第103話 読む代金
ルーメを連れて中枢へ降りたのは、その日の夕方だった。
卓の上で二枚の記録が重なった時点で、答えは半分まで出ていた。だが半分では動けない。ユークは自分の手で確かめていないものを帳面に書かない。
「脈を辿ってくれ」
ユークは壁の一角へ手を向けた。
「その字を灯してる光がどこから来てるのか。元まで」
ルーメの光が壁を撫でながらゆっくりと下りていった。文字のまわりを一度なぞり、それから床のほうへ。淡い緑の帯が暗がりの中を細い水の筋のように伸びていく。
やがて光は床の際で止まった。その先は壁の中だ。だがパス越しに返ってきた感触は、はっきりしていた。
表示を灯している脈は、どこか別のところから来ているのではなかった。
配分の幹の途中から、指ほどの細い枝が一本、分かれている。それだけだった。
「……同じ幹か」
ユークは低くつぶやいた。
この迷宮の出力は一本しかない。その一本が配分槽へ落ちて、枝流路を通ってクルン村の井戸と畑へ届く。壁の文字は、その途中から光をもらっている。
半年ぶんの記録の中で、その枝の太さはほとんど動いていなかった。コアはこの一語に、それ以上を回していない。
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ユークはしばらくその細い枝の感触を確かめていた。
それから、やってみることにした。
「ルーメ。この枝に、ほんの少しだけ余分を回す。十を数えるあいだだけだ。俺が言ったら即座に戻す」
ルーメの光が一度短く点滅した。
ユークは仮認証の感覚を細く伸ばした。弁には触らない。あそこへ手を近づければ、水はそれを外からの指図と読み違える。触るのは枝の付け根の締まりだけだ。ほんのわずかに、緩める。
文字が、動いた。
濃くなったのではない。霧が下から押されたように一度だけ持ち上がって、そこで止まった。それ以上は退かない。押し上げられたまま、字は半分を沈めて立っている。
「……八。九」
ユークは数えた。
「十。戻せ」
枝の締まりが戻った。持ち上がっていた霧は、押された形のままゆっくりと元の位置へ沈んでいった。十を数えるあいだ動いていたものが、十を数えるあいだで消えた。
ユークは壁から目を離して足もとを見た。
持ち込んだ小さな水位計の針が、落ちていた。
わずかだ。盃一杯ぶんもない。だが確かに落ちて、枝を戻したいまも、まだ元の高さへ戻り切っていなかった。
ユークはその針を長いこと見ていた。
三つのことが、同時に分かった。
一つ。この字を灯す光は、村へ行くはずの水と同じ幹から出ている。文字が明るくなれば、そのぶん井戸へ回る力が減る。
二つ。一瞬ではだめだ。緩めているあいだだけ霧は持ち上がり、戻せば沈む。読み切るには、灯し続けるしかない。
三つ。灯し続けるということは、そのあいだずっと、水を細らせ続けるということだ。
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砦の卓に、水位計とルーメの記録が並べられた。
「読める」
ユークは短く言った。
「ただでは読めない」
ミレアは十を数えるあいだの落ちを指の先でなぞってから、算盤を引き寄せた。それきりしばらく口を開かなかった。羽根ペンが数字を刻む音だけが、卓の上を往復していた。
「幅でしか出せません」
やがてミレアは顔を上げた。
「霧を押し上げたまま保つのに要る太さは、いまの枝の四倍から五倍。それを一日じゅう続けたとして、クルン村の井戸は水位が指二本ぶん下がります。飲み水は足ります。畑の裏の畝が二列、その日は回りません」
「日数は」
「分かりません」
ミレアは正直にそう言った。
「短ければ三日。長ければ十日。……もっとかもしれません。霧がどれだけ深いのか、こちらには測る手がありませんから。分かりませんというのが、いちばん正直な答えです」
ユークは頷いた。
それが誠実な数字だということも、そしていちばん通しにくい数字だということも、両方分かっていた。
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モルトの算段は、その夜のうちに立った。
水が細れば槽の流れが緩む。緩めば底の泥が舞う。舞えば村の井戸は濁る。細らせるということは、量が減るだけでなく、質まで落ちるということだった。
だがモルトが先に底を浚っておけば、舞う泥そのものを減らせる。ユークが槽の縁でその話を通すと、泥食い獣は水の中から鼻先だけを出して、面倒くさそうに一度沈んだ。承知した、という沈み方だった。
