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Eidolon ~忘れられた世界で、もう一度~  作者: 秋津 聖


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第28話 タンクという番人



イノシシとの一件で、アズールへの出発は予定より遅れることになった。


理由は単純だ。


家の修繕である。


イノシシが突っ込んできた壁は、幸いにも大きく崩れてはいなかった。とはいえ、そのまま放置して出発するわけにもいかない。


結局、壊れた部分を確認し、必要な修理を済ませることになった。


「……まさか、出発前に大工仕事をすることになるとはな」


木材を手に、俺はため息をついた。


その原因となった張本人は、少し離れた場所で大人しくしている。


あれだけの巨体で家に突っ込んできたというのに、今の様子からはそんなことが嘘のようだった。


「お前、本当に大人しいな……」


声をかけると、イノシシは顔をこちらに向けた。


「ブヒ」


「いや、何を言ってるのか分からんのだけど」


ネロを通せば意思疎通はできる。


ただ、いちいち通訳してもらうのも面倒だ。


そういえば。


「なあ、ネロ」


「なんだ?」


「こいつって、名前はあるのか?」


ネロはイノシシの方を見たあと、俺に答えた。


「名前はないそうだ」


「ないのか?」


「自分は自分だ、とのことだ」


「……まあ、そういう考え方もあるか」


本人がそれでいいなら、無理に名前を持つ必要もないのだろう。


ただ、これからしばらく一緒に過ごすことになる。


いつまでもイノシシと呼ぶのも、なんだか味気ない。


俺は腕を組み、目の前の巨体を眺めた。


大きな身体に、太い脚。


あの突進を思い出すだけでも、背筋が少し寒くなる。


そして、今後はこの家を守ってもらうことになる。


「……よし、決めた」


俺はイノシシに向き直った。


「今日からお前はタンクだ」


「ブヒ?」


タンクが首を傾げた。


その動きに合わせて、巨体がわずかに揺れる。


フシューッ。


大きな鼻息が顔に吹きつけ、前髪がふわりと持ち上がった。


「うおっ、近い近い!」


思わず顔を引くと、タンクは不思議そうにこちらを見つめている。


……こいつ、身体の大きさを分かっているんだろうか。


ネロが俺の言葉を伝えると、タンクはしばらく考えるように黙っていた。


やがて、短く鳴く。


「ブヒ」


「お、気に入ったか?」


「肯定しているようだな」


「そっか。じゃあ、今日からタンクだ」


こうして、森の家を守ることになったイノシシは、タンクという名前を手に入れた。


……まあ、本人にとっては名前があろうとなかろうと、あまり関係ないのかもしれないが。


それから俺は、気になっていたことをネロに尋ねた。


「そういえば、タンクは何から逃げていたんだ?」


家に突っ込んできたとき、タンクは何かに追われていたらしい。


森の奥で何が起きているのか。


もし危険な存在がいるのなら、今後この森で暮らしていくうえでも知っておきたい。


「タンク、この森の奥で何があったんだ?」


ネロが伝えると、タンクは少し考えるようにしてから答えた。


その返答を聞いたネロが、俺に説明する。


「森の奥で何かに遭遇したらしい。ただ、はっきりとは分からなかったそうだ」


「分からなかった?」


「逃げていたときは森の中が暗く、周囲をよく見られなかったらしい。黒い何かがいた、ということしか分からないそうだ」


「黒い何か、か……」


思わず、森の奥へと視線を向けた。


この森には、まだ俺の知らないものがいるらしい。


もっとも、黒い何かと言われても、それだけでは何も判断できない。


動物なのか、魔物なのか。


あるいは、まったく別の存在なのか。


「それで、仲間はどうしたんだ?」


タンクは仲間と一緒にいたらしい。


だが、ここに現れたときは一頭だけだった。


「逃げている途中ではぐれたそうだ。気がついたときには、仲間の姿が見えなくなっていたらしい」


「……仲間は無事だといいけどな」


思わず、そんな言葉が口から出た。


タンクが何から逃げていたのかも分からない。


仲間がどこにいるのかも分からない。


今の俺にできることは何もなかったが、気にはなった。


「タンクは仲間を探しに戻るつもりなのか?」


ネロが問いかけると、タンクは少し考えたあと、今は戻るつもりはないと答えたらしい。


まずは安全な場所に身を置くことを優先したようだ。


結果として、かなりの距離を移動し、この家までたどり着いたという。


