第17話 オークス 前編
田原武馬
――五月二十三日
G1オークス当日。晴れ渡る快晴日。
芝2400m。コーナー四つ、左回りの舞台。
桜花賞(1600m)から800mの距離延長だ。
どの馬にとっても未知の距離になる。
そんな中、牝馬クラシック二冠目を我が物にせんと、十八頭のうら若き乙女達が東京競馬場に集った。
みな、成長途上の馬体を春の陽光にさらし、輪乗りの隊列で歩いている。
このレースでは、発馬機が観客席のあるスタンド前に設置される。
大抵の若い馬は見慣れない大勢の人間に戸惑い、スタート前にして集中を欠いてしまう。
ゲート裏の十八頭の中に桜花賞馬、
ウェディングリリーはいた。
彼女は大勢の観客を気にする様子もなく、落ち着きを払っている。
ゼッケン番号は一枠一番。
当日の単勝オッズでは一番人気に支持されている。
新しくコンビを組む星勝義騎手を背に、調教でも好時計を連発した。
スポーツ新聞は大々的に『白毛のウェディングリリー絶好調。星勝義を背に二冠は確実か!』と報じた。
スタンドに詰めかけたファンの中には、ウェディングリリーのグッズであるウマミミつきホワイトキャップを被っている者も大勢いる。
「シュンヤが言っていた通り。私、本当に沢山の人に応援されているのね……」
スタンドに目を向け、物思いに浸るリリーの馬体はキラキラと輝いている。
毎日、ハードな調教をこなし、2400mを走り切る体力もついた。
鳥飼の丁寧な体調管理のおかげで元気満タン。
全身に力がみなぎり、黒曜石を思わせるようなその瞳には闘志がみなぎっている。
しかし……
背中にはいつもと違う感覚。星勝義騎手が自信満々といった表情でそこにいた。
リリーへの騎乗も柔らかく、体幹が優れているためか、ほとんど重心がブレない。そのため、まるで誰も乗っていないかのように、リリーの動作を邪魔しない。
(カツヨシって本当にいい騎手ね。だけど……)
どうしても考えてしまう。いつも背中にいたあの青年、久我シュンヤの事を。技術はまだ星には遠く及ばないかもしれない。だが、彼がそこにいるだけで湧いてくる喜びと、安心が今はそこに無い。
リリーはいつの間にか、輪乗りをする隊列から離れ、立ち尽くしてしまった。
上で星が隊列に戻るように促している。
(って、私ったら!シュンヤなんて、知らないんだから!)
リリーは頸をブンブンと振り、余計な思考を頭の隅に追いやった。輪乗りに戻ろうと、前を向く。
その時、リリーの横から声がした。
「今日のアナタ、まったく怖くない」
冷気を纏うようなその声に、リリーは全身の毛が逆立った。
「ッツ……!」
バッと声の主を見る。
いつの間にか、リリーの横に黒い影が立っている。
何度も死闘を繰り広げてきた、小柄の黒鹿毛。
二枠四番コルピエアルクオレ。
いつもは寡黙で何を考えているかわからない彼女。
それが自ら声をかけてきたことにリリーは戸惑う。
「私のことが怖くない?どういう意味よ。それ」
リリーはコルピエアルクオレを見下ろしながら言った。
彼女の黒い瞼は閉じられており、表情を窺い知る事は出来ない。
もしそれを見る事が出来たとしても、その瞳は何も映さず、暗く冷たいのだろう。リリーはそんな予感を抱いた。
リリーは目の前の横顔に、底知れぬ不気味さを感じていた。
「アナタとは前走で決着がついているわ。私の方こそ、もうアナタなんて怖くもなんともないわね!コルピーちゃん」
リリーは目の前の黒鹿毛を上から睨みつける。
コルピエアルクオレはリリーの挑発を気にする様子もなく、口を開いた。
「前のレースは、直線、アナタ達に一生追いつけない。そう思った。今日、アナタの体は元気。でも、彼がいない今のアナタは、抜け殻みたい」
「何よそれ!どういう―」
「もう、どうでもいいけど。勝つ事が私にとって全て。アナタがそんな状態なら、気にする必要もない」
彼女はリリーを一瞥もせず、隊列に戻って行った。
◇◇◇
ファンファーレの演奏が終わり、
リリーは既にゲートに馬体を収めている。
風に乗って運ばれてくる芝生の匂いが、ゲート内の狭苦しさを晴らしてくれる。
(もう、ゲートに入るのも五回目、慣れたものね)
ウェディングリリーは、圧倒的なスタートセンスが武器の馬だ。
彼女自身もそれを自覚しており、ゲート内で前を見据え、星の合図を待っている。
集中をするリリーの横に、茶褐色の馬がゲートに入ってきた。剽軽な態度でリリーに声をかけてくる。
「リリーちゃんアンタ、またウチより内枠なんかい!ええ加減にしてほしいですわー」
リリーと同型の逃げ馬、ダンガンハリケーン。
鞍上の黒川が身につける勝負服と同じ、赤と白の縦縞の派手なメンコを身につけている。
出会ったのは二戦目のアルテミスS、当時は馬群を嫌う臆病な性格だった。
しかし、鞍上の黒川典房の豪胆(?)な性格と口調が移り、最近はレース前にオヤジみたいな口調で絡んでくるようになった。
「誰よアナタ。私集中してるんだから!邪魔しないで」
「ひどいなあ。いっつも一緒に走ってるダンガンハリケーン、ダンちゃんやん」
「そんな子も、もしかしたらいたかも知れないわね」
「リリーちゃん、それはひどいわぁ。忘れんといてーな。リリーちゃんのせいでウチ、最近得意の逃げが出来てないんやから!」
「かわいそうだけど、今回もそうなるわね」
「手厳しいなぁ。黒川のおっちゃんも、もう歳やしウチが勝たせてあげたいんやけど」
「フフ、頑張ってね」
集中のため、わざとダンガンハリケーンに冷たく接していたリリーだったが、彼女との会話で少し無駄な力みが抜けた気がした。
リリーがダンガンハリケーンを見ようと横を向いた瞬間、視界の端に、コルピエアルクオレの漆黒の馬体が映った。
彼女は真っ直ぐ前を向き、ゲートに向かっている。その瞳の中に、青い炎のような、不気味な色が見えた気がした。
「……!」
リリーは、喋り続けているダンガンハリケーンを無視し、もう一度前を見た。
――前を向いて何秒経っただろう。
ベージュのハットとベストに身を包んだスターターは、既に発走台に登っている。
周囲の空気が張り詰めた。スタート前特有の、一瞬の静寂。
カシャン!
