その手を迎えて
寝室から出てリビングの椅子に腰を落ち着けると、おとなしくしていた黒猫がするりと肩からテーブルの上へと移動した。これから話し合うことを分かっているらしく、俺と向かい合って赤い瞳をこちらへ向けている。端からみればその空間に声は聞こえないだろうが、それは人間においてのみの話。俺は喉元を撫でてやりつつ、使い魔の報告に耳を傾けていた。告げられるのは男の行方、逃げた後の様子、思わずこぼしていた一人言。
「…ふーん…。」
終わった報告に、ひとりごちる。どうやら今回も面倒くさい仕事になりそうだ。…死に際でごねる人間はひときわ面倒くさい。もういいぞと一声かけて猫の頭を撫でてやると、黒々としたその体は闇のように溶けてなくなった。窓から差し込む光が不釣り合いに明るい。決行は今夜だが、まずは下準備がいるだろう。そう考えを巡らすとこれから流れるであろう赤さのネクタイを締め直し、静かに扉を開けた。
「……んん…?」
「お目覚めか?」
町の中心部から大分離れたとある廃屋のなか、やっと意識を戻した男に声をかける。立派な紺色のスーツに身を包んだその男は、深夜の暗闇にぼんやりした明かりしか灯っていない部屋を見回した後にうろたえるような声を返してきた。
「ここは、どこだ…?…お前は誰だ?僕は、なぜここに…」
「ここがどこかも俺の名前も教えてやる義理はない。強いて言えば、俺は主人の命令のもとにお前を痛め付けるだけだ。」
「訳のわからないことを言って…悪ふざけも大概にしろよ。」
うろたえつつも頭はしっかりしているらしく、仰向けに転がされていたそいつはすぐに這いつくばって出口を探し始めた。まあ右も左も分からない状況でむやみに動くのは賢明な行動とは言えないけどな。複雑でもない構造の一軒家であるここで出口を見つけられても迷惑だ。ぱちんとひとつ指を鳴らすと男の動きがピタリと止まった。続けて振り払うような手振りをすると、男の体は放り投げられたかのような動きで部屋の奥の方にある椅子へと着地する。椅子に座った姿勢のまま動けないでいる人形のようなそいつに近寄りするりと古い木製の背中を撫でると、肘掛けと脚の先がつたのように変化し巻き付いて男の四肢を固定した。
「痛い思いをしたくないならさっさと自分の罪を懺悔して女にすがった方が良いぞ。」
何だか聖職者みてぇで気持ちわりいセリフだが、けして男への気遣いではない。個人的にとっとと女が満足するような反応を示してもらって、仕事が終わった方が楽というだけである。…しかしなんでコイツいきなり静かになったんだ?立ち向かうような目付きで見てくるのに一言も発さないそいつをまじまじと眺めてから気づいた。あ、そっか、さっきかけた拘束の術まだ解いてねぇや。面倒だから口も動かせないくらいの強さでかけたことを忘れていた。投げやりにぱんと手をひとつ叩くと男の体は緩み、同時に今水から出たばかりかのようにぷはっと息を吐いた。
「この悪魔め、誰がお前の言うことなんて聞くか!今に神父様が正義の鉄槌を下すだろう…!」
へぇ。この状況下でそんな口がきけるなんてそこそこ気概のあるやつだな、感心感心。とはいえども抵抗する気がありすぎても困るので、少しお灸をすえておくことにする。口の片端をくいっと吊り上げて一言。
「なんだよ。初対面なのに失礼なやつだな、減点。」
そして椅子の肘掛けに腕ごと固定されたままである左手の小指を軽く弾いた。正確にはその爪を。瞬間男の叫びがあがる。悲鳴と同時にじたばたと体を揺するが、縛られたままで満足に動けていない。男の左小指を覆う爪はなく、弾いたそこには真っ赤な肉と血液が露出していた。落ち着くのを待ってから再び口を開く。
「利き手じゃない上に小指とか、俺やっさし~。ま、これからお前にするのはこういうことだよ。」
「……なんの、ために……」
剥がれとんだ爪を拾っていると、息も絶え絶えな質問が飛んできた。視線もくれずに答える。
「不倫したんだろ、お前。それを後悔させたいってやつがいるんだよ。せいぜい早めに命乞いしとくんだな…お、来たぞ。」
