第16話 すれ違う想い
田原武馬
辺りはすっかり暗くなり、午後十時すぎ、鳥飼が帰ってきた。
黄色のレインコートは雨粒に覆われ、ビニール製の裾から水を滴らせている。
「帰ろうとしたら急に雨が降り出してさ、大変だったぜ」
「お疲れ様です、鳥飼さん。そうだ。昼に璃子さん来てくれましたよ。これ、鳥飼さんの分の料理です」
「なんだその高級そうな弁当箱!」
「弁当箱って……」
鳥飼は黒光りのする重箱を見て興奮している。
シュンヤはダイニングテーブルに腰掛け、昼間に璃子から聞いた事を鳥飼に聞かせた。
もちろん、家族のことやプライベートな事は伏せてだ。
「ほーん。璃子ちゃん、そんなこと言ってたのか。立派なもんじゃないの」
鳥飼は器に入った茶碗蒸しをスプーンですくっている。
「鳥飼さんはどう思いますか?養老牧場を始めるにあたって、必要なものとか」
「おお!めちゃくちゃ美味いな!これ!蟹が入ってる!」
「聞いてくださいよ」
「悪い悪い」
口をへの字に曲げたシュンヤに向かって鳥飼がスプーンをひらひらと振る。
「んで?なんだっけ。養老牧場か。必要なものねえ……。土地はもちろんだけど、生産牧場みたいに馬を売って採算を取るわけじゃないからな。そういう経営をしているので今主流なのはルミナス・ファームだよな」
「ルミナス・ファーム?聞いたことがあるような、無いような」
「国内で一番大きい養老牧場だよ。かつてのダービー馬やアイドルホースなんかをたくさん繋養して、一種の観光牧場みたいにして資金調達をしているんだ。前はクラウドファンディングで馬房棟を建てる資金を募ってたな。もちろん即目標金額越え。もしも牧場経営一本でやっていくなら、知名度は大事だよな」
「なるほど。知名度。参考になります」
「ん?なんだシュンヤお前、璃子ちゃんと一緒に養老牧場やろうって考えてんのか?」
「違いますよ。ただ、僕も競馬に関わる人間です。だから、引退馬を救いたいっていう璃子さんの力になりたいなって思っているだけですよ」
「まあ確かに立派な夢だけどな。そう簡単じゃあないぞ。牧場を経営するってのは……馬一頭を養うのに食費だけでも年間約百万円かかるんだぞ。
資金がなけりゃ自分で柵を立てたり、かなりの労力だ。
牧草地の手入れなんかも自分でやらなきゃいけないし」
鳥飼の目はいつの間にか昔を懐かしむようなものに変わっていた。
「ありがとうございます。全部メモして璃子さんに渡しますね」
「おう。オレ、厩務員になる前は生産牧場の一人息子だったからさ、わかんないことあればまた聞けよな」
「あ、はい。わかりました。お願いします」
「そうだ、璃子ちゃん、リリーに会いたいって言っているんだろう?日程は決まってんのか?」
「まだ具体的な話はしてなくて……」
「そうか……」
鳥飼は腕を組み、眉間にシワを寄せてシュンヤを見ていた。
「どうしたんですか?」
「実はな……シュンヤ、お前がいないことでな、リリーの機嫌がずっと悪いんだよ。お前が怪我して来れないってリリーに言ってもわかってくれなくてな……一か月後のオークスに向けた調教を進めてるだろ?。飼葉食いも悪くて、それどころじゃないんだよ。そんで、オークスにお前が乗れないって事もリリーに伝えられてないんだよ……」
鳥飼の後ろで、勢いを増した雨が、窓を叩きつける音がする。
「そ、そうなんですか……すみません。僕のせいで」
「だから!ちょっとでいいから、リリーに顔を見せてお前から事情を伝えて欲しいんだよ。今日も大変だったんだぜ。馬房で掃除してたら蹴られかけちゃってさ」
鳥飼がシャツの袖をまくると、左腕に青あざが出来ていた。
