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その手を  作者: 一ノ瀬 蒼
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その手を考えて

それから1週間ほどが過ぎ、俺とユーリの共同生活に3つの変化が起きていた。1つ目、ユーリが日単位で眠りにつく事はなくなった。俺が仕事に出ていたあの日起きていた時はかなり無理をしていたらしく、それから数日間ほとんどの時間を死んだように眠って過ごしていた。しかし今日まで少しずつだが確かに活動出来る時間が増えてきている。後々になってなぜそうまでして起きていたか尋ねると、俺に早く会いたかった、俺を出迎えたかったと答えられた。やっぱり天使の考え方はさっぱり分からねぇ。ちなみにそいつの目は未だ見えないままである。しかし視力が無くとも、今のところ特に困らされる点はなかった。もうこの家の間取りもだいたい掴んだらしく俺が誘導しなくても基本的に歩けるので、放置していても問題ないのである。2つ目、俺が家を空けた後に帰ってくると必ずテーブルの上に飲み物が出現しているようになった。昨日はブラックコーヒー、その前は紅茶といった具合に毎日変わるその品は、ちょこんとテーブルの中央で鎮座する。直接確認してはないが、用意しているのはアイツしかいない。

「お前の最優先は力を取り戻すことだ。無理に起きてるなんて馬鹿な真似はするな。」

その一言を告げてから始まった習慣だからだ。はじめは毒が盛られている可能性を加味して使い魔に飲ませていたがいつまでたっても平気な様子だったので、最近とうとう自分で飲むようになった。物の味も大して分からない生物に与え続けるのも勿体ない。しかし家の戸を開けるのはもっぱら日付をとうに過ぎてからであるため、飲み物はすっかり冷めきってさして旨くもなかった。それでも何となく、まるで動作をインプットされている機械のように毎日そいつを喉へと通していた。そして3つ目、これに俺は頭を悩まされている真っ最中だ。ユーリの腕が日に日に傷だらけになっていっていくのである。

「……どうすっかなぁ」

俺以外の全てが寝静まった家のなか、窓から差し込む朝日を眺めながらポツンと呟いた。




ユーリの腕の傷に最初に気付いたのは3日前の事だ。ふとした時に目にしたその手首付近から指先までにいくつかの小さい切り傷が付いていた。きっと壁に手をついて歩いてひっかけたんだろうと思うくらいの些細なもの。その時の俺は特に気にしてなんかいなかった。しかし次の日もその次の日もと似たような傷が増えていけば、さすがに怪しいと思う。試しに壁に手をついて歩いてみたが切り傷をつけるようなでっぱりなどもなく、普通の生活では傷などつかないはずだと分かった。やつは外に出ている様子もないので外で傷をつけてきたという訳でもないだろう。日が経つにつれ切り傷だけでなく打ち付けたような赤い跡までポツポツと現れだす。そんな中ふと頭の中に1つの疑いが浮上した。もしかしたら俺の企みに勘づかれたのかもしれない。人間は絶望的な精神状態が続くと手首を中心に自傷行為に走ることがあるらしい。もし天使にもそれが当てはまるとすれば、悪魔に食べられるよりはと自殺を図っている最中なのではないだろうか。その考えはぐるぐると脳内を行き場なく巡り続ける。せっかくここまで回復させたというのに、今アイツに死なれたらこっちは大損だ。アイツには元気に俺の胃に収まってもらわなくては困るのである。ひたすら考え続ける事を放棄した俺は、検証に移ることにした。こうなりゃとっとと原因を掴んじまおうと思う。そんなわけで検証1日目としての今日が幕を開けた。

「おい、飲むか」

窓際の日が射すところに座って日向ぼっこにいそしむユーリにコーヒーを手渡してやる。とりあえず相手の緊張を解いて話を引き出しやすくするには飲み物だろうと考えた結果だ。俺としてはなかなか悪くない案だと思っている。奴の様子を確認すると、マグカップに鼻先を寄せて香りで中身を確認しているようだった。

「コーヒー…ですか?いただきます。」

そういって一口ずつちみちみとカップに口をつけるユーリ。その姿を見るにこれは上手く聞き出せそうだ。怪しくない程度に営業用の優しい声色を織り混ぜて尋ねつつ、ユーリの隣へと腰を下ろす。

「旨いか?」

「…は、はい。美味しいです」

俺からの質問に一瞬間が出来るも、すぐにへにゃりとした笑みと共に返答が帰ってきた。眉が下がっているのはおおかた俺から話しかけられる事に緊張でもしているのだろう。ユーリに淹れたものと全く同じブラックコーヒーを啜ってからさりげなさを装って口を開いた。