男が不満そうに口を開きかけた瞬間、廃屋のドアが大きくきしんだ音をたてた。くるりと振り向いて入り口を見ると、淡い桃色のシンプルなワンピースに身を包んだ主人がひっそりと立っている。女がドアの敷居を越えたとたん、その腕にあった光輝く不気味な赤さのブレスレットがまばゆさを失った。常人ならほぼ探し出せないであろうここへたどり着くための手助けの役目は終わったのである。背後から小さく聞こえるのは男が息を飲む音。近づいてきた女に向かって演劇をしているかのように大げさに両腕を広げてから丁寧に頭を下げる。主人の前の俺はあくまで従順な召し使いだ。
「ようこそいらっしゃいました、ご主人様。では始めましょうか。」
「君、悪魔と手を組んだのか!!なんてことをするんだ!!」
俺の穏やかな声を遮って男の切羽詰まった怒鳴りが飛んだ。世間一般的に悪魔の存在が認識されているとはいえ、悪魔と関わることは誉められたものじゃない。悪魔と契約したなんて知れれば蔑まれることは避けられないだろう。俺らはきちんと仕事をして対価をもらっているだけなのに、とんだとばっちりだ。
「ご主人様に向かって無礼なやつだな。立場をわきまえろよ。」
男へと向き直ると、とびきり冷たい声を出して男の左薬指を弾く。飛び散る赤と再び上がる呻き。個人的な仕返し半分、主人への見せしめ半分の報復だ。男の前から主人の近くへと移動しながら目の端で盗み見た女は驚きに身体全体をこわばらせていたが、すぐに緊張を解いて強気な様子へと変わった。さっと男から視線を外して俺を品定めするかのような視線をよこしてくる。
「…やるじゃないの、悪魔。」
「お褒めに預かり光栄です。次はどういたしますか?とりあえず両手のの爪でも剥がしてしまいましょうか?」
少し間があってから任せるわ、との一言が出た。爪を剥がすのは楽でいい、それなりに苦痛が伴うが完全に気が狂わない程度の痛みだから。意識がちゃんとしているうちにとっとと主人を満足させる返事を出してほしいものだ。そう思いつつまた男のもとへ歩を進めた時、さっそく男が動きを見せた。
「僕が不倫したと怒っているんだろう!?違うんだ、僕の話を聞いてくれ!」
しかしこの程度の呼びかけで治まる怒りでもないだろう。案の定女は眉間のシワを深くしさっきよりキツめの口調で、早く剥がしなさいと吐き捨てた。俺は男の制止の声を無視して、命じられるままに男の爪を吹き飛ばし始める。1枚無くなるごとに男は喉を枯らさんばかりの叫び声をあげ、痛みを少しでも逃がそうと縛られた手足でバタバタと暴れた。覆いをなくした指先からは止めどなく血があふれ、男を固定している木の椅子にじわりと染み込んでいく。男が苦痛に耐える声やもがく音、それと俺が魔力で爪を弾き飛ばす音が空間を満たすなか、女は静かにそれを見つめている。あと1枚ですべて剥がし終えるというところで、切れ切れの息を繋いだ必死の訴えが響いた。
「あれは君への裏切りじゃない!」
何とか吐き出したその言葉は女の復讐に燃える心にさらに油を注いだようだ。先程まで落ち着いていた女の様子が一変する。目はこれでもかと見開かれ眉はつり上がり、噴火した火山のような激しさで突如わめきだした。
「ふざけてるの!?私を抱きしめた腕で他の女を抱きよせて!私とキスした口で他の女に愛を囁いて!それのどこが裏切りじゃないっていうの!!?バカにしないで!!…悪魔!」
突然の指名にもはいなんでしょうとにこやかに対応すると、新たな指令ががなりたてられた。
「この男が2度と他の女に手出しできないようにしなさい!!」
「承知いたしました。」
