第15話 璃子の夢
田原武馬
時刻は午前三時。
カーテンの隙間から覗く景色は薄暗い。
少し離れた位置に突っ立っている街灯だけが、窓際を僅かに照らしている。
そんな静寂に穴を空けるように、けたたましいアラーム音が鳴り始めた。
傍らで眠っていた短髪の青年はその音に表情を歪め、数秒間身を捩っていた。
一瞬後、弾かれたようにパッと目を開き、青いスマートフォンを掴んだ。
そのまま立ち上がろうとしたが、右足が思うように動かない。
青年は、己の右足に巻かれた白い固定具を見て、大きな溜息をついた。
「あれから一週間、慣れないなぁ」
久我シュンヤは一週間前、G1レース、皐月賞に騎乗した。
しかし、スタート前のアクシデントでゲートに足をぶつけ、脛骨にヒビが入ってしまった。
リハビリも含めて全治二か月。現在は全業務を休み、療養中だ。
ヒビが入った箇所には仮骨という柔らかい仮の骨が形成されるそうで、それが硬化し、安定するまでは右足を使っての移動を禁じられている。
そんな中でもシュンヤは復帰後のために、以前と同じ時間に起きるようにしている。
「よいしょ……」
傍らに置いてある木製のローテーブルに手を置き、左足に体重を乗せ、立ち上がる。
立てかけてある松葉杖を掴み洗面台へ向かう。
(動きづらい……。自分の体じゃないみたいだ)
寝室を出て、突き当たりが洗面所になっている。
その扉は開け放たれ、オレンジ色の光が漏れだしていた。
「おう、相変わらず早いな。まだ寝ててもいいんじゃないか?」
光の中から黒髪パーマの男が顔を覗かせた。
「鳥飼さん、おはようございます」
シュンヤは現在、一時的に鳥飼の住むマンションに住まわせてもらっている。
シュンヤの借りているアパートにはエレベーターが無く、通院している病院からも遠い。と言う事で鳥飼が提案してくれたのだ。
先月引っ越したばかりだという2LDKのマンション。その一室を使わせてもらっている。
リビングルームの窓は大きく開放的。その中央には巨大な灰色のソファーが置かれている。(鳥飼はここで寝起きしている)
リビングルーム隣の寝室にはダブルサイズのベッドが備え付けられており、シュンヤは普段そこで寝ている。
非常に良い物件だと思うが、鳥飼はインテリアにはあまり興味が無いようで、以前の借家からそのまま持ってきたのであろう、統一感のない家具が並んでいる。
「でも本当に良かったんですか?一時的とはいえ、僕を住まわせても」
「いいんだよ。一人で住むにはちょっと広すぎるからな。シュンヤとリリーのおかげでこの家に引っ越せたようなもんだし」
厩務員は担当馬の獲得賞金から五パーセントを取り分として分配される。
リリーが新馬戦、アルテミスS、阪神JFで二着と賞金を稼いだおかげだと鳥飼は笑っていた。
「そうは言っても、悪いですよ。治ったら、ちゃんとお礼します」
「若いモンがそんなこと気にしなくてもいいんだよ。早くその足、治して帰って来いよな。お前がいなきゃリリーの機嫌も悪いんだよ」
鳥飼はシュンヤに向かってニッと笑って見せた。
「わかりましたよ。リリーに、会いたいって伝えてください。」
「わかった。『リリー、君が恋しい。会いたくて死にそう!』って言ってたって伝えとくな!」
鳥飼はわざと真面目な顔を取り繕い、シュンヤの声色を真似た。
「鳥飼さん!」
シュンヤが怒ると、鳥飼はケラケラと笑っている。
「じゃあ言ってくるわ」
鳥飼はいつの間に身支度を終えたのか、リュックを掴んで家を出て行った。
「僕も動くか……」
シュンヤは腕をひと伸びさせた。運動不足のせいか、左肘がぽきりと音を立てた。
歯を磨いていると玄関の扉が開き、鳥飼の張り上げた声が聞こえてきた。
