第18話 オークス 後編
田原武馬
「なんて気持ちいいコースなのかしら!」
リリーは久しぶりに走る東京競馬場のコースに心を躍らせていた。
近走の競馬場は小回りコースばかり。
そのためか、目の前の緑の広さは何倍にも感じられた。
その解放感がリリーの五感を刺激する。
春を帯びた陽気の中に混じる芝の匂いが気持ちいい。
(シュンヤにもこの景色を見せてあげたかったわ……)
リリーは無意識の内にそんな事を考えた。
現在、一団は向正面の中間点、残り1400m地点を進んでいる。
未だ、二番手はダンちゃんことダンガンハリケーン。
その後ろには、何を考えているのか。コルピエアルクオレがピッタリと張り付いている。
「ウェディングリリー」
先頭での一人旅を楽しむリリーの頭上から、星の声が聞こえた。
「アルトンとコルピエアルクオレ、あれは危ないかも知れない。
早めに手を打とうと思うんだけど、手を貸してくれるかい?」
リリーはハミをグイと引っ張り、手綱越しに『わかったわ』と合図を送った。
緩やかな第三コーナーに差し掛かり、1000m通過地点のハロン棒を越えた。
「大体、1000m通過59秒ってところかな」
星の小さな呟きがリリーの耳に届く。
星はリリーの手綱を徐々に絞り、速度を落とさせる。
ここから200mほどは下り坂になっており、足を溜めながらスピードを維持する事が出来る。
「リリーちゃん!やっと背中に追いついたでえ!」
見るとすぐ後ろにダンガンハリケーンの顔が見えた。派手な赤と白のメンコがうるさい。
(まだ我慢よ)
リリーはダンガンハリケーンとの差をニ馬身ほどにまで縮められたが、星の合図は無い。
ペースを変える事なく走る。
下り坂に入り風切音が聞こえてくる。
足が、肺が、少し楽になった。
リリーはそのままのペースで最終コーナーに突入する。
「リリーちゃん!こっからや!行くでええ!」
ダンガンハリケーンもすぐ後ろで吠えている。
ここから待ち構えるのは約525mの長い直線だ。
スタンドからは大歓声が聞こえてくる。
まだ遠いが、風に乗ってきた絶叫やビリビリとした感覚が耳に刺さる。
黒川のアクションに応えたダンガンハリケーンが横に並びかけてくる。
「リリーちゃん待ってえな!今回ばかりはアンタにも、コルピエちゃんにも、譲らんで!」
「それはどうかしら!私の実力を見せてあげるわ!行きましょう!シュンヤ!……あ……ごめんなさい!」
「なんや、緊張感が抜けるなあ!」
ダンガンハリケーンがツッコむ。
リリーの上で星が苦笑する気配がする。
「……行こう!勝って久我君に良い報告が出来るように!」
星のよく通る声がリリーの耳を揺らした。
「ええ!」
ウェディングリリーは『ストライド走法』の馬だ。
巨躯を活かし、一歩一歩が力強く大きい。
広い東京競馬場のコースにおいて、それは有利に働いている。
馬場状態の良い真ん中をひた走る。
残り400m、スタンドからの歓声が直に耳に刺さる。
後ろにいる馬達も追い出しを開始しているようで、無数の足音が大地を揺らしている。
視界の右側でダンガンハリケーンが自身を追い抜いていくのが見えた。
「まだまだよ!!」
ここから待ち構えるのは高低差2mの上り坂だ。
リリーは、先ほど溜めていた足をここで解放した。
白い連峰のような、盛り上がった筋肉が唸りをあげた。
怒涛の勢いで坂を一気に駆け上がり、ダンガンハリケーンを差し返す。
「あぁ!フザケンナやぁ!勝つのはウチや!」
彼女は目を血走らせリリーを睨んでいる。
「相手はアナタだけじゃないの!悪いわね!」
残り200m、ダンガンハリケーンを追い抜いた瞬間、視界の左側から黒い影が飛び出した。
そのままリリーの真横に並びかけてきた。リリーはその影を一瞥する。
長い睫毛に縁取られた瞳の奥は暗く、底が見えない海のよう。
太陽の光に透かされた黒い鬣が彼女の瞳とは対極に輝いている。
「やっぱり来たわね!コルピーちゃん」
「なんで、わかったの。ずっとあの子の後ろで隠れていたのに」
レース中、彼女の気配は感じなかった。だが必ず来るとリリーは確信していた。
「何回アナタと戦ったと思ってるのよ。行くわよ。カツヨシ!」
星がリリーの手綱を追いしごく。その動作は完璧に洗練されている。星が追うごとにリリーのストライドが飛躍的に伸び、まるで宙を舞うように芝を駆けていく。
星の鞭が一発、二発とリリーのトモにぶつかる。
その合図を受けてリリーは鼻腔を広げ、酸素をめいいっぱい吸い込む。
リリーは飛ぶように再加速し、コルピエアルクオレより半馬身前に出た。
「私達に負けた事、忘れたようね!」
リリーがそう叫んだ時、コルピエアルクオレの目が弓の弧のように歪められた。
「……!?」
リリーの背筋に悪寒が走る。
――でも、アナタの彼は今、いないじゃない
その声と同時に横にいた黒鹿毛がフッと消えた。
否。コルピエアルクオレが体を沈み込ませるような姿勢をとったのだ。
そこから黒い四本の足が回転をどんどん上げていった。
「チッ……ピッチ走法か!今までのコルピエアルクオレはストライド走法。ここに来て変えて来たか……!」
星が視界の端でつぶやく。
コルピエアルクオレは何度も地面を乱打するように蹴り進んでいる。
そのシルエットは今や影のよう。凄まじい速度でリリーに迫る……!