「そうか、ならいい。あー…そういえばお前どうしたんだ、その手。」

…全然さりげなくならなかった気がする。ぽかんとしているユーリに対し促すようにもう一度声をかけると、漸くのったりとした返答が返ってきた。

「…え、えーと…な、何でもない、ですよ?あ、そう!ひ、拾い食いしちゃったんです!」

「いや拾い食いして痛むのは手じゃなくて腹だろ何言ってんだ。変な嘘つくな」

「う、嘘なんてついてないです!ホントです!」

「……すげぇ汗かいてんぞ」

予想外だ。ユーリがこちらを誤魔化そうと試みている…超絶ど下手ではあるが。その後俺が何度尋ねても押し問答が続き、結局収穫のないままカップの底が見えてしまった。無駄に言い合いを続けるのも癪なので今回は口を閉じることにする。理由はとんと見当がつかないが、どうやら俺にはどうしても言えないらしい。もし大した事ない理由ならば少し言えば事情を吐くと踏んでいたが、そう簡単に事は運ばないようだ。俺に知られないようにひっそりと自殺を試みている、その仮説が徐々に鮮明になっていくように感じた。自分を喰っちまおうとしている相手に自殺計画をみすみす教えるほどコイツも馬鹿ではないはずだ。本人にアプローチしても原因が分からないなら仕方がない。俺は遠回りながらも第2の策を打つことにする。




「…はぁ、それで僕の処へ訪れたのかい。」

そう言って第2の策はシックな色合いの大ぶりな机に飲みかけのティーカップを置き、呆れ半分嬉しさ半分といった曖昧な笑みを見せた。壁じゅうにぎっしり中身が詰まった本棚が立ち並ぶ部屋であいつの特等席である安楽椅子がぎしりと音を立てる。いつも通り自然ばかりが周りを取り囲む魔術師の住み処のドアを叩く事が次の策だ。もっともノックなんて上品な事をしたところであいつの耳に届く訳がないので、とっくに俺はやつの部屋のなかである。

「しかも登場も普通にドアからだし…初めて会ったときのようにふっと闇から現れてくれればもっと風情があるというものだよ?」

「うるさい。昔の話を持ち出すな。良いから教えろ、天使は自殺が出来るのか?」

とりあえず今の状況的に、死なれる事か他の天使へ助けを求められる事以外は大した痛手ではない。しかし腕に傷をつけて天使が助けを呼ぶなんて事は、今まで生きてきた中で聞いたこともない。そうなればユーリが自殺さえ出来なければ済む話。気持ち悪いくらいの書物に囲まれるコイツに聞けば分かるだろうと、答えを求めて足を運んだ。ふうと軽く息を吐くとアルカディナは椅子から立ち上がり、安楽椅子のすぐ隣にある大きな木製の棚を開く。意図を尋ねると話をする時には紅茶くらいあった方が良いだろうと返される。女かと思うほど白い手で茶葉の缶を取り出すと共に、話が始まった。茶葉を取り出した次はその上の段にあるソーサー付きの上物なカップに手を伸ばし始める。

「…結論から言うと自殺は可能だよ、物理的攻撃だって通用するからね。でも君から聞いた様な手首に切り傷をつけるくらいで重症には至らない。天使も悪魔も人間よりはるかに耐久力や回復力があるから、物理じゃあよほど手酷くやらないと致命傷にはならないんだ。本気で殺したいならたとえば」

ふいに言葉が途切れ、静かな部屋にカップのかちゃりと鳴る音だけが響いた。時間にすれば一瞬だろうがそれを数分にも感じた俺は異常だったのか。

「四肢を引きちぎるくらいの事はしないとね。」

澄んだ薄紫の瞳は物言わぬ宝石を嵌め込んだように、何の感情も読み取らせる事はない。美しいと感じる紫は健在であるものの、どこか寒々しい雰囲気を纏っている。恐ろしい事言うな魔術施さまはと返した自分の声がどことなくか細く聞こえて情けない。カップがテーブルに置かれコトリと鳴る音。少しの間を置くと、悪びれもしないいつも通りの呑気な返事が返ってきた。

「だって事実だもの。そういうものなんだ。それに怖がらなくても私はそんな事したりしないよ?」

振り返ったアメジストの瞳は俺を素通りして隣の部屋へと移っていった。

「お湯を沸かしてこよう、待ってておくれ。」

玄関から直通である書斎から別室にあるキッチンへと向かうアルカディナ。俺はみっちりと書物で埋め尽くされている大量の本棚に囲まれたあいつの拠点に一人となる。大ぶりの机と安楽椅子の後ろに構えてある広々とした窓から風が吹き込んで、部屋に笛のような音が響いた。害など一ミリもないような振る舞いをしているくせに、どうにも掴み所のない魔術師様だ。しばらく俺の胸は風にめくられ続ける本のページのように静まることがなかった。