「そーいやシュンヤ!聞いてるかもしれないけど、佐伯オーナーのお孫さん、璃子ちゃん、だったか?今日の昼、ここに来るらしいぞ!」
「ブハッ!僕、聞いてないですよ!?しかも鳥飼さんの家じゃないですか!ここ!」
歯磨き中のシュンヤは思わず吹き出してしまう。
「いいんだよ!オレが許可を出したからな!じゃあ行ってくるわ!あんま動き回んなよ!昼飯はカップ麺あるから好きなのを取って勝手に食え!」
「あ、ちょっと!」
鳥飼が言うや否や、もう一度扉が閉まる音が聞こえた。
「なんで毎回、僕だけ何も知らされてないんだ……」
シュンヤは洗面台の前で、鏡に映る自分を見ながら独りごちた。
◇◇◇
シュンヤがベッドの上で昼寝をしていると、玄関チャイムの電子音が響いた。
壁の時計に目をやると午後一時と表示されている。
「シュンヤさん、いますか?」
扉を叩く音と共に、戸口から雲雀の鳴くような澄んだ声が聞こえた。
「は、はーい」
シュンヤが返事をすると、扉が開く金属音が聞こえ、廊下をパタパタと歩く音が聞こえた。
「よかった!ここで合ってました」
居間の入口から璃子がひょこっと顔を出した。
璃子は以前は腰まで垂らしていた黒髪を後ろで結んでいる。
涼しげなうなじをなぞった先にある白い首筋に、思わずドキリとしてしまう。
「シュンヤさん!足、大丈夫ですか?」
璃子はそういうと、ベッドの上に座るシュンヤに駆け寄ってきた。
揺れる黒髪からは控えめな、ジャスミンの香りがした。
璃子は白の袖広ブラウスに、濃いベージュのロングスカートを身に纏っている。腰上に巻かれているベルトの金具がキラリと光った。
袖から覗く細い右腕には、灰緑色の風呂敷包みが握られている。
「璃子さん、こんな格好ですいません。わざわざ来てくださってありがとうございます」
シュンヤは上下ともにグレーのルームウェアを指さし、自傷気味に言った。
「そんな他人行儀にならないでくださいよ。そんなことより、シュンヤさん、私が送ったLINEも返信してくださらないし。レース後に倒れたって聞いた時は本当に心配したんですから」
璃子は整った眉を八の字に曲げシュンヤを見つめている。桜色の唇は僅かに震えているようだ。
「そんな大袈裟なものじゃないですよ!この通り僕は大丈夫!」
璃子の表情に居た堪れなくなり、シュンヤは無理に笑顔を作ってみせた。
「それなら、よかったです。本当に……でも、LINEはお時間ある時でいいので、既読ぐらいはつけてください。本当に心配したんですから!」
「すいません。あまりLINEって触ってこなかったもので……無視していたわけじゃないんです。もう少しマメに確認します」
「あ……スミマセン……つい感情的になってしまいました。私の悪い癖です……」璃子は顔を真っ赤にして俯いている。
彼女はそのまま黙りこくってしまい、二人の間に沈黙が流れた。
(気まずい……何か話題を変えなきゃ)
「そ、そういえば璃子さん、その大きな荷物は何ですか?」
璃子がパッと顔を上げた。先ほどまでの態度はどこへやら、彼女の目には再び輝きが灯っていた。
「そうだ!今日は、シュンヤさんのために手料理をお持ちしたんですよ」
そう言うと璃子は持っていた風呂敷包みをダイニングルームのテーブルに置いた。
シュンヤは松葉杖を掴み、ダイニングルームへ移動した。
璃子の補助を受けながらテーブル脇に置かれた木製の椅子に腰掛けた。
目の前では璃子の白魚のような指がスルスルと風呂敷の結び目を解いていく。
包みが解かれ、黒く艶のある三重箱が姿を現した。蓋には金色の松の木が描かれている。側面には鶴や梅の花の装飾が施されている。
