第102話 先に知る
噂は上って、返ってきた。
ラスティアの町から街道を北へ、それから王都のほうへ。〈あの迷宮は水を配るほかに何をしている〉——フェンウィックが去り際に落としていったたった一行が、季節がひとつ動くより早く街道を往復して、灰環の前砦へ戻ってきた。
戻ってきたときには、もう誰の言葉でもなくなっていた。
「うちの連中が言ってた」
ドーランは卓に肘をついて渋い顔をしていた。
「灰環はほんとは水の迷宮じゃねえらしい、とな。水を配ってるのは表向きで、ほんとは別の何かを抱えてる。……ご丁寧に、その中身まで人によって違う。金の鉱脈だと言う奴もいりゃ、古い兵器だと言う奴もいる。誰も見てねえのに、みんな知った顔で喋る」
「訂正しなかったのか」
「消えねえよ」
ドーランは首を振った。
「否定すりゃ隠してることになる。あんたが黙ってるのがいちばん効いてる。悪いほうにな」
ユークは何も言わずに聞いていた。
言い返す材料がこちらに一つもなかった。
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変わったのは、噂そのものよりも、砦へ来る人間の目のほうだった。
これまで灰環を見に来る目は値踏みの目だった。この迷宮はいくらになるか。誰の手に落ちるか。監督院の査察も国の勘定方の評価も突き詰めればそれだけだった。
いまはちがう。
街道の切れ目に立って、しばらく前砦のほうを眺めて、何も言わずに帰っていく者がいる。荷を届けに来て用が済んでも帰らずに配分槽のほうを見ている運び屋がいる。値踏みではない。
確かめに来ている。
何を確かめに来ているのかは、たぶん本人たちにも分かっていない。ただ「何かある」と聞いたから、その何かの形を、自分の目でひと目見ておきたいだけだ。
それがいちばん厄介だった。
値踏みなら、こちらが数字を出して押し返せる。だが「何かある」に押し返す手はない。何もないと言えば嘘になり、何かあると言えば終わる。
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「読んだと分かった時点で、次の値踏みが始まります」
ミレアは綴りを閉じずに言った。
「今の噂は、まだ形がありません。金の鉱脈でも古代の兵器でも、勝手なことを言っているうちは、誰も本気では動きません。動くのは形が一つに決まったときです」
「決めるのは俺たちじゃない」
「ええ。ですが、決められる材料を持っているのはいまのところ私たちだけです」
ユークは中枢のほうへ目をやった。
この砦の下、暗がりの奥に、あの一語がある。
接続。循環。配分。そしてその隣に、まだ半分霧に沈んだままの一文字。
「……封をしたのは、俺だ」
低くそう言った。
あの朝のことははっきり覚えている。夜のうちに勝手にもう一画ぶん濃くなったその一語の前に立って、ユークはルーメに形だけを写せと命じた。意味は読まなくていい。いや、読み解かないほうが正しい。そう言った。
理由もはっきりしていた。読めたと知れた瞬間に、灰環は地域を潤す迷宮であることをやめる。もっと大きな何かを握る資産として、国が本気で手を伸ばしてくる。だから読まない。読めたとすら書かない。表の帳面には「中枢表示読み取り保留」の一行だけを残した。
あれは間違っていなかった、といまでも思う。
だが。
「もう来てる」
ユークは言った。
「読まなきゃ来ないと思ってた。読めたと知れなければ、灰環はただの水の迷宮のままでいられると思ってた。……でも来てる。俺たちが一文字も読まないうちに、噂のほうが先に着いた」
ミレアの筆が止まった。
「封をしていた理由が、消えたということですね」
「消えた」
自分で言って少しだけ息を吐いた。
「閉じるのも運用のうちだ。それはいまでもそう思う。……ただ、閉じてる理由がなくなったのに閉じ続けるのは、運用じゃない。ただの癖だ」
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ザグレスは砦の外の岩に腰かけて街道のほうを見ていた。
「上の温度は」
「上がってる」
短い返事だった。
「ただし、まだ誰も本気じゃねえ。本気ってのは、名のある奴が自分の足で来ることだ。いまは違う。使いが来て、噂が回って、みんな様子を見てる。……それが厄介なんだよ」
「様子を見てるのが、か」
「ああ」
ザグレスは煙草の火を岩へ押しつけて消した。
「様子を見てるってのはな、答えを待ってるってことだ。誰かが『灰環の中身はこれだ』って最初に言うのを待ってる。で、最初に言った奴の言い分がそのまま通る。……真実かどうかは関係ねえ。早いか遅いかだ」