ゲートが開く音とほぼ同時、星の合図を横腹に受け、リリーは後ろ足をバネのように沈み込ませた。
そのまま、溜めた力を解放して前に飛び出す。
視界を周囲に巡らせる。自分が半馬身抜けている。
(やっぱりスタート、得意だわ!)
十七頭を引き連れ、飛び出したリリーの瞳は爛々と輝いていた。
◇◇◇
同時刻。茨城県内にある総合病院の待合所。
消毒液の匂いが染み込んだ水色のソファー。
そこに久我シュンヤの姿があった。
シュンヤはこれまでの一ヶ月間、右足とその周囲の落ちた筋肉を取り戻すため、懸命にリハビリに励んだ。
璃子もそばで彼を支え、栄養のある料理を作りに彼の家(鳥飼の家)に足繁く通っていた。
その甲斐もあってか、三週間後には、厩舎の業務に戻っても良いとお墨付きを貰う事ができた。
シュンヤは現在、待合所に設置されたテレビの画面を睨んでいる。
日焼けが抜け、白くなった額に汗を浮かべて拳を握りしめている。
彼の横には、長い黒髪を後ろで一つに結った美少女、佐伯璃子が座っている。彼女は、自身の胸に手を当て画面を見つめている。
小さな画面の中では、白い馬体が一番速くに飛び出し、スタートを切っていた。
「よしッ!」
「わぁ!リリーちゃんすごい!」
シュンヤと璃子はそれを見て、小さな声でガッツポーズを作った。
『……スタートしました!今日もロケットスタートが決まった桜花賞馬、ウェディングリリー!新コンビの星勝義を背にスタンド前を駆けていきます!』
アナウンサーの実況音声がテレビモニターの安っぽいスピーカーから流れてくる。
『先頭から、一枠一番ウェディングリリー。
二番手には、今日も行かない、行けない。一枠二番ダンガンハリケーン。
三番手にはなんとなんと!二枠四番、コルピエアルクオレがつけています。
これまで全レース、後方からの追い込み一辺倒のこの馬、アメリカの天才、アルトン・アンダーソンの作戦か!?』
「制御できていない……わけないよね。アルトン、何をする気だ……?」
シュンヤの眉間に皺が寄る。
解像度が低い小さな画面越しには、アルトン・アンダーソンの表情を窺い知ることはできない。
コルピエアルクオレが湛える不気味な色の瞳も、また。
ウェディングリリーは先頭のまま、レースは進んで行った。ベテラン星勝義が作り出した絶妙な逃げ。
平均ペースにも関わらず、二番手とは四馬身ほどの差がついている。
正確な体内時計。それに加えて後続との距離を測る空間把握能力。
特筆すべきは、その手綱捌きだ。手綱を抱え込むように持ち、操ることでリリーに無理のない限界ギリギリの速度で走らせている。
(やっぱり勝義さん、すごい……!)
自分なら同じ事が出来るか、聞かれたら答えはノーだ。
リリーも気持ちよさそうにリズミカルに走っている。
シュンヤは自分がリリーの上にいない事を意識した時、心臓のあたりが締め付けられるような思いがした。
リリーに拒絶されたあの瞬間がフラッシュバックし、心臓は早鐘を打つようにうるさい。
「クッ……!」
咄嗟に胸を抑えると、その手の隙間から嫌な熱が広がっていく。
額から汗が吹き出し、視界が暗くなる。
暗くなり始めた目の前に璃子の顔があった。
ガラス玉のように澄んだ瞳で、シュンヤの顔を覗き込んでいる。
「大丈夫です!シュンヤさん、リリーちゃんのためにここまでリハビリ頑張ったんですから。絶対にまた一緒に走れますよ。でも今は、全力でリリーちゃんを応援しましょう」
いつの間にかシュンヤの胸元には、璃子の右手が重ねられていた。
璃子の細くひんやりと冷たい指が、シュンヤの熱くなった手の中を這い、どくどくとうるさい緊張を溶かしていった。
「璃子さん、ありがとう」
「ええ。もちろん」
いつもの璃子の笑顔が、なんだか今日は眩しかった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
次回もお楽しみに!




