5 雪嶺の人喰い女神
瀬尾は船の準備があるらしく、時間を持て余した司狼と雪は嵯峨湊を観光することにした。
瀬尾のおすすめだという食堂を教えてもらい、繁華街を目指す。
湊の方に近づくにつれ、段々空がかげってきた。重い雪雲が近づいている。
坂の街の至る所に、極彩色の祠が立っている。
祠には白い龍が巻き付いており、憂いを帯びた目線をこちらに投げかけている。その色は夜明けの太陽のように暖かい金色だった。
雪が不思議そうに見つめているのに気づいたのか、司狼は説明をし始めた。
「斎龍廟だ。雪嶺国の神様、龍神様を祀っている」
偉い神様? と雪が聞くと、司狼は頷いた。
「原初にして偉大な神、龍王様は氷と岩ばかりのこの地を嘆き、部下である六花龍様を遣わした。眩い銀の鱗を持つ六花龍様は、天候を操ることができた。その力を使って、暗く淀んでいた雪雲を退け、硬い氷を溶かして雨を降らし、不毛の地を実り豊かな地へ変えた。六花龍様の導きで、人々は農作を覚え、生きることを学んだ」
雪は頭の中で、新雪の色をした龍が人々に語りかけている姿を必死に思い描いた。
「人間のために力を使い果たした六花龍様はやがて衰えていった。最後には清龍山へと姿を変え、永い眠りについた。人々はその功績を称え、彼女を龍神様としてあがめるようになった。そうして生まれたのがこの雪嶺国だ」
司狼はふと空を見上げた。
灰色の雲から、粉雪がちらつき初めていた。
「あの、前言っていた雪代って」
「雪代は龍神様がこの国に遺した恵み。雪解け水の子供だ。この国の土は六花龍様の死体が姿を変えたもの。この土で育った子供は、龍昇と言って、突然龍の力を授かることがある。その祝福を受けた子供たちを雪代と呼ぶ。雪代は聖なる巫女として、清龍山の麓にある斎龍院に集められ、龍神様と同じように崇め奉られるんだ」
雪は頭巾の下の自分の姿を思い出す。
銀色の髪に、尖った角。金色の瞳。尻尾こそ白くはないが、鱗に覆われたそれは紛れもなく龍のもの。
そして先ほどの瀬尾の反応。口にこそ出していなかったが、それが示す事実は容易に想像できる。
周りに聞こえないように、最小限の囁き声で聞く。
「私は……雪代なんだよね」
「ああ」
司狼は簡潔に返した。
事実がわかっても、雪にはあまり実感がなかった。
司狼が語った雪嶺国の神話は初めて聞いたものだったし、この祠も、通りがけに見た黄色い瓦が連なる寺院も、なんだか遠いもののように感じる。雪嶺国に由来するものより、瀬尾の船や六部族といった狄地、いや楽土の話の方が肌に馴染む気がする。
(私は一体誰なんだろう)
空を見上げると、家々の間を渡されている五色の旗が、海風に揺れているのが見えた。
雪はなんだか胸が苦しくなり、思わず目を細めた。
雪雲は海の色さえ曖昧にする。
先ほどまで底が見えない青を湛えていた海は、今では灰色の幕に覆われたように、くすんだ色をしていた。
司狼と雪は瀬尾に進められた食堂に着くと、海が一望できる二階のテラス席に座った。安くて人気の食堂だと瀬尾が言っていた通り、店内はごった返していた。客のほとんどは観光というより、船舶関係の労働者といった風だ。
勝手がわからずぼんやりと周囲を見回している雪に代わって、司狼が頼んだのはトゥクパと呼ばれる雪嶺風の煮込み麺だった。
トゥクパのスープはヤク肉から出汁をとったもので、最初はむせ返るような獣の匂いにギョッとした。しかし慣れると優しい塩味が癖になってきて、香辛料のピリリとした辛さも相まってどんどん箸が進んでいた。野菜と肉がふんだんに入っていて、食べるだけで体に力が漲ってくる気がしてくる。
雪が小さい口を懸命に動かして咀嚼していると、店の下の路地を眺めていた司狼が、周囲を警戒するように狼耳を動かした。
「雪、隠れてろ」
小声で言われ、雪は頷いて卓の下に潜り込んだ。
