第19話 リリーの幼少期
田原武馬
オークスが終わった。三着だった。
負けちゃった。
コルピエアルクオレにも、ダンちゃんにも。
悔しさよりも、虚無感だけが私の胸中を支配していた。
レース後、みんなが私の事を心配して、体を隅々までチェックされた。
どうやら私の体には疲労が相当溜まっているらしい。
それでレースの一週間後、私は生まれ育った牧場でしばらく休暇を取る事になった。
夏休み。と言うそうだ。
いつもお世話してくれている鳥飼が教えてくれた。
大きな馬運車に乗り込んでしばらくした後、私は眠ってしまった―
―女の人の声がした。
「ホワイトヴェールの子、産まれました!」
なんだか暗いところを急に抜け、その場でふかふかの草の上でうずくまっていたの。
まだ目もあまり見えなかったけど、白い大きなお顔が私を心配そうに見つめているのがわかった。
それが私のお母さんだと分かったのは後になってからだった。
ともかく、そんなお母さんの視線がなんだか寂しくなって、私は大丈夫。と四肢に力を込め、立ち上がろうとした。
でもなんだかフラフラしてしまって、転げてしまった。
「ほれ!がんばれ!もう少しだべ!」
後ろの方から男の人の声が聞こえる。
お母さんは私を助けてくれない。その目は一人で立ち上がりなさい。と言っているように私には感じられた。
もう一度挑戦してみる。
何とか立てた!
その時お母さんが私に近づいてきて体を舐め、きれいにしてくれた。
「よくやったわね。私のかわいい子」
お母さんが褒めてくれた。
後ろにいる人達もとても嬉しそうだ。
「元気な子や」「よかったよかった」
「白いから白子か?」「芹澤さん、したら、しらこみたいですよ」
「ヴェールの事ずっと気にかけとったんは百合ちゃんだろう。したっけ、幼名はリリーってのはどうかい?百合は英語でリリーっていうんだべさ」
「本当ですか?芹澤さん、よく知ってましたね」
「俺だって英語ぐらいわかるべ」
芹澤と呼ばれた人は周りの人たちと話している。
『リリー』どうやらそれが私の名前らしい。
◇◇◇
その次の記憶は私が少し大きくなった頃のものだ。
そのころの私はなんでもお母さんの真似をしていた。
一緒に走ったり、一緒にご飯を食べてみたり。
でもその時まだ草を食べられなかったから、食べるフリだけ。
そのころには少しずつ牧場の人たちの名前も覚えてきた。
私が生まれた時に声をかけてくれていた男の人が芹澤篤史さん。
私のお世話をしてくれた若い女の人は渡会百合さん。
百合さんは牧草がいっぱい生えている運動場に行く時、私が倒れないように横から支えてくれた。
「リリーもお母さんみたいに大きくなるんだぞー」
そうやって優しく声をかけてくれた。
お母さんと仲もいいみたいだった。
◇◇◇
もう少し大きくなって、私は一人でのびのび走れるようになった。私は走るのが好きだった。
お母さんと競争してもいつも置いて行かれちゃうから、悔しかったのを覚えている。
その時からだったか、優しそうな人間のおじいさんが牧場にたまに来て、柵の向こうから私達のことを眺めていた。あまり気にしていなかったけれど、今思えばあれは私の馬主、佐伯さんだったのだと思う。
ある日お母さんは私に教えてくれた。
「お母さんはね、昔、人を背中に乗せて他の馬達と一緒にレースをしてたのよ。」
「れーす?」
「そうよ。みんなでかけっこをしてたの。大きなレースは勝てなかったけど、あの人と一緒に過ごした時間はかけがえのないものだったわ」
お母さんはとても寂しそうな目で遠くを見つめていた。
「あの人って?」
「お母さんにはね、とっても好きな人がいたの。馬じゃなくて人よ。」
「レースの時、私はいつも彼を乗せて走ったわ」
「優しくて、かっこよくて、一目見た時からこの人だって思ったわ」
「今その人はどうしてるの?」
私は疑問に思った事を素直に聞いてみた。
「わからないわ。ある時私は大きなレースで負けちゃって、それ以降、背中にいるのが彼じゃない別の人になってしまったの。それが嫌で、レースの直前に逃げ出しちゃったの。その時足を怪我をしちゃったみたいで、私はレースを引退してこの牧場に来たのよ。」
「最初はとっても悲しかったわ。でも、今はあなたに会えたからそれでいいの。私のかわいい子」
「えへへ」
