第8話 阪神ジュベナイルフィリーズ
こんにちはこんばんは。
田原武馬です。
ウェディングリリー8話です。
それではどうぞ。
十二月十日
ウェディングリリーの調教は順調に進んでいる。
大護厩舎に帰ってきた当初、リリーの調子は素晴らしいもので外厩施設のルークファームが上手く仕上げたのだろう。
最終追切は水曜日に行われ、調教助手の横田がリリーに騎乗した。
ウッドチップコースで行われ、ウェディングリリーは厩舎の先輩馬、アルダロスと同い年の牝馬、ジャンヌフラッグをすぐ前に見ながら追走した。
モニターで見守っていたシュンヤはリリーの負けず嫌いによる暴走を心配した。
しかし、リリーは残り400mまで足を溜めて我慢していた。
最後はジリジリと足をのばし、二頭をかわしてゴール板を駆け抜けてみせた。
「これで阪神競馬場の芝1600m、これぐらいは馬に囲まれても耐えられるだろう」
大護はウェディングリリーの走りに満足そうにうなずいていた。
「シュンヤ!見た?」
引き上げてきたリリーは鼻息荒く、得意気だ。
「驚いたよ。君ってば別馬みたいだよ」
「フフン、頑張って特訓したんだから!」
ルークファームでの特訓は絶大な効果をもたらしたようである。
「うん!頼もしいよ」
目を輝かせながら言うリリーにシュンヤは笑顔で答えたのだった。
◇◇◇
十二月十三日
阪神ジュベナイルフィリーズ当日
阪神競馬場のパドックに立ったシュンヤは、ピンク色のヘルメットを身に着けている。
抽選により決定したウェディングリリーのゲートの枠順は8枠の18番、つまり一番外である。
「まずいな。逃げ馬には不利な枠だ。しかも同型のダンガンハリケーンは一枠二番に入っちまった」
週の金曜日に決まった枠順を見て大護が苦い顔をしていた。
逃げ馬はコースの内側を回った方がロスが無く、スタミナを温存できる。
我慢が効くようになったとはいえ、リリーはこの二戦、逃げて勝ってきた。
無理に外枠から逃げれば、それだけで無駄な体力が消耗されてしまう。かといって二番手以降に控えてしまうと、リリーの良さを削いでしまうかもしれない。逃げ馬の急な脚質変更は容易な事ではないのだ。
経験の浅いシュンヤは当日になっても愛馬をどう導くか決めかねていた。
G1レースのパドックは特別だ。馬主とその関係者がパドックの楕円の内部に入ることが出来る。己の所有馬が特別な舞台に出走する栄誉を近くで感じてもらおうという配慮である。
しかし、佐伯伊三郎氏は急用で来れなかったようで、佐伯氏の妻が代理で来ていた。
佐伯夫人に挨拶をすませ、大護に足を上げてもらいリリーに飛び乗る。
その瞬間、シュンヤはいつもと違う緊張を感じた。
客は殺気立ったような視線でシュンヤを見ている。あるものはカメラを構え、あるものは新聞を開きながら。それらすべてが乾いた肌にビリビリと伝わってくる。
他の騎手も時折シュンヤに視線を飛ばしてきていた。
ウェディングリリーは現在、単勝オッズ一番人気に支持されている。アルテミスSをレコードタイムでの逃げ切り勝ちに、白毛という希少価値が相まっての結果だった。
パドックの柵を隔てた最前列、大小さまざまなレンズが常にこちらを向き、連続でシャッターを切る音が嫌でも耳に入ってくる。
下を見ると、ウェディングリリーを引いている鳥飼の動きも硬いようだ。
シュンヤは小さく深呼吸をして、他の馬を見回してみる。
二歳ゆえに幼さが残る馬もいるが、どの馬も重賞や新馬を勝ち上がり、G1というこの舞台に立っている。
一頭たりとも侮ってはいけない。
シュンヤはふと、列の真ん中あたりを歩いている小柄な黒鹿毛に目がいった。
10番コルピエアルクオレである。頸を上下に使い、堂々と歩いている。トモは不気味なほどの光を放っており、日本刀のようだとシュンヤは思った。
