第105話 配分の前
「生んでいない、とは」
ミレアが筆を止めた。
ユークは重ねた紙から目を離さなかった。半年ぶんの脈の形と、それより古い配分の記録。二つを日付でそろえて重ねると、流れの向きがこれまで読んでいたのと逆に並ぶ。
「上から落ちてるんじゃない。下から上がってきてる。……表示を灯してる枝の元は、配分の幹より深い。その幹の元は、もっと深い」
「水源が、思っていたより下だったと」
「それだけなら、こんなに一定じゃない」
ユークは配分槽の記録の束を引き寄せた。この砦がいちばん古くから測ってきた数字だ。槽へ落ちる水の量は、季節でも雨でも、ほとんど動かない。
「湧いてる水なら、増える日も減る日もある。雨の翌日は濁るし、日照りの月は細る。……こいつは動かない。半年、指一本ぶんも動いてない」
「安定していると、私たちは読んできました」
「安定してるんじゃない」
ユークは束の一枚を指で押さえた。
「押さえられてるんだ」
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言ってから、自分の声が乾いているのが分かった。
湧いている水の一定さではない。手のひらで何かを押さえていて、その指の隙間から一定に漏れているような一定さだ。押さえる力が変わらないから、漏れる量も変わらない。
ユークは記録帳を開いた。昨日、中枢の壁で流れて消えた一行が、ミレアの写しでそのまま残っている。
――〇〇、確認。〇〇、了。のち、外へ配る。異常なし。
配る、が後ろにある。ずっとそこに引っかかっていた。当番の控えは、やった順に書く。先にやったことを先に書く。それしか書き方がない。
だとすれば、この壁の当番は、配る前に何かをしていた。確認して、了えて、それから外へ配っていた。配るのは仕事の締めだ。頭ではない。
「ミレア。俺たちは、あの字を配分の先の一語と呼んできた」
「呼んできました」
「間違えてたのかもしれない」
ユークは接続、循環、配分、と壁の並びを頭の中でなぞった。その右隣に読めない字がある。だから右へ読んで、配分の先だと呼んだ。
「先じゃない。前だ」
ミレアは何も言わずに写しを引き寄せた。
「この迷宮は、配るために水を集めてるんじゃない。何かを押さえてて、そこから溢れたぶんが、外へ出てるだけだ。……村の井戸に届いてる水は、押さえの余りだ」
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卓の上が静かになった。ルーメの光が壁ぎわで一度だけ揺れて、それきり動かなくなった。
ユークは椅子の背に体を預けた。天井の暗がりを見上げても、そこには何もない。
ずいぶん長いあいだだ、と思った。
外縁を回して、規則を立て、配分の順番を条件の真ん中に据えて、ここまで来た。配ることこそが灰環の価値だと信じて戦ってきた。監督院に対しても、勘定方に対しても、その一点で押し返してきた。灰環は水を配る迷宮だと。地域を潤す装置だと。
その前提が、根から立て直しになる。
配分は灰環の本体ではなかった。本体でないものを本体だと思って、運用を組んでいた。
「……ミレア。俺は、ずっと、間違ったものを守ってたのか」
ミレアはすぐには答えなかった。算盤に手を伸ばしかけて、やめた。それから、いつもの平らな声で言った。
「価値が、なくなったわけではありません」
「順番が違ってただけ、か」
「価値の順番が、違っていただけです」
ミレアは写しの一行を指の先で押さえた。
「配ることが本体でなかったとしても、配られた水で村の畑が回っているのは事実です。余りだろうと、余りでなかろうと、井戸に届いた水は井戸の水です。……本体が別にあったというだけで、あなたがこれまで回してきたものが嘘になるわけではありません」
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だがミレアは、そこで筆を置いた。置き方が、慰めの続きではなかった。
「一つ、こわいことを申し上げます」
「言ってくれ」
「配分が余りなら」
ミレアは写しから顔を上げた。
