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第104話 一画だけ

 壁が明るくなったのは、ほんの一呼吸のあいだだった。


 ユークは息を止めたまま、そちらへ顔を向けた。


 文字ではなかった。少なくとも、いま自分が読もうとしているあの一語のような、彫り込まれて動かないものではない。淡い光が壁の表面を薄く滑っていく。水面に浮いた油が広がるときの動き方に似ていた。


 その光が、形になった。


 ユークは反射的に記録帳へ手をやった。だが指が帯に触れた時点で、もう遅いと分かっていた。腰の帯から抜いて開いて筆を出すまでのあいだに、それは終わる。


 だから見た。


 書くことを捨てて、目だけで受けた。


 光の中に並んでいたのは、字だった。この迷宮の壁がこれまで一度も映したことのない、細くて、揃っていて、そして明らかに人の手の筆跡の字だった。


 一行。


 それだけが左から右へ流れて、端まで行き着く前に薄れた。


 あとには何も残らなかった。壁は元の平らな暗がりに戻り、その左手で一語が、変わらず半分を霧に沈めたまま立っていた。


---


 ユークはしばらく動かなかった。


 それから、ようやく記録帳を開いた。


 筆先が紙に触れる前に、目を閉じた。今のうちだ。頭の中に残っている形が崩れる前に、崩れていないところと崩れたところを分けておく。


 書けたのは、こうだった。


 ――〇〇、確認。〇〇、了。のち、外へ配る。異常なし。


 前半は読めなかった。字が薄かったのではない。光の流れが速すぎて、そこだけ形を追い切れなかった。追えたのは、後ろの半分だけだ。


「ルーメ」


 ユークは壁から目を離さずに呼んだ。


「いまのを、もう一度出せるか」


 パス越しに返ってきたのは、否定でも肯定でもない感触だった。灯苔精は壁の一角を光でなぞっている。文字のまわりを一度、それから何も映さなかった平らな面のほうを一度。脈を追っている感触。だが、そこにはもう追うべき脈がなかった。


 起きたことは起きた。それだけだ。


 ユークは自分の書いた一行を見た。


 異常なし、と書いてある。


 この一行を残した人間は、異常がないことをわざわざ書き留めていた。何も起きなかった日に、何も起きなかったと書いて、それを綴じていた。


 ――当番の控えだ。


 ユークは声に出さずにそう思った。


 これはコアの言葉ではない。コアはこの半年、ひとことも喋っていない。壁に一語を出して、それを灯し続けているだけだ。いま流れたのは、遠い昔にここへ立っていた誰かが書いた、退屈な運用の控えだった。


 コアはそれを、映して見せただけだった。


---


 夜のうちに砦へ戻った。


 ミレアは受付台で待っていた。その日の水位と時刻を綴じ終えた頁が、まだ開いたままになっている。


「出ました」


 ユークは記録帳を卓へ置いた。


「文字が。……一語のほうじゃない。左の壁だ。何も映したことのなかったところ」


 ミレアは記録帳を引き寄せて、書かれた一行を長いこと見ていた。


「読めたところと、読めなかったところは」


「〇のところが読めなかった。二つある。後ろの半分は読めた」


「補いましたか」


「補ってない」


 ユークは首を振った。


「補える気がした。だから書かなかった」


 ミレアは一度だけ頷いた。それから新しい紙を出して、ユークの記録帳の一行を写しはじめた。


 字を一つずつ、間の空きまで同じにして写している。読めなかった二か所は、空けたまま空けた幅で残した。


「一字も足しません」


 ミレアは手を止めずに言った。


「一字も減らしません。読めなかったところは、読めなかった形で残します。……あとで誰かが埋めたくなりますから。埋めた跡が分かるようにしておかないと、そのうち誰も、どこが元でどこが埋めたのか言えなくなります」


「帳面のほうは」


「中枢表示読み取り保留、と」


 ミレアは綴りの背表紙のほうへ目をやった。


「それだけです。文字が出たとも、読めたとも書きません。細らせた量と時刻は書きます。……何を細らせたかは細らせる前に書く。何を読んだかは、読み終えてからでいい。線はそのままです」


 ユークは頷いた。


 この砦の帳面は、いつも実際より貧しく見える。そう作ってある。


---


 朝になって、ユークは中枢へ下りた。


 一晩ぶんの光が、まだ壁の一語を下から押し上げている。ユークはその前に立って、昨日との差を見た。


 霧が退いていた。


 一画ぶんだ。


 字の下のほう、これまでずっと沈んでいた線が一本、輪郭を出している。太さも、はねの向きも見える。半年動かなかったものが、確かに動いた。


 だが、それだけだった。


 一日で一画。上の半分はまだ厚い霧の底にある。守るとも読める。隔てるとも読める。鎮めるとも読める。昨日と同じ三つが、昨日と同じ重さで並んでいる。


 ユークは足もとの水位計を見た。針は指二本ぶん落ちたところで止まっている。


 一画で、指二本。


 村の畝が二列、昨日は乾いたままだった。あの二列は、この一本の線に化けた。


 残りが何画あるのかは、誰にも分からない。三画かもしれない。八画かもしれない。ミレアは短ければ三日、長ければ十日と言い、もっとかもしれないとも言った。あれはいちばん正直な数字だ。だから、いちばん通しにくい。