素人のシュンヤが見ても一目で高級だとわかる代物だ。一般家庭には不釣り合いな存在感に思わず喉を鳴らしてしまう。
「凄い入れ物ですね……」
「手頃な入れ物が無くて……それに、男性に手料理を食べていただく事が初めてで、ちょっと気合を入れすぎちゃいました」
璃子は穏やかに微笑みを浮かべ、シュンヤの手をしっかりと握ってきた。その小さく繊細な手に宿る熱にシュンヤの鼓動は速くなってしまう。
「その分、シュンヤさんの足が早く治るように栄養満点、腕によりをかけて作ってきましたから!さあさ、どうぞ召し上がってください」
「は、はい。イタダキマス」
シュンヤは璃子に促されるままに重箱の蓋を開けた。
中には魚料理や卵料理など、豪華絢爛な料理が詰まっていた。
どれを食べても、これまでに行ったことのある料亭に勝るとも劣らない素晴らしい味だった。最後までシュンヤの箸は止まらなかった。
◇◇◇
「あぁー美味しかった!久々にこんなに食べたよ!」
空になった重箱を前にシュンヤは満足そうにお腹をさすっている。
「ふふふ。お口にあって良かったです。鳥飼さんの分も作ってきたので後でこちらお渡しください」
「それにしても璃子さん、凄いね!本当にプロ顔負けの味だったよ!」
「嬉しいです。でも本当にプロ直伝の味なんですよ?」
「どういう事です?」
「実は私の母、元々ホテルで料理人として働いていたんです。私の父が社長を務める、佐伯ホールディングスのホテルで料理長として働いてました。幼い頃、それが私の誇りでした」
最初は明るく話す璃子だったが、言葉を紡ぐ度にその顔に暗い影が差していった。
「璃子さん……?」
「私も母みたいな料理人になりたくて、十五歳まで母にねだっては料理を教えてもらっていました。本業が忙しい中で時間を作ってくれて、本当に優しい母でした」
「でした……?お母さんは今……?」
「五年前、亡くなりました。交通事故で」
「ご、ごめん!そんな事を思い出させちゃって」
「いいんですよ。もう吹っ切れていますから」
テーブル越しに明るく振る舞う璃子だが、その瞳は海面のようにゆらゆらと揺れている。
「ごめんなさい。まだ私達、出会って間もないのにおかしいですよね。こんな個人的な事を一方的に捲し立てちゃって。なぜだか、シュンヤさんといると落ち着くんです。でも、さっき言った事は忘れてください」
シュンヤは、目の前で肩を震わせる璃子を放ってはおけなかった。
「璃子さん、僕でよければ聞きますよ。
ほら、まだ出会ったばかりだからこそ、気楽に話せるって事もあると思うし」
「ありがとうございます……シュンヤさん、やっぱり優しいですね。最初に思った通り」
最後の言葉は消え入るように溶けていき、シュンヤの耳には届かなかった。
そこから短い沈黙の後、璃子は短く息を吐き、白い指を胸の前でそっと組んだ。
シュンヤがその指の隙間をぼうっと眺めていると、彼女の声が再び響いた。
「そこから、父は母の事を忘れるためなのか、仕事一辺倒になりました。
ほとんど家に帰ってくることも無くなって、そんな環境の変化に耐えられず私は塞ぎ込んでしまいました。自分の人生に希望が持てなかったんです……そんな私を見かねてか、おじいちゃんが私を色んな所に連れ出してくれました。その中の一つに北海道の競走馬の牧場もあったんです。大きくて、優しい馬達と触れ合ううちに、なんだか心も癒されて、その時間だけが私の癒しになりました」
璃子の長い睫毛がゆっくりと上下に揺れる。懐かしむような、僅かな笑みを浮かべている。
「そこから約二年間、おじいちゃんにねだっては牧場に連れて行ってもらっていました。そうしているうちに少しずつ、自分の人生に希望が持てるようになっていって。私に希望をもたらしてくれた馬という生き物に携わりたい。いつしかそう思うようになりました」