「三日までなら濁らせずに済む」
ユークはミレアに言った。
「四日目から追いつかない日が出る。あいつの腹にも底がある」
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ザグレスは砦の外で話を聞き終えると、まず鼻を鳴らした。
「その紙、村へ持ってくのか」
「持っていく」
「そりゃいい。……だが順番を間違えるなよ」
ザグレスは煙草をくわえたまま指を一本立てた。
「まず減るぶんを先に言え。指二本と畝二列。それが最初だ」
「得を先に言うなってことか」
「役所はいつも得から言う。だからあの村は役所を信じねえんだ」
ザグレスは火をつけずに煙草を口から抜いた。
「安心しろ、悪いようにはしねえ、後ろ盾がつく、供給は途切れねえ。……そのあとで細けえ字が出てくる。あいつらは三代ぶんそれを食らってきてる。得から入った時点で、お前も同じ穴の役人だ」
「もう一つあるなら聞く」
「決めるのはお前じゃねえと最初に言え」
ザグレスの声が少し低くなった。
「これは相談だ、断ってもいい、断られたら読まねえ。それを頭に置け。あとから言ったら、もう決めた話を承知させに来たように聞こえる。同じ言葉でも置く場所で毒にも薬にもなる」
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「一つだけ、先に線を引かせてください」
ミレアが綴りを開いたまま言った。
「村へ開けば外へ出ます。井戸端の話は必ず街道へ乗る。灰環が中枢の字を読もうとしている。それが噂の形を一つ決めてしまいます」
「出るだろうな」
ユークは否定しなかった。
「それでも村に黙って細らせるよりましだ」
「同意します。ですから、出る形をこちらで決めておきます」
ミレアの筆が動いた。
「読もうとしていることは書きません。書くのは、井戸をこれだけ細らせること、その理由、村がそれを承知したかどうか。……何を読んだかは読んでからでも遅くない。何を細らせたかは、細らせる前に書いておかないと意味がありません」
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その夜、ユークは一度だけ別の道を考えた。
指二本だ。井戸端の桶で言えば、沈めたときに底が触るか触らないかの差でしかない。誰も気づかない。一日で戻る。読んでから、読めたものと一緒に説明すればいい。そのほうが村にとっても分かりやすい話になる。
考えて、すぐに捨てた。
配る順番を誰が決めるのか。この砦はそれを条件の真ん中に据えてここまで来た。理由ごと全部を開いて残すから、灰環の配分は私物ではないと言える。黙って細らせて後から説明するというのは、ひと晩だけ蛇口を自分の卓の上へ置くということだった。
ひと晩でも置いたら、もう戻せない。
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翌朝、ユークはクルン村へ下りた。
井戸端にはオドルとリクと、水汲みの手が数人集まっていた。ミレアの作った紙は懐に入れたままにした。先に出すのは紙ではない。
「井戸の水を、一日ぶん細らせてもらいたい」
ユークは最初にそう言った。
「水位で指二本。畑の裏の畝が二列、その日は回りません。濁らせないほうはこちらで手を打ちます。飲み水は足ります。……減るのはそれだけです」
井戸端が静かになった。
オドルは桶の縁に手を置いたまま、しばらくユークの顔を見ていた。
「なんのためだね」
「迷宮の中枢に、字が出てます」
ユークは隠さなかった。
「配分の隣に一語。半年前から出てて、まだ読めてません。読むにはその字を灯し続けるだけの力が要る。……その力は、この井戸へ来る水と同じところから出てます」
オドルの手が、桶の縁からゆっくり離れた。
「つまりだ」
村長補佐は言葉を選ぶように区切った。
「うちの井戸を細らせて、あんたが迷宮の字を読む。……そういう話かね」
「そういう話です」
返す言葉はなかった。ユークはそれを探さなかった。
「その字が読めたら、うちの井戸に水が増えるのかね」
「増えません」
「畑がよくなるか」
「なりません」
「……じゃあ、なんだ」
オドルの声が、はじめて硬くなった。
「読んだ先に何があるのか、俺には分かりません」
ユークは正直に言った。