「ずいぶん遠くまで来たんだな……」


俺は改めてタンクを見た。


これだけ大きな身体でも、逃げなければならない相手が森の奥にいる。


そう考えると、少し気になる話だった。


とはいえ、情報が少なすぎる。


黒い何かの正体も、どれほど危険な存在なのかも分からない。


今の俺にできるのは、頭の片隅に留めておくことくらいだろう。


「……まあ、何か分かったら教えてくれよ」


ネロを通して伝えると、タンクは短く鳴いた。


「ブヒ」


その返事を聞きながら、俺は作業に戻った。


それから数日。


家の修繕を進めながら、俺はタンクと過ごした。


最初は、いつまた襲ってくるか分からないと警戒していた。


何しろ、初対面では命がけの戦いになった相手だ。


簡単に気を許せるはずもない。


だが、普段のタンクは驚くほど大人しかった。


俺が木材を削り、壁の補修をしている間も、タンクは少し離れた場所でのんびりしている。


ある日の昼下がり。


修繕作業の手を止め、俺が水を飲んでいると、背後から妙な音が聞こえてきた。


「……ブゴォ……」


振り返ると、タンクが地面に伏せていた。


目を閉じ、気持ちよさそうに眠っている。


「……おい、寝てるのか?」


返事はない。


「ブゴォ……ブゴォ……」


いびきまでかいている。


「いや、お前な……」


こっちは家を直しているというのに、ずいぶんと呑気なものだ。


そう思いながらも、俺は少し笑ってしまった。


あれだけの勢いで家に突っ込んできた相手が、今は目の前でいびきをかいている。


どうにも調子が狂う。


「……まあ、静かにしてくれてるならいいか」


俺は作業に戻った。


しばらくすると、木材を叩く音に混じって、タンクのいびきが聞こえてくる。


最初は気になっていたその音も、いつの間にか気にならなくなっていた。


そんな日々が続くうちに、俺の中でタンクへの警戒心は少しずつ薄れていった。


もちろん、あの突進を忘れたわけではない。


だが、普段のタンクは穏やかで、こちらから危害を加えなければ暴れることもなかった。


気がつけば、修繕作業の合間にタンクの様子を見るのが当たり前になっていた。


「……まさか、森でイノシシに愛着が湧くことになるとはな」


呟くと、タンクがこちらを向いた。


「ブヒ?」


「いや、何でもない」


タンクは首を傾げたあと、再び地面に伏せた。


その仕草を見て、俺はまた小さく笑った。


こうして、予定より少し長くなった森での生活は、思いのほか穏やかに過ぎていった。


そして、ようやく出発の日を迎えた。


家の修繕は終わり、旅の荷物も準備できている。


当初の予定より遅れてしまったが、これ以上ここに留まる理由もない。


俺は家の前に立ち、タンクを見た。


「よし、準備完了だ」


隣ではネロが、いつも通り落ち着いた様子で座っている。


俺は荷物を背負い、家を振り返った。


自分で建てた家だ。


またしばらく留守にするのは少し気になる。


前回、森の外へ出ていた間は何事もなかったが、今回はどうなるか分からない。


けれど、今はタンクがいる。


家に突っ込んできた張本人に、家の留守番を任せることになるとは。


あのときは、まさかこんな日が来るとは思いもしなかった。


それでも、今のタンクなら任せられる。


そう思えるくらいには、一緒に過ごした数日間で信頼が生まれていた。


俺はタンクの前まで歩み寄り、その大きな頭を軽く叩いた。


「家頼んだぞ、タンク」


「ブヒ」


タンクは短く鳴き、こちらを見つめた。


「変なやつが来ても、ちゃんと追い払ってくれよ」


ネロが伝えると、タンクはもう一度鳴いた。


その様子に、俺は小さく笑った。


「よし。頼んだぞ」


少しだけ名残惜しさを感じながらも、俺は踵を返した。


振り返れば、タンクは家の前に立ったまま、こちらを見送っている。


その巨体は頼もしく、同時にどこか可笑しかった。


「……さて、行くか」


俺はネロと並んで歩き始めた。


目指すはアズール。



この世界についてまだ知らないことは山ほどある。



そう考えると、これからの旅が少し楽しみになってきた。


背後には、自分で建てた家。


そして、その家を守る新しい番人。


「ちゃんと留守番してろよ」


小さく呟くと、遠くから「ブヒ」と返事が聞こえた気がした。


俺は振り返らず、森の出口へ向かって歩き続けた。


こうして俺とネロは、予定より少し遅れて、再びアズールへ向けて出発した。

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