第26話 遭遇
アズールへ向かうと決めてから、数日が経った。
出発までに必要な物資を確認し、荷物をまとめる。シアーヌで買った道具や本も増えてきたため、以前より荷物が多くなっていた。
「……こんなものか」
持っていく物を並べ、忘れ物がないか確認する。
今回は、シグナの部品について調べることと、魔法の使い方を学ぶことが目的だ。アズールのギルドにも行ってみるつもりだし、滞在が長引く可能性もある。
食料や着替え、必要な道具。ひと通り準備はできた。
「よし。あとは出発までに家の中を片付けておくか」
そう呟き、机の上に広げていた道具を片付け始めた。
今回の旅は、これまでとは少し違う。
シアーヌへ向かったときは、何もわからないまま森の外へ出た。だが、今はこの世界で暮らすために必要な知識も、多少は身についている。
それでも、まだ知らないことばかりだ。
魔法も、シグナも、この世界の常識も。
だからこそ、アズールで得られるものには期待していた。
「……さて、次は」
荷物の確認を終え、家の外へ出ようとした、そのときだった。
ドンッ!!
「うおっ!?」
突然、家全体が揺れた。
壁が大きく軋み、棚の上に置いていた道具が床へ落ちる。
何が起きたのか理解できず、俺はその場で固まった。
直後、もう一度、鈍い衝撃音が響いた。
ドンッ、ガタガタッ!
「な、なんだ!?」
慌てて外へ飛び出す。
そこで俺が見たのは、家の壁に頭をぶつけたらしい、巨大なイノシシだった。
「……は?」
思わず間の抜けた声が出た。
大きい。
いや、大きいなんてものじゃない。
俺の知っているイノシシよりも明らかに巨大で、盛り上がった肩は俺の胸元に届きそうだった。
太い牙が口元から伸び、荒い鼻息とともに土埃が舞い上がっている。
イノシシは一度後ずさると、混乱した様子で周囲を見回した。
そして、俺と目が合った。
「……いや、待て。俺は何もしてないぞ?してないよな?」
当然、返事はない。
イノシシは地面を前脚で掻いた。
嫌な予感がした。
ブオオオオッ!!
「うわあああっ!」
地面を蹴り、イノシシが突進してきた。
考えるより先に身体が動いた。
横へ飛び退いた直後、巨大な身体がすぐ脇を通り過ぎる。風圧を感じるほどの勢いだった。
そのままイノシシは家の脇を抜け、少し先で急停止する。
振り返った顔には、まだ興奮が残っていた。
「……冗談だろ」
武器はない。
手元にあるのは、落ちている木の枝くらいだ。こんな相手にまともに立ち向かえるものではない。
森の方に逃げるか?
いや、木々の間を走り抜けられれば逃げ切れるかもしれないが、あの巨体でどこまで追ってくるのかもわからない。
それに、こいつはまだ興奮している。
背中を見せて走ったところで、追いつかれたら終わりだ。
確実に逃げ切れない。スピードが違いすぎる。
俺は距離を保ちながら、周囲を観察した。
足場は悪い。ところどころに木の根が張り出し、地面も平らではない。家の周囲には、片付けきれていない木材も残っている。
使えるものはないか。
そう考えている間にも、イノシシは地面を蹴り続けていた。
次の突進が来る。
そう判断した瞬間、俺は横へ走った。
イノシシが突っ込んでくる。
身体をひねり、どうにかその進路から外れた。
だが、完全には避けきれなかった。
肩に衝撃が走り、身体が大きく弾き飛ばされる。
「がっ……!」
地面を転がり、背中を木の根にぶつけた。
息が詰まる。
痛みで一瞬、視界が揺れた。
すぐに起き上がろうとしたが、イノシシはもうこちらへ向き直っている。
まずい。
このままでは、避け続けるだけで体力が尽きる。
攻撃を受ければ、次は起き上がれないかもしれない。
何か、手を打たなければ。
俺には、武器がない。