俺的にはあと1枚しか残ってない爪を全部剥がしきっちまいたいところだが、命令に従おう。他の女のに手出しできなくするならこれで決まりだ。やることを即決した俺はさっと宙に手を伸ばし、何かを掴みとる動作をする。すると空気しか捕らえていないはずの手のひらに現れていたのは鈍い輝きを放つ大きな肉切り包丁。数回指先でくるくると回し遊んでから、一切の躊躇もなく男へと振り下ろした。爪を失ったときとは比にならない大きさの悲鳴が響き渡る。勢いよく肉を断ち切った刃は椅子の肘掛けにぶつかりようやく動きを止めた。男はいつになく激しくのたうち回ったが俺の魔法の前では全く意味を成さず、椅子が空しくガタガタ音をたてるだけ。身体との繋がりを失った肉塊がゆっくりとバランスを崩してぼたりと地面へ落下する。肘から先を失った右腕からは噴水のように血が吹き出した。ショックのあまり過呼吸になっているみっともない男とは対照的に、嗚呼、悪魔やってるって感じだなぁなんて呑気なことを考えていた。次は左腕いくかと再び振りかぶると、震える高くてか細い女の声が微かに聞こえる。
「な、なんでそんなこと…っ?やっ、やめ…」
耳には届いたがこの程度の物言いを命令だと捉えるのも面倒くさい。迷わず男の左腕を叩き切る。また弾けた男の叫びに混じって、今度は女の怯える声もあがった。どんどんと視界に赤色が増えていく。俺のネクタイと同じ、俺の目と同じ、俺に流れるのと同じ、赤。何となく胸にもやつきを感じ、それを振り払うように左足も切り落とした。また悲鳴と血に空間が染め上げられる。椅子の足元に転がる邪魔な肉塊を蹴り飛ばし、広がっていく赤を指先ですくいとる。指をつたってこぼれ落ちるそれは薄暗い部屋のなか明かりを受けてなまめかしく輝いていた。俺ら悪魔に流れているのと同じ、赤い血。よく血も涙もないと罵られるが、俺らだって切れば血は出るし悲しければ泣く。なぜ俺らばかり蔑まれ人間は正義の象徴のような扱いを受けるのだろう。その時、柄にもなくぼやりとしてしまった俺の思考を甲高い声が呼び覚ました。
「…あ、あ、悪魔!何をしてるの!?わた、わたしは…私は手足を切り落とせなんて、言ってない!!」
動揺と恐怖に身も声もすくんでいるようだ。自分の命令したことの意味すら把握しきれていないらしい。悪魔へ感情的に命令を下すのはやめた方がいいだろうに勢いで言うからだ。命令が大雑把でいくつもの解釈の余地があれば、当然俺ら悪魔は都合のいいようにとらえる。哀れな馬鹿女にも分かるように、振り向きにこりと微笑んで説明してやった。
「だってそうでしょう?四肢を無くしてしまえば2度と他の女に近づくことなど出来ません。ご主人様のご命令された通りですよ。」
「で、でも、そんな…!!」
女が言葉に詰まっていると、後ろでガタンッと音がした。男の方に向き直ると、固定した椅子ごとうつ伏せに倒れ込んでいる。痛みへの暴れが過ぎたのか、それとも。ふたりの意識を集めた男は聞き逃してしまいそうなほど細く、呟いた。
「……信、じて……」
椅子に縛り付けられていた肘から先の部分を失った男は、代わりに半端な長さになった両腕の自由を手に入れたのである。男は床にふせりそこを真っ赤に染め上げながら、痛みで感覚など麻痺しているだろう右腕の残りを女に向かって必死に伸ばした。出血多量で身体の一部も無くし、身動きも取れない状態で倒れ落ちるのは大きな負担になる。それでも彼女に耳を傾けて欲しかったのだろう、だから少しでも近づくために自ら倒れた。その様子に先程までの激しさを削がれ、女は静かに男の元へと近寄る。冷たさのなかに揺れる心を見せるような女の声がかけられた。
「…な、何を信じろって言うのよ。アンタに裏切られた私に…。」
「…僕は、…信じたかった、んだ…。君が、僕を、想ってくれてる…ってこと…」
男は浅い息を絞り出すように、切れ切れにゆっくりと話し出す。
…いつも僕は、君に本当に想ってもらえているのか自信がなかった。その不安がつのりにつのっていた最中にあの女に迫られたのだけれど、断りきれなかった。彼女といる時は君といる時に感じていた「本当に僕を愛してくれているのか」「いつか捨てられるんじゃないか」という思いを抱かずに済んだから。恋は盲目というけれど、本当に彼女はそれくらい僕に入れ込んでいたんだ。確かに彼女との時間は気楽だったけど、僕の心は君にある。きちんとけじめをつけなければと考えて、あの日君が僕と彼女が一緒にいるのを目撃するように仕組んだ。それを見て少しでも僕を咎めてくれたら、嫉妬してくれたら、きっと君に想われてるんだって信じられると思って。だからあんなに激しく怒る君を見て、安心したよ。でもそれ以上に怖かった、僕はいけないことをしていたって実感がやっと湧いて思わず逃げ出してしまった。だけど次に会ったらきちんと言おうと決めてたんだ。僕がこんな間違いを犯してしまった理由と、それから…。