「はっきりしてるのは一つだけです。街道の上のほうじゃ、灰環が水を配るほかに何かを持ってることになってる。誰も中身を見てないのに、話のほうが先に歩いてる。……あれが一つの形に決まったとき、決めるのはたぶん俺たちじゃない」
「上のほうで決まるって話か」
オドルの顔が、その一言で変わった。
「その言い方は聞き飽きてる」
村長補佐は井戸の底のほうを見た。
「昔もそうだった。上のほうで話が決まって、決まってから紙が回ってきた。灰環は価値がねえ、金をかけるだけ無駄だとな。……あのとき誰もこの井戸端まで下りてこなかった。今度は下りてきた。それはいい。それはいいがな、ユークさん。下りてきて言うことが水を減らしてくれってのは、こっちとしちゃあ――」
オドルはそこで言葉を切った。切ったまま、続きを探して見つけられずにいた。
リクが口を開いたのは、そのときだった。
「じいさんたちの話なんだけど」
井戸端の全員がそちらを見た。
「灰環が帳簿から落とされた次の年に、この井戸が濁った。それは前も言った。……その先の話をしてなかった」
リクは桶の把手を握ったまま、うつむいていた。
「濁ったとき、村は汲む場所を変えたんだ。上の沢まで登って汲んだ。次の年に沢も細って、また別のところへ移った。そうやって二年、水を探して回って、それでも駄目で、半分の家が町へ出た」
誰も口を挟まなかった。
「じいさんが言ってた。あのとき俺たちは水を探すことしかしなかったって。……なんで濁ったのかを、誰も調べなかった」
リクは顔を上げた。
「調べなかったから、うちは半分になったんだ」
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井戸端の空気が動いた。
オドルは長いこと黙っていた。桶の縁の木目を親指でこすっていた。それからユークではなく、井戸のほうへ向かって口を開いた。
「……調べるのに、水が要るってのか」
「要ります」
「そりゃあ、たちの悪い話だ」
オドルは短く笑った。笑ったが、目は笑っていなかった。
「濁った理由を調べるのに、井戸を細らせろって言うんだから」
「たちが悪いと思います」
ユークは頷いた。
「だから俺は決めません。決めるのはここです」
ユークは懐から紙を出して、井戸の縁に置いた。ミレアの字で、細る量と日数の幅と、濁りをどう抑えるかと、断られた場合はこの話を取り下げると書いてある。得のことは一行も書いていない。書けることがなかったからだ。
オドルはその紙を手に取って、少し遠くへやって読んだ。それから水汲みの手のほうを振り返った。誰も何も言わなかったが、何人かが小さく頷いた。
「一日だ」
オドルは紙を畳んだ。
「一日ぶんだけ細らせろ。……そのあとまた井戸端で決める。三日ぶんまとめて承知した覚えはねえからな」
「ありがとうございます」
「礼はいい」
オドルは畳んだ紙をユークへ突き返さず、自分の懐へ入れた。
「これはうちで持っとく。……あんたの帳面じゃなくて、うちの帳面に要るやつだ」
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その日の夕方、灰環は一日ぶんを細らせはじめた。
配分槽の水位計の針がゆっくりと落ちていった。指一本。それから、指二本。モルトが底に沈んで動かなくなった。舞い上がろうとする泥を片端から腹へ入れているのが、パス越しの重い感触で分かった。
ミレアは受付台で、その日の水位と時刻を綴っていた。灰環の帳面でいちばん退屈な頁が、この日はじめて退屈でない意味を持った。
ユークは中枢の暗がりに立っていた。
ルーメの光が、壁の一角をやわらかく撫でている。
接続。循環。配分。
そして、その隣。
枝の締まりが緩んで、字が下から押し上げられた。十を数えるあいだで沈んだあの動きが、今度は沈まなかった。押し上げられたまま、そこにとどまっている。
霧が、動いた。
揺れたのではない。ゆっくりと、しかし確かに、字の下のほうから薄れはじめていた。半年のあいだ一度も動かなかったものが、退いていく。
ユークはその前から動かなかった。
この一画の裏で、村の井戸は指二本ぶん浅くなっている。今日一日、あの村の畝が二列、乾いたままだ。
代金は、もう払われている。
ユークは息を止めてそれを見ていた。
――そのとき。
壁が、文字の外側でかすかに明るくなった。
一語のある場所ではない。その左の、これまでずっと何も映したことのない、ただの平らな壁面だった。