だが、武器がなくても使えるものならある。
「……アイドロン」
自分の手を見つめる。
構造を理解したものを、再現し、修復し、分解する力。
これまで何度も使ってきた能力だ。
けれど、相手は生き物。
身体の構造を理解しているわけでもなく、アイドロンへの理解も高くない今、全身を分解することなどできない。
なら、狙う場所を絞る。
全身が無理なら、一部分だけでも。
あいつの動きを止められれば、逃げることも、落ち着かせることもできるはずだ。
問題は、どうやって触れるか。
イノシシが再び地面を蹴った。
「くそっ!」
俺は横へ飛び退き、突進を避ける。
直後、イノシシの身体が木にぶつかった。
鈍い音が響き、太い幹が揺れる。
それでも、イノシシは止まらなかった。
すぐに体勢を立て直し、こちらへ向き直る。
……化け物かよ。
いや、ここは俺が元いた世界じゃない。
これくらいの生き物がいても、おかしくないのかもしれない。
そんなことを考えている場合じゃないが。
俺は少しずつ後退しながら、イノシシの動きを観察した。
突進の直前、前脚で地面を掻く。
頭を低くし、狙いを定める。
そこから一気に距離を詰めてくる。
速い。だが、動きそのものは単純だ。
突進を避けることさえできれば、一瞬だけ隙が生まれる。
問題は、その一瞬で何ができるかだ。
脚を壊す。
そう考えた途端、背筋が冷たくなった。
生き物の身体を壊す。
前回の石の分解とはわけが違う。
失敗すれば、俺が死ぬ。
だが、ほかに手段がない。
「……やるしかないか」
周囲を見回すと、少し先に大きな岩壁があった。
あそこを背にすれば、イノシシが突進してきても、岩にぶつかった後、衝撃で次の動作に移るまでの稼げるかもしれない。
俺は岩壁まで移動し、背中を預けた。
逃げ場はなくなるが、今はそれでいい。
「まさに背水の陣だな」
自分で言っておいて、笑えなかった。
イノシシが地面を掻いた。
来る。
俺は突進の瞬間を見極め、ぎりぎりまで引きつけた。
そして、頭がこちらへ向いた瞬間、横へ飛び込む。
イノシシの巨体がすぐ脇を駆け抜け、背後の岩壁に激突した。
ドンッ!!
鈍い衝撃音が響き、地面が揺れた。
その衝撃で、イノシシの動きが止まる。
今だ!
俺はすぐさま後脚をつかんだ。
硬い毛の感触が手に伝わる。
「アイドロン!」
頭の中で、壊す部分を思い描く。
脚全体じゃない。
身体を支える構造の一部だけ。
そこを壊せば、踏ん張れなくなる。
イノシシが暴れ、脚を引こうとする。
「くっ……!」
集中が途切れそうになる。
触れている手が振り払われる前に、構造を捉えろ。
どこが支えになっている?
どこを壊せば、動きを止められる?
わからない。
完全には理解できない。
それでも、今、自分ができる範囲で形を捉える。
そして、壊す。
バキッ!!
何かが砕けるような感覚が、手のひらを通して伝わってきた。
直後、イノシシが甲高い声を上げた。
脚が崩れ、巨体が地面へ傾く。
「うおっ!」
俺は慌てて飛び退いた。
イノシシは倒れ込むように地面へ身体をつけ、起き上がろうともがいた。
しかし、壊した脚に力が入らないらしい。
何度か身体を起こそうとするものの、うまく立ち上がれず、荒い鼻息を繰り返している。
動きが止まった。
俺は距離を取り、座り込んで警戒しながら自分の手を見つめた。
震えていた。
恐怖のせいか、それとも力を使った反動なのかはわからない。
「はぁ……はぁ……」
息が整わない。
勝った。
そう言っていいのかはわからないが、少なくとも、今すぐ突進される危険はなくなった。
脚を壊した。
意図したとおり、動きを止めることはできた。
だが、こいつをどうする?
放置するわけにもいかない。
どうしたものかと考えていた時に声が聞こえた