その時コルピエアルクオレがこちらを一瞥した。鋭い眼差しをしているがその目の奥は冷たく、背筋に寒気が走る。
その馬上にいるアルトン・アンダーソンは、対照的に笑顔を浮かべている。
「なによあの子、感じ悪いわね」
リリーは失礼しちゃうわと言いぷりぷりと怒っていた。
いつもと変わらないリリーを頼もしく感じ、シュンヤは手綱を握り直した。
ファンファーレの演奏が終わり、目の前では続々と馬達がゲートに体を収めている。
ウェディングリリーは大外枠のため、最後にゲートに入る。
「行こう」
ゲートが空く音と同時にリリーが飛び出す。
いいスタートだ。
逃げの手を取るべくコースの内側につけようとした時、内でいいスタートを切った数頭がリリーの進路を塞ぐようにして前に出てきた。
「なっ……!」
シュンヤは慌てて手綱を引っ張った。そのため一瞬バランスを崩しかける。
「悪いな、久我」三枠の赤帽を被った中堅ジョッキーだ。彼のつぶやきが聞こえたが、その背中はぐんぐん遠ざかっていく。
逃げの手は断たれた。
先頭を走っているのは1枠2番、ダンガンハリケーンとベテラン黒川騎手である。
「私たちを逃がす気はないって感じね」
落ち着いたリリーの言葉でシュンヤの焦りは晴れた。
(僕がしっかりしなきゃ)
シュンヤは馬群の外、五番手にリリーをつけた。
十八頭の馬達が最初の上り坂を過ぎ、レースはよどみなく進んでいく。
シュンヤは外目のコースを選択した事によって、前を行く馬が蹴り上げた芝の塊や土、所謂キックバックを気にする必要がない。リリーは斜め前を走る馬を気にすることなく、気持ちよさそうに走っている。
ふと、視線を前にやると一枠の白い帽子が見えた。ダンガンハリケーン、黒川は頭の低いフォームで走っており、後ろの馬と近すぎず、遠すぎない絶妙な距離感で逃げている。
前方に残り600mを示すハロン棒の赤色が見えた。その先は直線に続く緩やかなカーブになっている。
「リリー」
「なに?シュンヤ」
「ちょっと我慢してもらうけど、大丈夫かい?」
「ええ。信じてるわ」
シュンヤはゴーグルを外し、絞っていた手綱を緩めた。
シュンヤは手綱を少しずつ動かす。ダンガンハリケーンが作り出した絶妙なペース、そのおかげで馬群は少しずつばらけていた。その僅かな隙をつき、内のラチ沿いにリリーの馬体をつける。
そのまま、カーブに入り600mのハロン棒をロスなく通過。
周囲の馬も追い出しを開始している。雰囲気にのまれそうになるが、ジッと我慢だ。
どんどん他の馬に囲まれていく。先ほどシュンヤ達の進路に立った赤帽のジョッキーが前にいる。彼は追い出す素振りもなく、シュンヤの方をチラチラ見ている。がっしりと握られた手綱を見るに、どうやら動く気がないようだった。
リリーは前の馬が蹴り上げた土や芝のキックバックを受け、真っ白な馬体が徐々に薄茶色に染まってきている。
違和感、そしてシュンヤは祝勝会での宮本の言葉を思い出した。
『ハイエストファームの社長さん、いるでしょ?須崎さん。ウェディングリリー対策だーって、阪神ジュベナイルフィリーズに出走予定の他厩舎に声かけて回ってるらしいんですよ』
そして前を走る赤帽は黒とえんじ色を基調としたHFの勝負服に身を包んでいる。
シュンヤの中で合点がいった。目の前にいる赤帽はリリーの妨害を故意に行っているのだ。それを証明する術はおそらく無いが、HF社長に何かを言い含められたのであろう。
シュンヤは怒りを覚え、手に力が入りかけた。だがもうすぐ開ける活路、その一点に集中した。そんなシュンヤの意思をくみ取ってか、リリーも少しずつ足の回転を上げている。
細かい土の塊が巻き上がり、シュンヤとリリーの顔に何度も当たる。しかし、二人とも顔を上げ、ジッと耐える。
残り400mを示すハロン棒が視界の端にチラと映った。
「そこ!」
