北の村の数字とまったく同じ形をしていた。片方は村の口が覚えていて、片方は役所の紙が残していた。別の場所に、別の言葉で、同じ順番が二つあった。
「合ってる」
ユークは低く言った。
「北の村の一行とクルンの井戸端の話が。……同じ順だ」
「合っていても」
ミレアは筆を止めなかった。
「並んでいるだけです。濁ったから減ったのか、たまたま濁った年とたまたま減った年が近かっただけなのか。それを分けるものがこの紙にはありません」
「相関でしかない、か」
「相関でしかありません」
ミレアは正直だった。
「七つ並べてもたまたまが七つ重なったと言われれば、返せません。因果を示すものがどこにもないのです」
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卓の上が静かになった。
ユークは七つの村の数字と灰環の配分の記録をなんとなく並べて置いた。片方は死んだ迷宮の跡。片方はまだ動いている迷宮の帳面。
並べて、気づいた。
「……ミレア。七つとも、もう死んでる」
「死んでいます」
「死んでるから確かめようがない。井戸が濁ったのは迷宮を落としたせいだと言ってもその迷宮はもうない。掘り返して見せられない」
ユークは灰環の記録のほうへ指を移した。
「一つだけ、生きてるのがある」
ミレアが顔を上げた。
「灰環です」
「灰環だ」
ユークは自分の声が少し低くなるのを感じた。
「七つは跡しか残ってない。だが灰環はまだ動いてる。押さえてる最中の現物だ。……七つの村で起きたことと、灰環が押さえてるものを突き合わせられるとしたら、突き合わせられるのは灰環だけだ」
「生きているうちに、ですね」
「生きてるうちに」
言ってからユークは奇妙な気分になった。灰環が生きているということが証しになる。死んだ七つと違って、灰環はまだ余りを外へ逃がし続けている。その余りが村の井戸を潤している。もし灰環が死ねば、この村も八つ目の〈人口減〉の一行になる。
証しはこの村の井戸そのものだった。
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ミレアは七つの頁と灰環の記録を一枚ずつ横へずらして見比べていた。
途中で筆が止まった。
止まったまましばらく動かなかった。ユークがそちらを見ると、ミレアは二つの綴りの背のほうを交互に見ていた。監査部の様式の綴りと領の台帳から写した一枚。
「どうした」
「様式が」
ミレアは二つを卓の上で並べ直した。
「迷宮を落とした記録は監督院の台帳です。処分の欄まではあります。落とした、で終わっています。その後の土地のことは書く欄がありません」
ミレアはもう一枚を、その隣へ置いた。
「人が減った記録は領の台帳です。〈人口減〉まではあります。ですがなぜ減ったかを書く欄がこちらにもありません」
ユークは二枚を見比べた。
片方は迷宮のことしか書けない。片方は土地のことしか書けない。二つは別の役所の、別の様式の、別の帳面だった。
「繋ぐ欄が」
ミレアの声が、はじめて少しだけ乾いた。
「どちらにもありません。迷宮を落としたことと、土地が痩せたことを同じ紙の上で並べる場所が……この国のどの台帳にもないのかもしれません」
ユークは二枚の紙を見下ろしたまま動かなかった。
誰かが隠したのではない、と思った。書き換えたのでもない。ただ迷宮の帳面と土地の帳面がはじめから別々に作られていた。だから両方を正直に書けば書くほど真実は二つに割れて、誰の目にも映らなくなる。
悪人を探していたはずだった。切り捨てを決めた者、閲覧を制限した者。だがいま卓の上にあるのは悪人のいない静かな仕組みだった。
「……誰も嘘をついてないのに」
ユークは低くつぶやいた。
「間違ってる」