馬は体が大きく力は人間の何十倍も強い。悪意が無くても人を傷つけてしまう事がある。
「わかりました!明日ちょうど病院に行くのでその時に聞いてみます。」
「ああ!助かるぜ。お前が行けばリリーも機嫌を直して、集中してくれると思うんだよ」
「でも、もし医者が許可してくれなくても絶対に行きますよ。リリーと鳥飼さんのためですから」
「ハハ……頼もしいぜ」
そういって鳥飼は弱々しく笑った。
◇◇◇
一週間後、五月三日
この日もあいにくの雨。
シュンヤは仮骨が安定したことで医者の許可をもらい、大護厩舎に来ていた。
まだ運動や足を使った作業は難しいが、松葉杖なしで歩けるようになっていた。
万が一があったらということで佐伯氏に車を手配してもらった、専属運転手つきだ。
シュンヤは、お金持ちは凄いな、と小学生並みの感想を抱いた。
「ここが大護厩舎ですか!リリーちゃん、どこですか?」
白い傘の下で璃子は目を輝かせ、あたりをキョロキョロと見回している。
いつものおっとりとした態度はどこへやら、はしゃいで上機嫌だ。
「璃子さん、あっちだよ」
久しぶりに訪れた大護厩舎。胸いっぱいに息を吸い込むと、嗅ぎなれた牧草の匂いが肺に拡がる。幸せだ。
シュンヤは厩舎入口にひかれた砂利道を歩き、馬房棟に入る。
中からは甲高い嘶きや壁を蹴る音、馬の生活音が聞こえてくる。
リリーの馬房は厩舎の建物の真ん中あたり。
「リリー!」
シュンヤが呼びかけると、飼い葉桶に顔を突っ込み、食事をしていたリリーはバッと顔を上げた。
白い睫毛が何度も上下する。
「シュンヤ!!」
心配してたのよ。とリリーはシュンヤに顔を寄せてきた。
「右足を怪我して、それで君に会えなかったんだ!」
「鳥飼には聞いていたけど、治ったのね!?」
リリーはシュンヤの右足をさするように、柔らかい鼻先を優しくシュンヤの右足に擦り付けている。
「いや……あともう少しかかりそうなんだ。だから、その……」
「でも、次のレース、オークスは騎乗出来るわよね?」
シュンヤはリリーの澄んだ瞳を前に『僕は騎乗出来ない』その一言が言えなかった。
そんなシュンヤを他所にリリーはひょいと視線をシュンヤの後ろに向けた。
「その子は誰なの?随分とかわいい子のようだけど」
「リリーさん、はじめまして。私、佐伯璃子って言います」
璃子がにこやかに自己紹介をする。
「そう言えばみんなで写真を撮る時にいたわね!あなた!」
「覚えてくれていたんですか?嬉しい!」
「あれ?璃子さん、そういえばリリーの言葉、わかるの?」
「ええ、わかりますよ!」
「そもそも、なんで普通に馬と話せているんだって話だけどね……」
「うーん、よくわからないですけど、波長が合う人の言葉はわかるとかじゃないんですか?」
「そんなもんなのかな」
「そういえば!私、リリーちゃんが小さい頃に一度会ってるんですよ」
「そうなの?」
「あの時のリリーちゃん、本当にちっちゃくてかわいかったんですよ。そうだ。私写真あります!」
「うふふ、なんだか恥ずかしいわ」
リリーと璃子は楽し気に会話に花を咲かせている。
その時、シュンヤの背中が後ろから突かれた。
「ちょいちょい。シュンヤ、オークスに乗れないって事まだ伝えてないのかよ」
後ろを見ると馬房清掃用のフォークを持った鳥飼が立っていた。
シュンヤは鳥飼に襟首を掴まれ、少し離れた場所に移動する。
「鳥飼さん、リリーを目の前にすると、どうしても言い出せなくて」
「お前それでも騎手かよ。いいか?堂々として自分の気持ちを伝えりゃリリーも分かってくれるって。
たとえ次の鞍上が星騎手だったとしてもな」