シュンヤは左手に持った鞭をリリーのトモに叩きつけ、合図を送った。瞬間、リリーの体は右斜め前方に加速し、赤帽を追い抜き三番手に立った。
「よっし!」
間髪入れずに鞭を右手に持ち替えトモを鳴らし合図を送る。
リリーは左に寄り、コースに体を戻す。
阪神競馬場の芝コースは、ラスト400mの直前地点、ラチが引かれていない短い空間がある。シュンヤはその空間を使い、囲まれていたリリーを内側に潜り込みようにさせ、進出させたのだ。
土壇場での作戦がうまく行き、シュンヤの頬は興奮で紅潮している。心臓はうるさいぐらいだ。けど……
(手綱を通して痛いぐらい伝わってくる。リリーの気持ち。苦しかっただろうに。僕を信じてくれて、ありがとう)
シュンヤは瞬時に気持ちを切り替え、キッと前を見た。
目の前にいるのは二頭だけ。外目二番手を進む馬はもう足がない、あとは後退するだけだ。
残り300m、リリーに合図を送り、手綱をめいいっぱい押し出す。何度も何度も追いしごく。
二番手の馬は左手に景色となって消えていく。
加速。加速。加速。
ついには先頭を走るダンガンハリケーンが射程圏内に入った。揺れる尾がリリーの鼻先に触れそうだ。
リリーの頸がシュンヤの追い出す動きに合わせ、激しく揺れる。
残り200m、ダンガンハリケーン黒川も馬上で懸命に鞭を振るい、少しずつリリーを引き離していく。
シュンヤは必死に追う。視界に映っているのは自身が振るう黒い鞭と手綱の残像、リリーの白い首と耳、そして激しく暴れる白いたてがみだけであった。
しかしダンガンハリケーンはまだ目の前にいる。
『まだよ!』
言葉を交わす余裕はない、だが確かにリリーの声がシュンヤには聞こえた。
それと同時にリリーは二枚腰を使いさらに加速をした。前を行くダンガンハリケーンに並んでいる。
残り100m地点、スタンドから聞こえていた大歓声、それがフッ、と消える。
すべてがスローモーションに見える。黒川の必死な表情も鮮明に見える。
シュンヤは前を見据え、手綱を動かす手を止めない。目の前に広がる緑の景色をただひたすらに捉えていた。シュンヤは心地良さすら感じていた。僕とリリーだけの景色。このままずっとこうしていたいな。
『キィィィイィィン』
しかし、左後方から耳鳴りのような、針を落としたような嫌な金属音が聞こえた。
その瞬間に、シュンヤにすべての音が戻ってきた。つんざくような歓声が聞こえる。
その中に混じって軽い、しかし芝を割く蹄鉄の音が聞こえてきた。
シュタッシュタッシュタッシュタッ
迫力など微塵も感じられない、飛んでいるかのような軽い足音。
しかし後方から確かに迫ってきている。
見なくてもわかる。コルピエアルクオレだ。
リリーから焦りの感情が伝わってくる。シュンヤは必死に手綱を追い、リリーを鼓舞した。
ゴール板はすぐそこだ。がんばれ!がんばれ!
そんなシュンヤ達をあざ笑うかの如く、左側の視界が一瞬で真っ黒な影に塗りつぶされる。
コルピエアルクオレはリリーを軽く追い抜いて行った。
最後に口の端を上げ、ガッツポーズをするアルトンの姿が見えた。
影を踏む間もなく、追いすがることもできなかった。シュンヤ達は二着でゴール板を駆け抜けた。
「一着、コルピエアルクオレ!二着にウェディングリリー、三着に残したかダンガンハリケーン!……」
スピーカーにのったアナウンサーの絶叫が、シュンヤ達の背後でむなしく反響していた。
最後まで読んでいただきましてありがとうございます。
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次回もお楽しみに!
ジャンヌフラッグプロフィール↓
6月1日生まれ 葦毛
調教師 大護竜一郎
馬主 田端貴美子
生産牧場 ジャックファーム
馬体重 415キロ(成長中)
父:リッチフラッグ
母:ロメイザベル
未出走
次走予定 三歳新馬