鎧がぶつかる金属音。それらはガシャガシャと階段を昇って近づいてくる。足元を見るに、少なくとも五人はいる。狭い店内だというのに、重苦しい甲冑を纏っている。物々しい雰囲気に、店内はざわつき始める。
遅れて現れたのは、狐族の女性だった。
白い狐耳と長い尾を、鎖帷子から覗かせている。腰の両側には二本の曲がった刀が差してあった。帷子の下に着ている衣は、青みがかった白で、絹だろうか、一目で上質なものだとわかる。これは彼女の背後にいる部下たちも同一だった。
鍛え上げられた体は程よく締まっていて、目つきは研ぎ澄まされた剣のような鋭さがあった。着飾ったところは何もないが、そのあり方は誰が見ても美しいと称されるものだ。
しかしその中の何よりも目を惹く要素があった。
(黒い肌……)
その色は、遠い異国の血を引いている証明だった。今まで雪が見てきた人間は、例外なく真っ白な肌をしていた。しかし目の前の女の肌は、こんな雪雲のかかる国より、太陽が照りつける場所の方がよほど似つかわしい。
女は進み出て、司狼の前に毅然と立つと、決めつけるように言った。
「貴様、泰牙の側近だな」
司狼は目線もくれず、麺をすすりながら返す。
「人違いだ。他を当たってくれ」
「顔に目立つ傷のある狼族の戦士なんて、他に思い浮かばんな」
女戦士は長い脚を振り上げて、食卓の上に軍靴を叩きつけた。その力で卓がみしみしと悲鳴を上げる。食事を楽しんでいた客たちが一斉にこちらを見て、示し合わるように目を逸らした。
「食事中だぞ」
司狼はやっと女の顔を見た。
「雪代様が一人、減っていた。お前なら知っているだろう」
「知らん」
「じゃあこの二人分の飯はなんだ」
「生憎大食いでね」
司狼が再び箸で麺を掬おうとすると、女は足にぐいと力を入れ、そのまま卓をひっくり返した。
箸を持ったままの司狼と、頭を抱えた雪が空の下にさらされる。ほとんど汁だけになったトゥクパが、ひっくり返って床に広がる。
「あっ……しろ……」
全身に嫌な汗を垂らしながら司狼を見やったその時、氷を思わせるようだった女の顔に、一瞬にして花が咲いた。
「雪代様!」
女の勝ち誇ったような声が店内に響き渡った。
「こんなところにいらっしゃったとは。狼の男が種族違いの子を連れていたというのは本当だったのか。山賊の情報でも使える時は使えるな」
まさかとは思ったが、前に遭遇した山賊が二人の情報を漏らしていたのだ。
「さあ、雪代様を引き渡してもらおう!」
女は剣を一本抜いて司狼の首に突きつけた。
司狼は一寸たりとも体を動かさず、女を睨んだ。
「聞いたことがある。お前、荼吉尼隊隊長の伊綱だな。雪嶺軍の人喰い女神様」
「知っているなら話が早い」
伊綱は口角を上げた。
腰に差していたもう一本の剣を流れるように抜いた。応えるように司狼も無骨な剣を抜く。
一閃、剣筋が光った。
伊綱の剣技は、流麗という言葉が似合った。
力など込めていないかのような軽さと、円舞思わせる体の流れに速さが乗り、劇でも見ているような心地になる。しかしその赤い瞳に宿る殺気は、本気で司狼を斬り殺そうとしているそれ。
それに対する司狼は、伊綱の華やかさとは真逆。質実剛健を絵にしたような剣技だった。
伊綱が繰り出す目にも止まらぬ速さの剣戟を、正確に、確実に受け止める。ただ静かに耐えて、じっと反撃の機会を伺う。
剣がぶつかる度に火花が散り、刃が欠けていく。
司狼は伊綱の隙を狙っているようだが、当の伊綱の動きに一切の無駄はない。
伊綱の部下たちは、近づけば危険と承知しているのだろう。背後で礼儀正しく控えている。動きを見せる様子はない。
このままでは消耗戦になる、と思った瞬間に、雪は思わず叫んでいた。
「やめて!」
しかし雪の叫びも虚しく、二人は攻撃を止めない。
雪は歯を食いしばった。いくら司狼が素人目に見て強いからと言って、ここで殺されない道理はないのだ。
