↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
105/146

第105話 配分の前

「生んでいない、とは」


 ミレアが筆を止めた。


 ユークは重ねた紙から目を離さなかった。半年ぶんの脈の形と、それより古い配分の記録。二つを日付でそろえて重ねると、流れの向きがこれまで読んでいたのと逆に並ぶ。


「上から落ちてるんじゃない。下から上がってきてる。……表示を灯してる枝の元は、配分の幹より深い。その幹の元は、もっと深い」


「水源が、思っていたより下だったと」


「それだけなら、こんなに一定じゃない」


 ユークは配分槽の記録の束を引き寄せた。この砦がいちばん古くから測ってきた数字だ。槽へ落ちる水の量は、季節でも雨でも、ほとんど動かない。


「湧いてる水なら、増える日も減る日もある。雨の翌日は濁るし、日照りの月は細る。……こいつは動かない。半年、指一本ぶんも動いてない」


「安定していると、私たちは読んできました」


「安定してるんじゃない」


 ユークは束の一枚を指で押さえた。


「押さえられてるんだ」


---


 言ってから、自分の声が乾いているのが分かった。


 湧いている水の一定さではない。手のひらで何かを押さえていて、その指の隙間から一定に漏れているような一定さだ。押さえる力が変わらないから、漏れる量も変わらない。


 ユークは記録帳を開いた。昨日、中枢の壁で流れて消えた一行が、ミレアの写しでそのまま残っている。


 ――〇〇、確認。〇〇、了。のち、外へ配る。異常なし。


 配る、が後ろにある。ずっとそこに引っかかっていた。当番の控えは、やった順に書く。先にやったことを先に書く。それしか書き方がない。


 だとすれば、この壁の当番は、配る前に何かをしていた。確認して、了えて、それから外へ配っていた。配るのは仕事の締めだ。頭ではない。


「ミレア。俺たちは、あの字を配分の先の一語と呼んできた」


「呼んできました」


「間違えてたのかもしれない」


 ユークは接続、循環、配分、と壁の並びを頭の中でなぞった。その右隣に読めない字がある。だから右へ読んで、配分の先だと呼んだ。


「先じゃない。前だ」


 ミレアは何も言わずに写しを引き寄せた。


「この迷宮は、配るために水を集めてるんじゃない。何かを押さえてて、そこから溢れたぶんが、外へ出てるだけだ。……村の井戸に届いてる水は、押さえの余りだ」


---


 卓の上が静かになった。ルーメの光が壁ぎわで一度だけ揺れて、それきり動かなくなった。


 ユークは椅子の背に体を預けた。天井の暗がりを見上げても、そこには何もない。


 ずいぶん長いあいだだ、と思った。


 外縁を回して、規則を立て、配分の順番を条件の真ん中に据えて、ここまで来た。配ることこそが灰環の価値だと信じて戦ってきた。監督院に対しても、勘定方に対しても、その一点で押し返してきた。灰環は水を配る迷宮だと。地域を潤す装置だと。


 その前提が、根から立て直しになる。


 配分は灰環の本体ではなかった。本体でないものを本体だと思って、運用を組んでいた。


「……ミレア。俺は、ずっと、間違ったものを守ってたのか」


 ミレアはすぐには答えなかった。算盤に手を伸ばしかけて、やめた。それから、いつもの平らな声で言った。


「価値が、なくなったわけではありません」


「順番が違ってただけ、か」


「価値の順番が、違っていただけです」


 ミレアは写しの一行を指の先で押さえた。


「配ることが本体でなかったとしても、配られた水で村の畑が回っているのは事実です。余りだろうと、余りでなかろうと、井戸に届いた水は井戸の水です。……本体が別にあったというだけで、あなたがこれまで回してきたものが嘘になるわけではありません」