長い長い時間をかけてようやくそこまで言うと、男は辛そうに身体全体を地面に任せていた姿勢から顔をあげ、女の目を真っ直ぐに見つめた。息はまだまだ整っていないが、はっきりした声で告げる。
「僕の、胸ポケット…のなか、見て。」
この腕じゃあもう取り出せないからね、と俺の方を一瞬だけ睨んだ。俺は主人の命令に従っただけなのに、物分かりの悪いやつだな。女がそうっと男のスーツの胸ポケットから取り出したのは手のひらにおさまるほどの小さな青い箱。ぱかりと開くと、そこには頂点にダイヤモンドが嵌め込まれた銀の指輪が鎮座していた。
「言おうと、決めてたんだ…。僕と、結婚、してください…って。」
男がそこまで言い切った瞬間、女の目からは洪水のように涙が溢れだした。箱から取り出した指輪はピタリと女の左手薬指にはめられる。女はしゃくりあげながら言葉を返した。
「…っ馬鹿じゃないの。私がっ、どれだけ悲しんだと、思ってるのよ…っ!」
そして嗚咽をもらしたまま、丁寧に男のくくりつけられた椅子を元のように立て直す。女は涙でボロボロの顔でやわらかく微笑んだ。
「し、仕方ないから、夫として、ずっと一緒にいてくれれば許してあげるわ。」
その返事に男の顔がパアッと明るくなった。血だるまの身体状況とはかけ離れた表情だ。…こうしてふたりはいつまでも幸せに暮らしましたとさ、チャンチャン。とはいかないのが現実だ。ここまでの俺、本当に空気だった。このまま放っておくとこの場で誓いのキスとかほざきだしそうなので、俺も動くことにする。祝福の笑みを張り付けて女の横へと立つ。
「おふたりが幸せそうでなによりです。…ご主人様、ご命令はどうなされますか?元々のご命令は彼を苦しめて反省させてから殺すこと、加えて彼を2度と他の女に手出し出来ないようにすること、でしたが。」
「その命令は取り消しよ、当然じゃない。」
女は血まみれの男を椅子ごと抱き締めてきっぱりと言い放った。
「アンタとの契約ももう終わりよ。最後に彼の身体だけ元通りに戻してくれれば、あとは帰っていいわ。」
「契約も終わり」の言葉に素の笑みが浮かびかけたが、ぐっとこらえて紳士的な笑顔をキープする。やっとこのクソみたいな茶番から解放される、万々歳。しかも魔術で体を治して絵にかいたようなハッピーエンドを目指しているのが実に滑稽だ。
「申し訳ありませんが、彼の四肢を治すことはできません。」
「何でよ!?悪魔なんでしょ!!」
一段落して落ち着いた表情から一変また目をむいて怒鳴ってきた。本当に情緒不安定な女だな、前食ったおっさんのほうがそこらへんはましだったぞ。俺は笑顔を崩さずに事実を伝える。
「ええ、私たちは悪魔です。神や生粋の魔法使いならばぱっと出来るかもしれませんが、私たちが1回分断されて死んだパーツを生者の一部にかえすにはそれなりの対価が必要になります。パーツ1つにつき1つの魂を込めればくっつけられますが、1度に3つもの魂を体内に入れるとなると気が狂うことは避けられないでしょう。やっと想いの通じた彼と、もう話せなくなってもいいのですか?」
重々しく張りつめた静寂がしばらく続いたのち、女はそれならばやめておく、もう帰っていいわよと恨めしげに吐き出した。そんな苦々しい表情で親の仇でも見るように睨んでこなくてもいいだろうに。そうしろって言ったのはお前の方のくせにさっそく棚に上げやがって、人間ってのはこれだから嫌になる。いつの時代も変わらない、本当に愚かで信じがたいやつらだ。そんな風に考えを巡らせていると、女の訝しげな視線とかち合った。
「…帰らないの?アンタ。」
誰がこのまま帰るかよバカが。
「まだお給料をいただいておりませんゆえ…。」