「そうだったんだ……」
「馬は大好きです。でも昔は競馬や、騎手の事は好きじゃなかったんですよ。毎年、何千頭も競走馬は産まれています。でも、勝ち上がれない馬達がどうなるか、シュンヤさんはご存知ですよね?」
「ッ……」
璃子の射るような視線を受け、シュンヤは言葉に詰まる。競馬界に生きる者が目を背けてはいけない事実。
毎年八千頭も生み出されている競争馬だが、天寿を全うできる馬は全体の一パーセントに満たないといわれている。優秀な成績を収めた馬は引退後も繁殖入りし、生まれ故郷で余生を過ごす事ができる。
しかしその裏では勝ち上がる事が出来ない馬、優秀な子どもを排出できない馬のほとんどは行方不明。という扱いで姿を消している。中には乗馬クラブなどに譲渡され、行先を非公開にされているケースもあるが、競馬という一大産業は多くの犠牲の上に成り立っているのは紛れもない事実である。
たじろぐシュンヤをよそに璃子は言葉を続ける。
「でも、ある時に気がついたんです。私がいくら競馬を、騎手を嫌ったところで、亡くなってしまう馬が減るわけじゃない。それなら、そんな命を少しでも助ける役を担いたい。そう思ったんです。まだまだ勉強しなければならない事もたくさんあるけど、おじいちゃんみたいに人脈を作って、そして将来は引退馬のための養老牧場を経営する。それが今の私の夢です」
言い切った璃子は真っ直ぐな目をしていた。
(吸い込まれそうな綺麗な目だ。まるでリリーの目みたい……)
「でも、今の話、おじいちゃんだけには内緒にしてくださいね?大護さんや鳥飼さんには大丈夫です。いずれお力添えを頂くことがあるかもしれませんし」
「璃子さん。わかったよ。でも最後に聞いても良い?騎手が嫌いだって言っていたけど、どうして僕にここまで良くしてくれるの?」
その問いに璃子は目を細めてシュンヤの方を見た。 優しく弧を描くその双眸から、なぜだか目が離せなかった。
「それは……シュンヤさん、の騎乗が好きだからです。シュンヤさんの馬に対する騎乗、とっても柔らかくて、馬のことを第一に考えている。そんな風に感じたんです。リリーちゃんに乗った時は特に」
「そうだったんだ。リリーは僕の特別な馬だからね。嬉しいよ」
「ソレ、ちょっと嫉妬しちゃいます。私のことも、リリーちゃんと同じぐらい見てほしいです。なんて」
冗談めかして言う璃子だったがその瞳は真剣に見えた。
シュンヤは璃子の顔を見返す。驚いた己の顔が璃子の瞳に反射しているのが見えた。言葉が喉に張り付いて出てこない。
璃子は、落ち着かないのか、目を逸らし、胸のあたりで指を合わせてそわそわしている。
(何でだろう……璃子さんを見ていると、胸が苦しい……でも、僕には先にリリーがいる。僕は騎手だ。今はそれ以外を考えてはダメだ)
自身に芽生えかけた邪な気持ちを振り払い、シュンヤは真っ直ぐ璃子の目を見据える。
「璃子さん、養老牧場。素敵な夢だと思うよ。リリーだって、引退した後どうなるかわからない。リリーだけじゃない。正直僕も今まで馬の引退後の事には目を背けてきた。今すぐってわけには行かないけど、僕も璃子さんの夢を手伝わせてよ」
「シュンヤさん、ありがとう。先ずは早く足を治して、リリーちゃんと走る姿をまた見せてくださいね」
「絶対に直すよ!」
「それと、リリーちゃんを直に見せてくれる約束、忘れないでくださいね?」
璃子は細い人差し指を桜色の唇に押し付け、上目遣いでそう言った。
最後まで読んでいただきましてありがとうございました。次回も楽しみに!