ここまで身を挺して護ってくれているのに。
あるかもわからない家に、送り届けてくれようとしているのに。
(私には何も力がない。この人に報える力が)
涙を一筋流しそうになった瞬間、雪の頭に、雷光のイメージが走った。
それは青緑色をしていて、先ほど司狼が瀬尾との交渉に使った宝石を彷彿とさせるものだった。
凍っていた心に、感覚が蘇ってくる。
深層に意識を繋げる。この世界を構築する知識の力に。二つの文字は、複雑な二重螺旋を描く。
(ああ、そうだ、私は)
予言を頂き、天候を操り、人智を超えた力を扱う。
雪代、なのだ。
伊綱の動きを止めたい。その気持ちを形として昇華する。その頭の中で、確実に像を描き出す。
想像し、固め、経文を唱える、発動する。龍の力は、そのための機構。
心臓に、脚に、指先に、青緑の雷光が駆け抜けていく。
「唯識。第八識。阿頼耶識に接続。空より色を生ず。氷よ我に従え!」
周囲の空気が、急に冷たくなった。
伊綱の足に白い靄が巻きついた。瞬きする間にそれは冷え、液体に、固体になっていく。
「氷……⁉」
伊綱の顔が蒼白に染まっていく。
「う……ぐ」
みるみるうちに二本の脚は霜だらけになり、氷漬けにされていく。雪に触れようと必死に手を伸ばすが、雪には到底届かない。
背後にいる部下たちも、彼女を守ろうと踏み出そうとするが、必死の抵抗も虚しく、同じように氷の彫刻と化していく。
やがて伊綱は、雪に手を伸ばしたその体勢のまま、半身を固められてしまった。
雪は立ち上がり、司狼の手をとった。
「司狼、行こう」
「あ、ああ……」
迷っている暇はない。二階の手すりから、転げ落ちるように飛び降りた。
「雪代様!」
背後から、伊綱の叫び声が聞こえてくる。
「私が必ず連れ戻します……から……」
力無い悲痛な叫びは、喧騒の中に消えていった。
舟屋に戻ると、二人を待っていたのだろう、すでに櫂を握った瀬尾が叫んだ。
「乗れ!」
飛び乗ると、小舟は波間を切り裂いて進み出した。
瀬尾は慣れた手つきで櫂を手繰り、舟は海の上を滑っていく。その速度は人間一人が漕いでいるものとは思えないほどの速さだった。
後ろを振り返れば、視界に映る嵯峨湊がどんどん小さくなっていく。赤煉瓦造りの家々も、何十とある船たちも、その背後にそびえ立つ、壁のような清龍山脈も。
「雪嶺軍と揉めたんだって? 騒ぎになってたぞ」
不意に瀬尾が切り出した。
「雪が雪嶺軍に見つかってしまった。楽土とはいえ、あそこは雪嶺の植民地も多数ある。捕まるのも時間の問題だ」
「心配すんな。楽土じゃ少なくとも俺らの方が地の利がある。そうだろう、英雄」
茶化すように瀬尾は言った。
「……その呼び方、やめてくれ」
露骨に嫌そうな顔をしたので、瀬尾は尚更顔をニヤつかせた。
「司狼は英雄なの?」
「そうだぞ。楽土の七部族をまとめ上げて、雪嶺軍に一泡吹かせた張本人だからな」
雪が、そうなんだ、と漏らすと、瀬尾はにっこりとうなずいた。その様子は祖先の昔話を読み聞かせる年長者のようだった。
当の司狼はそれを見て、重いため息を吐いた。
「やめろ。昔の話だ」
司狼は過去の話になると、途端に口を閉ざす。子供には聞かせられない話なのか、恥じているのかわからないが、雪はその度に突き放されたように感じて少し寂しかった。
不意に、頬に冷たいものが当たった。
思わず天を仰ぐ。灰色の空は一層厚くなっていた。
いつの間にか、海風に雪が混じっていた。
目を細める。
視界の端に、霞のような陸地が見え始めていた。
(あれが、楽土……)
幽玄に折り重なる、切り立った山々は、神々の住処を思わせた。しかし、龍神のような、人間と共に在る神ではない。そんな生優しい神ではない。
未踏の地に太古から存在する神を、自然の脅威を、連想し得るものだった。