 払う側に、いつ終わるかを言えない。


 ユークは霧の残りを見上げた。読み進める代価は、進むほど積み上がっていく。そしてその代価は、この壁の前に立っている人間が払うのではなかった。


---


 昼過ぎ、オドルが砦まで上がってきた。


 村長補佐は井戸端で決めたのは一日ぶんだと言った男らしく、二日目の話をしに来たのではない、と最初に断った。ただ、一日ぶんが何になったのかを見に来ただけだと。


「一画です」


 ユークは正直に言った。


「線が一本出ました。……字はまだ読めません」


「一日で一本か」


「一本です」


 オドルは長いこと黙っていた。


「あと何本ある」


「分かりません」


「そうか」


 オドルは笑わなかった。怒りもしなかった。桶の把手を握るときの手つきで、砦の卓の縁を一度撫でた。


「その一本は、消えるのか」


 ユークは答えに詰まった。それは自分でも確かめていない。


「……分かりません。押し上げるのをやめれば、たぶん沈みます」


「沈むのか」


「沈むと思います。ですが、二画ぶん濃くなったときは、こちらが何もしなくても濃いままでした。……濃くなるのと、霧が退くのは、別のことかもしれません」


「別のことかもしれません、か」


 オドルはその言い方を舌の上で転がすようにくり返した。


「あんたはそればっかりだな」


「そればっかりです」


「……いい」


 オドルは卓から手を離した。


「分からんことを分かると言われるほうが、こっちは困る。今日は帰る。井戸端でまた話す」


---


 オドルが下りていったあと、ユークは記録帳の一行の前に戻った。


 ――〇〇、確認。〇〇、了。のち、外へ配る。異常なし。


 ずっと引っかかっていた。夜のうちからだ。何が引っかかっているのかが分からないまま、ここまで来ていた。


 卓に肘をついて、その一行を、書いた順に指でなぞった。


 なぞり終えて、手が止まった。


 配る、が後ろにある。


「……ミレア」


「はい」


「この控えを書いた奴は、まず何かを確認してる。それから何かを了えてる。……そのあとで配ってる」


 ミレアが筆を置いた。


「順番、ですか」


「順番だ」


 ユークは自分の声が乾いているのに気づいた。


「当番の控えってのは、やった順に書く。俺も書いてた。監督院にいた頃、毎日書いてた。……先にやったことを先に書くんだ。それしか書き方がない」


 ミレアは何も言わなかった。ただ、写しの紙を引き寄せた。


「この一行だと、配るのは最後だ。配ったあとで、異常なし、で締めてる。ということは」


 ユークは言葉を切った。


 言ってしまうと形が決まる。決まってしまうと、そのとおりに見えはじめる。それが怖かった。


 だが言った。


「配る前に、この迷宮は何かをしてる。しかも先に書かれてる。……当番の仕事の頭に来るやつだ」


 卓の上が静かになった。


「私たちはずっと」


 ミレアがゆっくりと言った。


「あれを、配分の先の一語と呼んできました」


「呼んできた」


「呼び方は、いつ決めましたか」


 ユークは思い出そうとして、思い出せなかった。決めた覚えがない。壁に接続、循環、配分と並んでいて、その隣に読めない字があった。だから配分の先だと呼んだ。それだけだ。並んでいた順に、右へ読んだ。


 誰も、その並びが読む順だと確かめていない。


「……先じゃないかもしれない」


 ユークは低く言った。


---


 その日の夕方、ユークはルーメの記録を全部出させた。


 半年ぶんの脈の形。表示を灯している光が、どういう波で、どういう間で、どこを通っているか。ルーメは意味を読まない。だから半年、一度も間違えていない。


 それを、配分の記録と重ねた。


 配分槽へ落ちる魔力流の向きと強さは、この砦がいちばん古くから測っているものだった。どこから来て、どこへ落ちて、どの枝を通って村の井戸へ届くか。何百枚もある。


 二つを、日付ごとに重ねていく。


 ユークは途中で手を止めた。


 もう一度、はじめから重ね直した。


 三度目に、指が震えた。


 配分の幹の流れは、これまでずっと上から下へ落ちていると読んでいた。迷宮が水と力を生んで、それが槽へ落ち、枝を通って外へ出ていく。当たり前の読み方だ。上に元があって、下へ流れる。誰もそれを疑ったことがない。


 だが、ルーメが写した脈の形は、そう並んでいなかった。


 表示を灯している細い枝の脈は、配分の幹より深いところから来ている。そして幹の脈そのものも、下から順に、時間差を置いて明るくなっていた。


 落ちているのではない。


 上がってきている。


「……ミレア」


 ユークは紙から目を離さずに言った。


「この迷宮の水は、俺たちが生んでるんじゃない」

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