「ああ、給料ね。私の家は分かるでしょ?好きなものを持っていきなさい。」
この女、悪魔が金目の物を欲しがると本当に信じているのか。ばかばかしさに耐えきれなくなり、静かな部屋に響いたのはもれだした笑い声。
「いえ、私ども悪魔における給料とは金銭ではありません…ご主人様の魂でございます。」
相手に染み込ませるようにゆっくり言葉を発すると、二人から動揺の声があがった。特に女は噛みつくような抗議をしてくる。
「はあ!!?そんなこと一言も聞いてないわ!!」
「ご主人様がお尋ねにならなかったので、答えなかったまでです。すでに私と貴方は正式な契約を結んでいます…逃れることは不可能ですよ。」
「正式な契約」の単語を聞いて、女の視線がちらりと左手に注がれた。そこにあるのは明かりを受けて生々しい輝きを放つ赤いブレスレット。まさしく契約の証である。俺が一歩女の方へ足を踏み出した時、酷使しすぎて掠れた男の叫び声が飛んだ。
「僕を置いていけ!!逃げるんだ!!」
「っで、でも…っ!」
「良いんだ!!早く!!」
おーおー、本当にこういうやり取りが見れるとは。人間の作る嘘臭い映画にしか登場しないと思っていたんだがなぁ。男の言葉に背中を押され、女は弾けるように駆け出した。まあ、そんなことしても無駄なんだけどな。ハッと一瞬笑いをこぼしてから手を降り下ろすと、遠ざかるブレスレットが光を発した。同時に手首を無理矢理引き下げられたような姿勢で女が床に倒れこむ。慌てて立ち上がろうとするが、腕が楔を打ち込まれたように微塵も上がらない。まるで何キロもの鉛を手首に繋がれているように感じるはずだ、悪魔との契約はそれほどに重く結果を動かせないものなのだから。逃げられなくなった獲物へ一歩一歩踏みしめるように近づいていき、目の前で惨めに震えるその瞳を眺める。さあ食事の時間だ。
「…お、お願っ…!やめて…っ!し、しにたく、な」
「それじゃ、いただきます。」
そう告げてだらりと下げていた手を人差し指で天を指すかのように上げる。それに合わせてするりと女の身体中から光の筋が抜け出ると、残った身体はただの抜け殻として地に伏した。柔らかい輝きを放つ筋をくるくると手繰り寄せた時、男の消え入りそうな呟きがこぼれる。
「……ぇ、…それは、彼女の……?…まさ、か、それを」
目の前の光景が信じがたいと物語る空虚な瞳を見つめた。…救いようのない奴。人を信じたりなんかするから裏切られたときに耐えられない傷を負うはめになるんだ。この世界はいっつもそう、正直者は馬鹿を見る。だからつまりお前は馬鹿なんだよ、ぶわああーーーーか。嘲笑と共に、俺は光をのせた右手を口元に運ぶ。そして、
「そのまさかでしたぁ~」
「ま、まてっ……!」
そのままごくりと飲み干した。男に向かって見せつけた舌に残るのは、予想とは違うほんのりと甘くさらりと溶けていく冷たい味わい。もしかしたら愛を信じた魂は甘い味がするのだろうか。脳裏にそんな感想をよぎらせながら、さっと耳を塞ぐ。瞬間男のけたたましく泣き叫ぶ声が耳を押さえた手をすり抜けて聞こえてきた。全く予想通りだな、あーうるさいうるさい。獣が吠えるような咆哮が止んでから手を離すと、男が地を這うような声色で荒々しく呪詛を吐いた。
「殺してやる………!殺してやる殺してやる殺してやる!!お前みたいな屑が生まれてきたことを後悔させてやる!!!」
「口の悪い奴だな。人間ごときに俺は殺されねえよ。」
よほどのことがない限りはな。だが少なくともお前に殺されるほど俺は弱くない。そこで椅子がまたガタンッと倒された。男は拘束されたままのくせに俺に近づこうとあがいている。ちっとも進んでないくせに。仕方がないから俺から歩み寄ってやることにする。そして芋虫のように不様にうごめき続ける男に、優しい声色で語りかけた。
「俺と、契約するか?俺の力をもってすれば、またあの女に会えるぞ?」
あの女に会える、の言葉に呟き続けていた罵りの言葉と動きがぴたりと止まる。男の瞳を覗きこめば、うわ言のような問いかけがされた。