「今日はカモミールティーを淹れたよ。カモミールは4千年以上前のバビロニアですでに薬草として用いられていたと言われる歴史ある植物なんだ。神経を鎮めてリラックス効果をあたえる薬草として有名で、安眠、リラックス、疲労回復に作用する。常日頃イライラしやすいディックにはぴったりだろう?」

「うるせぇ」

「それとカモミールにはアピゲニンという成分が含まれているんだ。抗酸化作用があるから老化防止に効果的だよ、ディックもそろそろ気になる年頃だろうと思ってね。」

「余計な気遣いすんなポンコツ。まだピチピチの現役だわ」

「嘘だぁ、君5000歳はいってるだろう?」

「黙れ、5000歳はまだまだ若い方だ。」

…天気もいいから庭で茶を飲もうと言う気持ちはまだ分かる。が、この講義は死ぬほどいらない。あの後湯を沸かしてきたアルカディナに誘われるまま、俺たちは庭先にあるテーブルで茶を嗜んでいた。植物たちが思うままにぼうぼう生え伸びた森に入る手前、この家を出てすぐの所には白く艶やかな丸テーブルと同じく真っ白い椅子が置いてある。長々としたカモミール講習会が開かれるなか、二人の前にあるのは滑らかな白いカップ。中は勿論今しがたお講義を賜ったカモミールティーだ。律儀に用意されたミルクの小さな壺と砂糖の入ったガラス瓶は誰にも使われる事なく鎮座している。

「とにかくカモミールは凄いって事だよ、分かったかい?」

「お前が俺を短気なジジイだと思ってるって事だけは分かった。」

「もう、あれはただの冗談だって」

どう考えても冗談じゃないだろとぼやきながらカップに口をつけた。ちらりと相手へ視線を向けるも、瞳の紫は今やすっかり人間味溢れる暖かい色に戻っていた。分からない奴だ、ただの俺の思い過ごしかも知れないが。テーブルの足元へ餌を求めてやってくる小鳥を撫でてやっているアルカディナの穏やかな声が響く。

「そうそう、ユーリちゃんの事に関してだけど。天使は悪魔と契約したり、過度に悪魔の汚れた力に触れさせると堕天しちゃうから気を付けるんだよ。堕天使を食べたって君の力にもあまりならないだろうしね。」

優しい指先に撫でられる青い鳥は、心地よさげに目を閉じて大人しくしている。俺は腰からチェーンで下げた懐中時計をさっと見ると、ティーカップの中身を飲み干した。

「へいへい、堕天使なんて喰ったら共食いも同じだろうからな。俺だって下手に浄化されて死ぬわけにもいかねぇし、丁寧に扱いますよ、と。」

空はまだ明るいが夕方に差し掛かっている。帰るのを遅くしてまた手首の傷を増やされても厄介だ。ごちそうさんと一言告げると背中の翼を大きく広げた。この森から俺の町の近くまで飛んで、それから普通の人間のように歩いていけば人から見つかる事への対策として充分だろう。俺はそのまますっと上へ向かって羽ばたいた。また来ておくれよ、と手を振るアルカディナがどんどん小さくなっていく。アイツの言うことによれば手を傷つけた所で死にはしないらしいが、ならばユーリは何のためにあんな事をしているのだろう。純粋なその疑問だけが俺の翼を静かに急かしていた。




人間の遅い徒歩移動に合わせて小一時間。ようやく辿り着いた自宅のドアへ鍵を密かに差し込み、音もなく中へ入る。目の使えないユーリの事だ、上手くやれば息を潜めただけで気付かれずにいれるだろう。そのまま手首を傷つける瞬間に立ちあえれば全ての真相が分かる。そう考えた末の行動であったが、目的の奴はすぐリビングの奥に見えるキッチンにて佇んでいた。影に隠れて見えはしないが、おおかた今日の飲み物でもこしらえているのだろう。しかしキッチンへと静かに足を運べば、その予想が外れているとわかった。そいつはピーマンを切っていた。めちゃくちゃなやり方で。左手全体を使ってピーマンを全て包み込むように押さえており、力ばかり込めて丸ごと握った包丁を半端に差し入れてはピーマンを触って最後まで切れていないと確認する。再び切り直そうとピーマンを固定すべく動いたその手は、ずれて刃の先へ刺さった。思わぬ痛みに体をびくつかせると、慌てたように両腕を離す。オロオロしつつも再び刃を探して手探りすれば、今度は右手で刃を握ってしまい声なき悲鳴をあげる。………正直見てられねぇほどに酷い有り様だった。