「余りを増やそうとして、本体に手をかければ、押さえが緩みます」
ユークは息を止めた。
配分を太らせたい、という話は、これまで何度も外から来た。勘定方も、商人も、もっと水を出せと言った。そのたびにユークは出力の限りを理由に断ってきた。灰環の一本の出力では、これ以上は無理だと。
だがそれは、出力の話ではなかったのかもしれない。
「増やせない理由は、力が足りないからじゃない」
ユークは低く言った。
「増やしたら、押さえてるものが動くからだ。……余りを太らせるってことは、押さえの指を、緩めるってことだ」
「まだ、そうと決まってはいません」
ミレアは急いで付け足した。
「ですが、そう読めてしまう以上、本体には手をかけない。それだけは、いま決めておくべきです。読み切る前でも」
「決めておく」
ユークは頷いた。それは、これまでの運用と何も変わらない結論だった。弁には触らない。本体には近づかない。ずっとそうしてきた。
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そのことに気づいて、ユークは奇妙な感じがした。
運用は、間違っていなかった。
配分こそが本体だと思い込んで、その配分を丁寧に扱ってきた。全開にしなかった。無理に太らせなかった。弁を守り、枝の締まりに指を近づけすぎなかった。余りを、余りだと知らないまま、余りとして丁寧に扱っていた。
だから、本体には一度も手をかけずに済んでいた。
押さえるものを押さえたまま、その隙間から漏れる水だけを、村へ通していた。もし配分こそ価値だと信じて全開にしていたら、とうにどこかが緩んでいたかもしれない。
勘定方が渋い顔をしても、商人が値を吊り上げても、ユークは配分の枝を一段でも余分に開けたことはなかった。灰環の出力の限りだと、そう言って断ってきた。断る理由は、力が足りないというものだった。
その理由のほうは、間違っていた。だが、断ったこと自体は間違っていなかった。もし一度でも枝を余分に開けていれば、そのぶん、押さえの指を緩めていたことになる。正しい理由を知らないまま、正しい手つきだけを守ってきた。
知らずに、正しい側にいた。
誇れることではない、とユークは思った。知らなかったのだから、褒められた話ではない。だが、続ける理由にはなる。これまでどおりに、余りを丁寧に配る。本体には触らない。読み方が変わっても、手つきは変えなくていい。
「ミレア。帳面には、まだ書くな」
「書きません」
ミレアは即座に答えた。
「配分の先でも前でも、読めていないことに変わりはありません。読み取り保留の線は、そのままです」
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ユークが記録の束をそろえ直していると、ミレアが立ち上がった。
受付台の奥、綴りをしまってある棚のほうへ歩いていく。いちばん下の段だ。ふだんは開けない。ユークはその背中を目で追った。
ミレアが戻ってきたとき、手には一冊の古い綴りがあった。表紙に何も書いていない。背の糸が、他のものより色褪せている。監督院の様式だ。だが、この砦の帳面ではない。
「それは」
「監査部にいた頃、控えていたものです」
ミレアは綴りを卓に置いた。だが、開かなかった。指を表紙に載せたまま、しばらく動かさなかった。
「切り捨てられた迷宮の、その後の数字です。落とされた翌年から、周りの村がどうなったか。……以前、あなたに使うかと訊かれて、私は温存すると申し上げました」
「使うなら別の顔で、と言ったな」
「言いました」
ミレアは表紙から指を離した。
「配分の先だと思っていたあいだは、まだ出せませんでした。灰環が水を配る迷宮だというだけでは、この数字と、繋がりません。……ですが、配分の前だとすれば、話が変わります」
ユークは古い綴りを見た。開かれていない。だが、開けば何が並んでいるのかは、もう見当がついた。井戸が濁り、街道が荒れ、人が減った村の名が、翌年の順で。
「その顔が」
ミレアは、いつもの平らな声のまま言った。
「いま、来たと思います」