---


 だがミレアは、そこで筆を置いた。置き方が、慰めの続きではなかった。


「一つ、こわいことを申し上げます」


「言ってくれ」


「配分が余りなら」


 ミレアは写しから顔を上げた。


「余りを増やそうとして、本体に手をかければ、押さえが緩みます」


 ユークは息を止めた。


 配分を太らせたい、という話は、これまで何度も外から来た。勘定方も、商人も、もっと水を出せと言った。そのたびにユークは出力の限りを理由に断ってきた。灰環の一本の出力では、これ以上は無理だと。


 だがそれは、出力の話ではなかったのかもしれない。


「増やせない理由は、力が足りないからじゃない」


 ユークは低く言った。


「増やしたら、押さえてるものが動くからだ。……余りを太らせるってことは、押さえの指を、緩めるってことだ」


「まだ、そうと決まってはいません」


 ミレアは急いで付け足した。


「ですが、そう読めてしまう以上、本体には手をかけない。それだけは、いま決めておくべきです。読み切る前でも」


「決めておく」


 ユークは頷いた。それは、これまでの運用と何も変わらない結論だった。弁には触らない。本体には近づかない。ずっとそうしてきた。


---


 そのことに気づいて、ユークは奇妙な感じがした。


 運用は、間違っていなかった。


 配分こそが本体だと思い込んで、その配分を丁寧に扱ってきた。全開にしなかった。無理に太らせなかった。弁を守り、枝の締まりに指を近づけすぎなかった。余りを、余りだと知らないまま、余りとして丁寧に扱っていた。


 だから、本体には一度も手をかけずに済んでいた。


 押さえるものを押さえたまま、その隙間から漏れる水だけを、村へ通していた。もし配分こそ価値だと信じて全開にしていたら、とうにどこかが緩んでいたかもしれない。


 勘定方が渋い顔をしても、商人が値を吊り上げても、ユークは配分の枝を一段でも余分に開けたことはなかった。灰環の出力の限りだと、そう言って断ってきた。断る理由は、力が足りないというものだった。


 その理由のほうは、間違っていた。だが、断ったこと自体は間違っていなかった。もし一度でも枝を余分に開けていれば、そのぶん、押さえの指を緩めていたことになる。正しい理由を知らないまま、正しい手つきだけを守ってきた。


 知らずに、正しい側にいた。


 誇れることではない、とユークは思った。知らなかったのだから、褒められた話ではない。だが、続ける理由にはなる。これまでどおりに、余りを丁寧に配る。本体には触らない。読み方が変わっても、手つきは変えなくていい。


「ミレア。帳面には、まだ書くな」


「書きません」


 ミレアは即座に答えた。


「配分の先でも前でも、読めていないことに変わりはありません。読み取り保留の線は、そのままです」


---


 ユークが記録の束をそろえ直していると、ミレアが立ち上がった。


 受付台の奥、綴りをしまってある棚のほうへ歩いていく。いちばん下の段だ。ふだんは開けない。ユークはその背中を目で追った。


 ミレアが戻ってきたとき、手には一冊の古い綴りがあった。表紙に何も書いていない。背の糸が、他のものより色褪せている。監督院の様式だ。だが、この砦の帳面ではない。


「それは」


「監査部にいた頃、控えていたものです」


 ミレアは綴りを卓に置いた。だが、開かなかった。指を表紙に載せたまま、しばらく動かさなかった。


「切り捨てられた迷宮の、その後の数字です。落とされた翌年から、周りの村がどうなったか。……以前、あなたに使うかと訊かれて、私は温存すると申し上げました」


「使うなら別の顔で、と言ったな」


「言いました」


 ミレアは表紙から指を離した。


「配分の先だと思っていたあいだは、まだ出せませんでした。灰環が水を配る迷宮だというだけでは、この数字と、繋がりません。……ですが、配分の前だとすれば、話が変わります」


 ユークは古い綴りを見た。開かれていない。だが、開けば何が並んでいるのかは、もう見当がついた。井戸が濁り、街道が荒れ、人が減った村の名が、翌年の順で。


「その顔が」


 ミレアは、いつもの平らな声のまま言った。


「いま、来たと思います」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。