「これからあなたも、他の馬達とレースをするためにたっくさん走らないといけないと思うわ。嬉しい時も、つらい時もあると思うわ。でもね、もし、あなたが一目見て、この人だって思う好きな人、パートナーを見つけられたなら、絶対に絶対に離しちゃダメよ」
「わ、わかった」
私はその時はよくわからなかったけど、真剣なお母さんの眼差しを見てそう答えた。
◇◇◇
それからしばらく月日は流れ、私の脚は伸び、体もグンと大きくなっていた。
ある日、いつものように放牧地へ行くと、お母さんと引き離されてしまった。
すぐにパニックになって必死にお母さんを探した。けれどお母さんが私の前に姿を現す事は無かった。
私は、しょうがないから他の同い年の子たちとかけっこや、牧草を食べたりして過ごした。
私は同い年の子にかけっこで負けたことが一度もなかった。女の子にも、男の子にもだ。
百合さんは私の言葉が少しわかるようで、本当に良くしてくれた。
お母さんのきょうそうばじだい?のこともよく教えてくれた。レースでのお母さんは本当に強く、綺麗だったと何度も百合さんが教えてくれた。
私のお母さんの話をする百合さんは目を輝かせ、本当に嬉しそうだった。
私は、そんな百合さんのことが大好きだった。
「百合さん!私今日もかけっこ負けなかったわよ!」
飛び跳ねながら言う私に、百合さんは優しく答えてくれた。
「リリーは本当に速い子だね。お母さんみたいな強い馬になるんだよ。な?」
その頃からだろうか。私はお母さんの口調を真似て話すようになった。
「ええ!もちろんよ!」
◇◇◇
暑い季節だったか、あの優しそうなおじいさんと知らない女の人が芹澤さんに連れられ、私の部屋の前にやってきた。
「これはこれは。ホワイトヴェールの子ですね。白毛も珍しいし、この子の体のバネ、素晴らしいものを持っていますね。どうでしょう、芹澤さん、他に買い手がつく前にこの子を譲っていただく事は出来ませんか?」
「佐伯さんには敵わねえな。元々そのつもりで紹介したんですよ。リリー、おっと失礼。この子の幼名です。ウチの当歳馬(0歳)の中で一番の出来でしてね。私も親父の代からこの牧場を継いで二十年、その中でも一番の馬だと自負しております」
芹澤さんは胸を張って私の方を見ている。何だかいつもより得意げだ。
「おじいちゃん、この子すごく綺麗な馬だね。目も綺麗!吸い込まれそう」
女の人はよくわからないパシャパシャと音がする赤い板を私に向けていた。
「そうだね。璃子。私もこの子が気に入ったよ。芹澤さん、ぜひよろしくお願いします」
「ありがとうございます!書面での手続きがありますので、ぜひ事務所の方にいらしてください」
芹澤さんが歩き始めた後、おじいさんは私の方を見て立ち止まった。
「リリー、君をぜひ任せようと思っている青年がいるんだ。名前はシュンヤ、久我シュンヤだったかな」
おじいさんは優しい手つきで私の鼻を撫で、小声でそう言った。
「それじゃあ行こうか。璃子」
「はい!おじいちゃん」
彼らが去った後、私は一頭考えた。
(久我シュンヤ、シュンヤ。なんだか気になる名前……)
私はその名前を覚えておこうと、小さな胸に誓った。
―――
馬運車がガタンと大きく揺れた。
「ハッ!」
そこで私の目は覚めてしまった。
詳しくは覚えていないけど、昔の夢を見た気がする。
小さな窓から見える空は暗く、月も雲の間に隠れてしまって見えない。
夢に名前が出てきたせいか無性に彼の事が気になる。
「シュンヤ……どうしているかしら。オークスを負けてしまった私に失望してないといいのだけれど……」
そんな事を考えると、心臓の奥が締め付けられるように感じた。胸が踏み潰されているように息苦しい。
「……こういう時は考えても仕方ないわね!」
私は胸の痛みを無視してもう一度眠りについた。
次の夢にはシュンヤが出てきた。彼は私の心配など関係ないという様子でいつものように笑顔を浮かべていた。
その時私の胸の内は再び満たされた。私には彼が必要なのだと、改めて思った。
「シュンヤ……好きよ」
夢の中、私が発した言葉は彼の耳に届くことはなく、闇夜に溶けていった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
次回もお楽しみに!