「先に言われたら、どうなる」
「そりゃお前、金の鉱脈だってことになるさ」
ザグレスは肩をすくめた。
「そうなったら、お前がいくら『違う、水を配ってるだけだ』って言っても、隠してるとしか聞こえねえ。……お前んとこの村の井戸もそのときは一緒に持ってかれる」
ユークは黙っていた。
知らないままでいることがこれまでは安全だった。知らなければ漏らしようがない。読まなければ、灰環はただの水の迷宮のままでいられる。
その前提が、いま外れた。
知らないままでいることはもう安全ではない。むしろ、知らないまま外に形を決められることのほうが、はるかに危ない。
「先に知る」
ユークは言った。
「灰環が本当は何なのか、俺たちが先に知る。……そのうえで、何を出して何を出さないかを、こっちで決める。順番が逆になったら終わりだ」
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その夜、ユークは中枢の暗がりに立った。
ルーメの光が、壁の一角をやわらかく撫でている。
接続。循環。配分。
そしてその隣。
一語は、ある。
半年前のような、輪郭も掴めない滲みではない。あの夜と翌朝の二画ぶんで、その文字は形をあらわしている。誰が何をしたわけでもない。群れが弁を守り切った夜に一画、そのまま夜のうちにもう一画。コアが自分で書き足したかのように、勝手に。
だから、読める——はずだった。
ユークはその前に立って、じっと目を凝らした。
読めなかった。
輪郭は見える。画の数も、だいたいの形も分かる。だが半分がまだ霧に沈んでいて、その霧が、どうしても退かない。
守る、と読めた。
次の瞬間には、隔てる、とも読めた。
鎮める、とも読めた。
どれもしっくり来て、どれも確かめきれない。三つのうちのどれかであることは間違いないのに、そのどれかが決められない。読もうとするほど、三つが等しく正しく見えてくる。
ユークは長いこと、その前から動かなかった。
封は、自分で掛けた。だから自分で外せると思っていた。外しさえすれば、あとは読むだけだと思っていた。
外した先に、鍵がもう一つあった。
「……見えてるのに、読めないのか」
誰にともなく、そうつぶやいた。
パス越しに、ルーメの光がゆっくりと一度揺れた。分からない、という感触ではなかった。ただ静かに、いつもどおり、文字を灯している魔力の脈をなぞっているだけの感触だった。
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翌朝、ユークはミレアの卓に座って、綴りを開いていた。
「読めませんでしたか」
「見えてる」
ユークは言った。
「見えてるのに読めない。……昨日まで俺は、読むか読まないかは自分で選べると思ってた。封を外すかどうかの話だと思ってた。選べなかった」
「では、問いを変えましょう」
ミレアは新しい頁をひらいた。
「なぜ晴れないのか、ではなく。……読み切るのに、何が足りていないのか」
ユークは顔を上げた。
「それだ」
あの一語は、あの夜、勝手に濃くなった。誰も何もしていないのに、二画ぶん。ということは、濃くなること自体には、こちらの手は要らない。
だが、そこで止まった。半年、止まったままだ。
濃くなるのは勝手に進む。なのに、そこから先へは進まない。
進まないのではなく——進めるだけの何かが、足りていない。
「ルーメの記録を出してくれ」
ユークは言った。
「あの一語を灯してる脈の形。あいつが写し続けてたやつだ。全部並べる」
ミレアが立ち上がった。
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卓の上に、光の記録が並べられた。
どういう波で、どういう間で、その文字が明滅しているか。ルーメは意味を読まない。ただ形だけを、半年ぶん正確に。
ユークはそれを、日付の順に並べ直した。
それから、隣にもう一つの記録を置いた。
配分槽の水位表。毎日、朝と夕に、モルトとシルクスが確かめて綴じてきた、この迷宮のいちばん退屈な帳面だった。
二つを並べて、ユークは動きを止めた。
表示の明滅の山と、配分の水位の谷が、重なっている。
偶然の重なりではなかった。半年ぶん、一日も外さずに、その二つは同じ間で息をしていた。片方が上がるとき、もう片方が下がる。
「……ミレア」
ユークの声が、自分でも分かるほど低くなった。
「この文字、どこから光をもらってる」




