4 海獣の渡し守
嵯峨湊は、雪嶺国最大の貿易港である。
「人だらけだ」
大通りを埋め尽くすたくさんの人々を見回しながら、雪はつぶやいた。赤い煉瓦造りの建物が林立している。冬も間近の空はされど清く澄み渡り、群青の海は吸い込まれそうな深い色をしている。塩辛い風が頬を通り抜けていく。
「最北端の凍らない湊だからな」
司狼たちは嵯峨湊の船着場にやってきていた。
湊には何十という木造船が停泊しており、大きな貨物が乗る船、人が大勢乗り込んでいく船、樽のようにずんぐりむっくりした大型船から筆先のような形の小型船まで色々なものが行き来していた。その全て、雪はまだ少ない記憶のうちで初めて見るものだったので、その喧騒を、期待を持って見つめていた。
嵯峨湊の先は河だと言っていたが、正確には海峡に当たるらしい。対岸にあるという狄地は全くといって見えなかった。
司狼に手を引かれて、船着場の横に建てられた大きな建物に入る。
どうやらここで船の発着を管理しているらしい。乗船の手続きを行うカウンターがあるほか、乗客たちの待合室でもあるようだ。長椅子でくつろぐ乗客たちは、皆どこか浮き足立っているような雰囲気を醸し出していた。
雪は壁を見やった。壁には杭が打たれており、発着時刻や目的地が書かれた木札がぶら下がっていた。
知らない地名が羅列されている。目で追うも、二人の目的地はどこにも書かれていなかった。
「狄地行き、ないね」
「ああ。殆どない。そもそも渡るような用事がある人間がいない。横断を必要とする狄地の人間は……出稼ぎに来る奴しかいないからな」
司狼は微かに眉間の皺を深くした。
「どうするの?」
そもそも強く当てにはしていなかったのだろう。司狼は眉間を揉んでひとつため息をついた。
「伝手ならある」
そう言いながら、心底嫌そうな顔をした。
そこは海岸に面した酒場だった。
湊から少し離れると歓楽街になるらしく、酒場が立ち並んでいた。まだ昼前なので人通りが少ないが、夜になれば活気に溢れるだろう。
司狼がカウンターに行き、赤ら顔の店主と一言二言交わす。店主は何やら相槌を打つと、二人を裏口に案内した。
薄暗い階段を降りた先にそれはあった。
海が足元まで迫ってきていた。
いわゆる舟屋というやつだろう。店の半地下がそのまま船着場になっていた。海から石段が築かれており、その上に直接家屋が築かれている形だ。
石段の上には縄や櫂などの道具が雑多に積み上がっている。倉庫としても使われているらしい。
舟屋には一隻の小舟が止まっている。湊では見たことのない形だった。美しい弧を描く三日月型の船の両端に、持ち手がついているかのようにくるりと装飾がある。湊に並んでいた船の特徴から、船首には龍の装飾があるものだと勝手に思っていたが、この船の先に付いているのは腰から下が魚になっている女の彫り物だった。船体には植物模様が精緻に彫られている。
船をボロ布で磨き上げていた男がこちらに気づく。
「え……ちょっと待てマジか」
男の顔には驚愕の表情が浮かぶ。
「司狼ちゃんじゃん!」
男は満面の笑みを浮かべ一目散に駆け寄ってくると、司狼の肩をバンバン叩いた。司狼はもう慣れたものだと言いたげに片眉を少し動かしただけだった。
男の腰からはアザラシの尾が生えている。尖った耳に鋭い瞳。海の男らしく、司狼ほどではないが体格はがっしりしている。海風で褪せたブロンドの髪は、編み込んで後ろで一つに纏めている。前髪は司狼と同じように三つ編みにして耳の前で垂らしている。司狼と同じく北方の人間なのだろう。
「いや〜斎龍院に攻め込んだって話聞いたから心配してたんだぜ? あれから音信不通だしよ〜」
「戦なんていつものことだろ」
そう返すと、男の顔が固まった。
「……聞いてないのか?」
「何を?」
「あれから斎龍院は封鎖されて、泰牙様の行方もわかっていないんだよ」
「あいつのことだからピンピンしてるだろ。雇い主にそこまでの義理はねえ」
「お前はそうだろうがよ……心配するこっちの身にもなれ」
「遠吠えの民は既に死んでいる。心配される謂れなどないな」
「お前って奴はさあ……」
渋い顔を浮かべた流れで、男は目線を下ろした。ようやく司狼の手を握る雪に気づいたようだった。
「子連れか?」
「ああ」
男はしゃがんで雪と目線を合わせた。
「よお、俺は入り江の民の瀬尾ってんだ。渡守をやってる。船で人を運ぶ仕事だ。ここは俺の船着場。船は小さいが安心安全が俺のモットーだ」
「せのお、さん」
「嬢ちゃん、名前は?」
「雪……」
ほぼ司狼としか接してこなかった雪には、初めての友好的な他人だった。好奇心の溢れた目でじっと見つめてくる瀬尾に対し、何を喋ったらいいかわからなくて、もじもじと司狼の後ろに隠れた。
「ずいぶん恥ずかしがり屋な兎さんだねえ」
「無理やり連れてこられたからか人慣れしてないんだ。許してやれ」
「あー、人攫い関連か……また厄介な依頼受けたなお前も」
「そういうことだ。お前に道案内を願いたい」
「行き先は?」
「慧眼の民の集落まで」
その言葉を聞いた瞬間、瀬尾の顔色が変わった。
「はあ? 俺はただの渡守だぞ⁉︎ 河は遡れるが陸に上がってからのことは自分で対……」
瀬尾の口を塞ぐかのように、司狼は腰の袋から、何か重たげなものを取り出した。
それは手のひらに収まるほどの丸い石だった。青緑色に透けていて、光に反射して七色の波紋が浮かぶ。その波紋はとても複雑で、未知の言語と言われても納得してしまいそうな奇妙さがあった。一眼見ただけでとても貴重なものだとわかる。
「なんの真似だ」
「わかるだろう。お前くらいしか信用できないんだ」
瀬尾は冷や汗を垂らしながら立ち上がった。その三白眼には明らかに警戒の色が浮かんでいる。
「……司狼ちゃんがそこまで拘るのも珍しいじゃねえか。一体何者なんだこの嬢ちゃんは」
「それは」
「信用問題と切り出したのはそっちだぜ。ここで教えてもらえねえと、引き受けられねえな」
駆け引きじみた睨み合いが、司狼と瀬尾の間に数秒間続いた。
軽い沈黙の後、観念したように司狼は雪の頭巾を剥いだ。
角と尖った耳が露わになる。縄のように硬く結ばれた三つ編みが頭巾からはみ出た。
「あ、あの……私……」
瀬尾は信じられないものを見てしまったかのように目を見開いた後、訝しげな表情を司狼に向けた。
「何を企んでる」
「この子を故郷に送り届ける。反乱の衝撃で記憶の大半を失っているが、天空という単語を覚えていた。明らかに神領の人間じゃない。楽土から無理やり連れて来られた可能性がある」
楽土、とは初めて聞いた言葉だった。
しかし不思議だった。天空の時と同じだ。意味が解る。神々と死者が暮らす天空に対し、人間たちの暮らす世界のことを楽土と言う。天空の下に楽土がある。司狼の言うところの、狄地に当たるものだろう。我らが大地。
瀬尾は深いため息を吐いた。
「……わかった、送ってやる。それにしても、どういう風の吹き回しだ? あの司狼ちゃんが無償で人助けだなんて」
吐き捨てるように軽口を叩く瀬尾に対し、司狼はじっと口を噤んだままだった。