「………………また、彼女に、会える……?でも……彼女は……」
「ああ、死んだ。だが俺にとってはそれくらいどうってことない。お前をあの女と会わせられる。怒りのままに俺を殺すより、そっちの方が現実的だろう?」
「…彼女と、また……会える……」
男の瞳を見つめたままいると、しばらく落ち着きなくゆらめいた後にしっかりと俺の目を見つめ返した。
「僕と契約しろ。彼女と会わせてくれるなら。」
きっぱりとした答えを聞いて、すぐさま流れるように契約の儀式を行う。男に唯一残された右足にさっと爪で赤い線をつくり、そこに自らの血を垂らす。雷雲のような黒いもやの中から現れた血の色をした新たなアンクレットを見ると、男は俺に半分以下の長さになった腕をすがりつかせた。それじゃあ望みを叶えてやろうか。
「契約完了だな?さあ早く彼女に会わせてくれ!嗚呼待っていてくれ、せっかく想いが通じたんだこのままお別れなんてありえないそうだろなあ、」
そこまでで誰に向かって言っているのか不明な戯れ言はプツリと途切れた。俺の指は再び天を向いており、男からは先程と同じ光の筋が立ちのぼっている。魂のみになり果ててても早く女と会いたがっているのか、光たちは少し引き寄せただけでおとなしく俺の手のひらにおさまりに来た。
「もちろん会わせてやるとも。…俺の腹のなかで、な。」
そう呟いて本日2度目の食事にありついた。甘すぎて胸焼けしそうなそれを飲み込むと、疲れを示すように深く息を吐き出す。…今回の主人は二人ともくだらない奴だった。信じる信じないに踊らされた女と信じられなかったが最終的には信じこみすぎた男。女は勝手に男を信じて勝手に裏切られたと言いはり契約に乗り込んだ。信じてなんかいなければ、事実を確認するのみで裏切られた恨みや悲しみなど抱かないだろうに。そして男は代償も女との会わせ方も聞かずに契約したとびきりの能無しである。己の持った幻想のみを信じるこむからこんな目にあうのである。信じるから裏切られる、信じるから事実が見えなくなる、信じるから身を滅ぼす。信じるなんて、本当に、くだらない。
「……………。」
何だかとてつもなくすべてが面倒くさく感じて、血で汚れた部屋も転がる死体もそのままに、死で満たされた廃屋をあとにした。
うっすらと空の色が変わり始めた早朝、ようやく見慣れた我が家の前に辿り着いた。黒塗りのドアノッカーをたずさえた木製のドアを目の前にして、はじめてこの中にいる天使の存在を思い出す。どうせ眠りこけているだろうと思いながら軽くドアを蹴り開けると、何故か昨日俺が帰ってきた時と同じ位置にユーリが座っていた。蹴り開けたとはいえ静かで気づかないのか、ぼんやりとうつむいて船を漕いではビクリと動いて姿勢を正し、またコックリとしては少し起きかけを繰り返している。
「…オイ。」
そう俺が一声かけると、ユーリはハッと慌てて勢い良く立ち上がった。
「でぃ、ディックさん!戻っていらしたんですね!」
「ここで寝んなって言っただろ、前に言ったの聞いてなかったのか。」
驚いたような口調に呆れ声で返すと、誉めてほしいと言わんばかりの得意顔を向けられる。
「聞いてました!だから今度は寝ませんでしたよ!」
あれだけ頭をグラグラ揺らしておいて寝てないと言えるのかよオイ。つーか2日連続玄関にいるって何なんだ、どんだけ玄関好きなんだよお前。種族が違うからなのか、何がしたいのかさっぱり分からない。そんなことをぐるぐる考えていると、満面の笑みを向けながら明るい声で告げられた。
「ディックさん、おかえりなさい!」
「………?……おう。」
意図が読めずに何となく返事すると、またにこりと嬉しそうな笑顔を見せた。そして満足したように息を吐くと、それじゃあおやすみなさいと言ってそそくさと寝室へ消えていく。…どういうことなんだろうか。眠いならさっさと寝室へ行けばいいのに、どうして俺が来るまでわざわざ玄関にいたんだ。そういえば昨日も意味不明なことをむにゃむにゃ言っていた。やっぱり天使って訳が分からねぇ。とりあえず俺も休むべく自分の寝室へと足を向けた。