「え?リリーのオークス、勝義さんになったんですか」
「あ」
鳥飼がしまった。という顔をして口を抑えている。
「まぁリリーは桜花賞馬ですからね。トップジョッキーに声がかかるのは当たり前ですね」
シュンヤは自分の足元を見つめ小さく溜息をつく。
見た目にはわからないが、右足を強く動かそうとすると、未だにピキリとうずく。
「こっちが声をかけたっていうより、星さんの強い希望らしい。だから、今のうちにリリーにちゃんと伝えないと……大変だぞ」
シュンヤは顔を上げた。真剣な表情の鳥飼と目が合う。
そこで初めて鳥飼の言わんとすることを理解した。
背筋に虫が這うような、不快な感覚が体を駆け巡っていく。今まで見ないふりをしてきた不安の正体。
騎手である以上、自分のお手馬がさらに実力のある騎手に乗り替わりになること自体は珍しい事ではない。シュンヤにも何度も経験がある。
乗り替わりの原因が怪我であろうが関係ない。騎手とは仕事仲間であるのと同時に、有力馬を奪い合うライバルでもある。
結果を出したジョッキーにチャンスは与えられる。トップジョッキーの星勝義ともなると尚更だ。
勝負の世界はどこまでもドライだ。
オークスの結果次第では、今後シュンヤがリリーの手綱を取れる保証はない。
逆に、リリーと星勝義ならおそらく勝つだろう。という確信がシュンヤの中にあった。
自身の右足を触る。シーネ(固定具)越しに鈍い感覚が自身の足を伝う。
シュンヤは覚悟を決め、璃子と楽しそうにガールズトークをするリリーに近づいた。
リリーは普段はぱっちりと開かれた綺麗な目を何度も細めて楽し気だ。
「リリー、話があるんだ」
「璃子ちゃん、それでね、あら、どうしたの?シュンヤ」
「実は……聞いて欲しいことがあって。僕は……オークスで、君に騎乗できない」
その言葉にリリーは精緻な目を見開いた。
「えっ……!?なんでよ!その足のこと?もうなんともないじゃない!」
「今は骨がくっついて安定したからね。でも、まだ激しい運動に耐えられるわけじゃないんだ」
シュンヤは自身のズボンの裾をまくり上げ、白いシーネが巻かれた右足を見せた。運動をしていないせいか少し細くなっている。
「そうなの……でも!オークスの後ならまた一緒に走れるのよね?」
「……それは……わからない。リリー、君の次の鞍上は、星勝義騎手なんだ。君と勝義さんなら恐らく、いや絶対に勝てると思う。そうなった場合、先生やオーナーがまた僕を乗せてくれる保障はどこにもないんだ……今まで言えなくて、ごめん」
シュンヤはリリーの方を見ることが出来なかった。
そんな彼の頭の上に璃子の声が聞こえた。
「シュンヤさん、それなら、私がおじいちゃんに頼めば……」
「璃子さん!そうじゃない。そういう事じゃ、ないんだ」
「競争馬は、勝つことが、全てなんだ。いい馬にはいい騎手が乗る。それは当たり前のことなんだよ。僕みたいに足を怪我しちゃうような未熟な騎手はそもそも、君にはふさわしく―」
「シュンヤ!!」
リリーの声でシュンヤはハッと我に返った。
「あなたの言い分はわかったわ。でも、あなたがなんでそんなに弱気になっているか私にはわからないわ。だって簡単なことでしょう?あなたと一緒に走れないなら、私、オークスには出ないわ。仮病でもなんでも使って出ない。走るのは好き。でも、あなたのいないレースに興味なんてないもの!」
「何言ってるんだよ!そんなことして、何になるんだよ!」
シュンヤは、理解してくれないリリーと、自らの置かれた状況に感情を抑えきれなくなった。