―病院の待合所。シュンヤが悔しそうに声をあげる。
「リリーの走りとは対極にある『ピッチ走法』だ!
足の回転数を爆発的に増やす事によって、高い瞬発力を発揮できる走法!しかもコルピエは前傾姿勢になる事で前足の回転率を上げている!」
「なんで今までのレースでこれを使わなかったんですかね?」
璃子が疑問を口にする。
「この走法での最高速度は、短い距離の間しか保たない!だから、アルトンはコルピエアルクオレをあえて先行させたんだ!!後方からだと、リリーの持続力に敵わないと踏んだんだ!」
叫ぶシュンヤをよそに、テレビ画面はレースの最後の攻防を映し出している。
――オークス残り100m
「カツヨシサン!私とコルピエ、見つけマシタ!彼女に合ったシンキョウチを!」
黒い馬体の上でアルトンが興奮気味に吠えている。
「負けてたまるものですか!」
リリーは苦しそうに、しかし気丈に振る舞う。
レース中、最後までどうしても頭から離れなかった。
自分の鞍上がシュンヤじゃない。
彼と離れたくなかった。離れるべきじゃなかった。
最後に彼を拒絶するべきじゃなかった。
そうした余計な思考がリリーの気力、スタミナを徐々に削っていた。
気がつくと足はもう限界。気を抜けばコルピエアルクオレに、自身の後方から猛追しているダンガンハリケーンにすら負けてしまうだろう。疲労が吹き出し、自身の足が軋む音が聞こえてくるようだ。
残り50m。星の優しい声が聞こえた。
「ウェディングリリー。君の足はもう限界だ。久我君に託された君をこれ以上無理させる訳にはいかない。ここまでよくやったよ」
「まだよ……まだ走れるわ。シュンヤ……見てるんだから……」
残り10m。リリーの左右を二頭の影が追い越して行った。
「アナタの敗因は全てソレ。私が抜け殻に負けるわけ無い」
コルピエアルクオレの冷たい声がリリーを追い抜いていく。
「ハァハァ……!待てやコルピー!おっちゃんに…!黒川のおっちゃんに……!」
ダンガンハリケーンの声もリリーを追い抜いていく。
「ごめんなさい……シュンヤ……私、やっぱりあなたがいないと……」
リリーの声は観客の悲鳴にも似た歓声にかき消された。
◇◇◇
テレビのスピーカーからアナウンサーの絶叫が流れてくる。
『先頭で粘るウェディングリリーは苦しいか!
ダンガンハリケーン二番手に上がった!
内からコルピエアルクオレ迫る!
そのままかわした!あっという間に後ろを置き去りにした!まさに別格!!ゴールイン!
桜花賞馬を打ち破り、再び女王の座に舞い戻りました!二枠四番コルピエアルクオレ!
二着には一枠二番ダンガンハリケーン、三着に一枠一番ウェディングリリー……』
「リリー……」
シュンヤは病院の待合所に座ったまま、しばらく動けなかった。
璃子はそんなシュンヤの手をずっと握り続けていた。
◇◇◇
その日の夜、シュンヤは鳥飼から電話を受けた。
「シュンヤ、リリーなんだけどな、レース後に怪我はないんだが、
肉体的な疲労が溜まっているのと精神的なダメージがひどくてな。
来週にはリリーの生まれ故郷、芹澤ファームにリフレッシュ放牧に行くことになった。
だけど、しばらくリリーは一人になっちまう。一度、精神的に折れた牝馬を立て直すのは難しいんだ。
本当は俺がいけたらいいんだけど……そこでシュンヤ、お前に頼みがある」
電話越しに鳥飼の焦燥感が伝わってくる。
「鳥飼さん。皆まで言わなくてもわかります。僕も同じことを考えていました。先生に代わってもらえますか?」
「おう」
――シュンヤは自身の休養、最後の二週間、北海道にあるウェディングリリーの生まれ故郷に行く決心をした。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
次回もお楽しみに!