「おい。」

恐る恐るまた手探りし始めるユーリに向かい声をかけると、そいつは尻尾を踏まれた猫のように体を跳ねさせた。俺のいるキッチンの入り口へ一瞬顔を向けると、今度こそ大慌てで先程の調理道具たちを端へ端へと押しやりだす。

「でぃ、ディックさん…!?あの、あ、これは、これは何でもないんです!」

「いや何でもなくないだろ、あ、おいそこ右手」

案の定雑に押し退けようとした右腕に刃が突き刺さり、ユーリはまた痛みに呻く羽目になった。押し退けられた更に奥を見れば見映え悪く千切られた肉片とそれを入れたフライパンが目に入る。

「…とりあえず何をしようとしてたのか聞こうか。」

「………ま、前に作っていただいた炒め物…を、作ろうとしてました…でも全然できなくて、その、すみません…。」

小さく小さく縮こまったそいつからは申し訳なさそうな声が返ってくる。全くこんな無惨な切られ方をして食材に憐れみすら感じそうなくらいだ。俺は包丁の前で直立不動のユーリをどかすと、ざくざく無惨な姿の野菜を切り始めた。音で何をしているのか分かるらしいユーリはおろおろとこちらへ盲目なりに疑問の視線を向ける。フライパンにかける火を起こし、油とピーマンの成れの果てを入れてやって一言。

「フライパンはここだ。炒めてみろ。」

おどおどしているその手に木製のへらを持たせ、もう片手を掴んでフライパンの柄を握らせる。ユーリは一瞬きょとんとした後に、はいっ!と元気な返事をして作業に取りかかった。



「……で。出来た結果がこれねぇ…。」

「…あの、ホントに、ごめんなさい…。」

俺たち二人はテーブルを挟んでそこに鎮座する暗黒物質を眺めていた。炒め始めた所まではまぁ良かった。しかしこいつの料理センスの無さといったら、幼稚園児でももう少し上手く作るんじゃないだろうか。それとなく側で火加減を見てやってはいたのだが、俺がちょっと目を離した隙にピーマンと肉は消し炭と化していた。どんな暗黒魔法を使ったんだと問いたいレベルに。どす黒く固まった物体は岩石のようにも見え、とにかく失敗作という事実だけが浮かび上がる事態だった。ユーリにもそれは伝わっているらしく、ひたすら体を小さくして今にも地面に埋まってしまいそうである。その時縮こまった体が予想外の言葉を発した。

「すみません…その、ディックさんに、お礼をしようと思ってたのですが、こんな事に…ごめんなさい…。」

「礼?何の?」

「何の、というか…ディックさんは私を助けて下さって、こうしてお世話になってるので…。」

「……。」

「今私がこうして居られるのは、ディックさんがあの日拾ってくださったおかげです。だから何か、何かお返しがしたくて…。」

お礼。お返し。とんと馴染みのない言葉に思わず目を瞬く。何とも形容しがたいむず痒さが広がった。ユーリの話を素直に受けとれば、確かに今までの疑問の辻褄は合う。手首や手の傷は、調理中に包丁を扱い損ねたりへまをして出来たもの。俺に隠そうとしていたのは失敗作を見せたくなかったから。謎が解けてなるほどと一息ついた自分と予想外の事態に困惑する自分が混在しているのを感じる。別にしたところで自分に利益が返ってくるかも分からない行為。完全な自己満足行為。だが--。

こんな事全く馬鹿げてる、これで腹を壊したら洒落にもならない。そう考えつつも、テーブルの上の皿に手を伸ばした。皿に直接口をつけ、手近にあったフォークでざらざらと消し炭を口内へ流し込む。ユーリの驚く声が聞こえたが無視して咀嚼する。固い。そんでもって苦味以外の味が感じられない。薬品か何かぶちまけた大理石でも食べてる気分だ、生き物が食うものじゃない。どんと盛られていた黒を残らず腹に納めると、空になった皿を半ば投げるようにテーブルへ戻した。深く深く、あらゆる気持ちを吐き出すような息を吐いてから、もう一息吐くように言葉を発する。

「……ごちそうさん。」

ずっと焦りに焦った様子をしていたユーリは、しばらくぽかんと俺の方を向いていた。しかし徐々にその顔に喜色が滲み始め、最終的に返ってきたのは弾んだ言葉。始めに自殺を図っているのではと勘繰ったのが、全く馬鹿馬鹿しく感じられるような声だった。

「…は、はい!おそまつさまでした!」

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