「僕だって、君と一緒に走りたいよ!でも、競走馬としての今後の君のキャリアを考えたら、絶対に星騎手の方がいいんだよ!鳥飼さんだっている。大護先生だっている。佐伯オーナーだっている。君の勝利を願う人は、日本中にたくさんいるんだ。桜花賞の後、あの歓声を聞いただろう?君のキャリアはもう、僕たちのものだけじゃないんだよ!!」
「僕がオークスに騎乗できない以上……勝義さんは考えうる限りで最高の騎手だ」
それまで、堂々とした態度でシュンヤを見つめていたリリーの瞳に揺らぎが生じた。
普段は穏やかな水面のような瞳が、何度も揺れている。
「それがあなたの答えなの?私にカツヨシを選べって、それで本当にいいの!?」
リリーがいままで聞いたことのないような悲し気な声でシュンヤに問う。
「いいって言ってるだろ……それが君のためなんだ……!」
なんとか言葉を振り絞った。
シュンヤの心は奥底で『違う!』と悲鳴を上げている。
シュンヤがリリーから目を逸らした時、心配そうにこちらを覗く璃子と視線が合った。
リリーはフン、と鼻を鳴らして言い放った。
「そう……それなら、私、カツヨシと勝つわ。それがあなたの望みでしょう?さようなら……シュンヤ!」
リリーの冷めきった声がシュンヤの心臓を刺す。
額は汗まみれ。シュンヤは、自分の心が氷の中に閉じ込められたみたいに冷たくなっていくのを感じていた。
ふらつき、足元がおぼつかないシュンヤを、璃子が後ろから抱き留めた。
「しっかりしてください。シュンヤさん」
「璃子ちゃん。可愛くていい子よね。シュンヤ、その子とお幸せにね」
「璃子さんは関係ないだろう!」
シュンヤはリリーが自分の気持ちを理解してくれない。その憤りのままに言葉を返す。
先ほどのリリーの声に震えが混じっていたことに、シュンヤは気が付かない。
――気が付くと、璃子と車の中にいた。
車の窓にへばりつく雨粒が、無数の線を描きながら後ろに流れていく。
大護厩舎からどうやって出てきたのか全く覚えていない。
「ごめん。みっともない所を見せちゃったね」
「いえ……」
そこから二人の会話は止まった。
車の窓に向かって頬杖をつくシュンヤは、リリーの言葉を脳内で反芻させる。
『それがあなたの答えなの?私にカツヨシを選べって、それで本当にいいの!?』
(それでも僕はオークスに乗れないんだよ……。どうしろっていうんだ)
シュンヤは深い溜息をつく。
車内に視線を戻すと璃子と目があった。
彼女は意を決したように胸に手を当て、深呼吸をした、そして険しい表情で口を開く。
「シュンヤさん。先ほどのリリーちゃんへの態度。さすがにひどいと思います。リリーちゃんはただ、シュンヤさんに、『それでも君のために全力を尽くす』と言って欲しかったんです!
なのにシュンヤさん、星騎手の方がいい、競走馬のキャリアがどうした、とかそんなことばかり言って、全くリリーちゃんの気持ちを考えていませんでした。
あんなの、私が憧れていたシュンヤさんじゃないです!!」
璃子のいつもはおっとりと下げられた眉が、今は上に吊り上げられている。
「そんなの、璃子さんがなんでわかるの」
シュンヤは驚きつつもぶっきらぼうに返す。
「それは……女のカンです」
「そっか……フフ」
「シュンヤさん、今は大変でも、リリーちゃんには、シュンヤさんしかいません。絶対に諦めないで。リハビリ、私も応援しますから、一緒に頑張りましょう?」
「ありがとう……」
優しく璃子から差し伸べられた手を、シュンヤは弱々しく、握り返した。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
次回もお楽しみに!




