第14話 皐月賞、壊れた右足
田原武馬
――四月十八日
ウェディングリリーの桜花賞から一週間が経った。
彼女の次走は五月に行われるG1『オークス』に正式決定した。
そして現在、十五時四十分。シュンヤは牡馬クラシック第一冠目『皐月賞』のゲート裏にいた。
地元のオーケストラが演奏する軽快なファンファーレが中山競馬場に鳴り響いている。
芝の2000m戦。コーナー四つの右回りコースだ。
シュンヤの目の前には陰影の無い巻層雲が広がっており、空の薄い青と混ざり合っている。
その開放的な景色が、シュンヤにはなぜだか不安なものに感じられた。
シュンヤの騎乗馬はバーガンディロード。
茶褐色の鹿毛で、額の上にミルクをぶちまけたような大流星が特徴だ。
彼はゲート裏で頸を激しく振り回し、係の誘導を何度も拒んでいる。
これまで四戦全てのレースでスタートを出遅れ。
ゆえに末脚に賭ける追い込み戦法しか経験がない。それでも素質だけで、重賞を含め二勝をあげている。
牡馬クラシックは皐月賞、日本ダービー、菊花賞の三つの芝G1レースで構成されている。
騎手はもちろん、馬主や調教師、牧場にとって、その舞台に自身の馬を出走させられる事はとても栄誉ある事だ。
本来は騎乗依頼の無かったこの舞台に立てている事をシュンヤはありがたく思った。
――三日前
朝の調教を終えたシュンヤのスマートフォンが震えた。
栗東トレセンに所属する、折橋翔調教師からだった。
「久我君、以前交換した名刺から電話をかけさせてもらっています。折橋です」
聞けば、バーガンディロードの主戦騎手、伊沢純美が急病のため騎乗不可になり、急遽代打騎手を探しているというのだ。
「久我君にウチのバーガンディロード、皐月賞で乗ってもらいたいと考えているのですが、いかがでしょう?」
シュンヤは驚きつつも二つ返事で承諾した。
まだデビューから二年と経験は浅いが、シュンヤが競馬界において一定の信頼を得てきた証であった。
「せっかくのチャンスだ。なんとかモノにするぞ!」
シュンヤは拳を握りしめ、意気込むのであった。
――そして現在、シュンヤはゲート内のバーガンディロードの鬣を撫でたり、口笛を吹いたり、あの手この手で暴れないようなだめていた。
バーガンディロードは口笛の音で落ち着く。事前に伊沢騎手から情報を得ていた。
しかしそれでは足りないのか、彼はガシャガシャと金属製のゲートを揺らしている
鉄と芝の匂いが混ざり、ドロリとした不快感がシュンヤの胸の内にたまっていく。
「頼むよー……落ち着いてー……!」
最後の一頭がゲートに身を収め、あとはスタートを待つのみ。というところで事件は起こった。
「ヒヒィィィィィィイン」
横にいた馬がゲート内の駐立が乱れ、立ち上がってしまった。
それに驚いたバーガンディロードがつられて立ち上がりかけ、その影響で右側によろけてしまう。
ガンッと鈍い音を立て金属製の柱に体を打ち付けてしまった。
「痛ッ……!」
シュンヤは右足に鈍い痛みを覚えた。
一瞬だが、馬体とゲートの横壁の隙間に足を挟まれてしまったのだ。
しかし間髪空けずにゲートが開き、レースは始まってしまった。
(腫れてるかもな……でも行くしかない……!)
痛む足で合図を出し、なんとか発進させる。
バーガンディロードは半馬身ほど出遅れてしまった。
前に他の十七頭を見ながらのスタートになってしまった。
(落ち着け……)
シュンヤは一度深呼吸をして、縦長になっている隊列を見渡した。
全馬が大歓声にさらされながら、スタンド前の直線を駆けていく。
逃げているのはゼッケン番号六番、ウルスチャクラム。昨年末に行われたG1『ホープフルステークス』の勝ち馬だ。焦茶色の尻がリズム良く跳ね、のびのびと気持ちよさそうに駆けている。鞍上は逃げの名手、黒川典芳だ。
その少し後ろにゼッケン番号十四番グロウコマンド。
鞍上はアメリカの天才。アルトン・アンダーソンだ。
三月に行われた皐月賞の前哨戦『弥生賞』を圧勝。現在は一番人気に支持されている。
黒みがかった茶色の馬体はピカピカと誇らしげに輝いている。
しかし、ひと際目を引くのが中団馬群に位置している栗色の馬体。
太陽に照らされ、金色の尻尾が輝きを放っている。
ゼッケン番号七番レーヌドールだ。このレースにおいて紅一点。
非常に発達した豊かな大腿筋は明らかに他の馬とは一線を画している。昨年末の『ホープフルステークス』をウルスチャクラムと同着で勝利している。鞍上はレジェンド騎手の星勝義。
(また黒さんの逃げか。アルトンも放ってはおけない。勝義さんのレーヌドールをマークして……。
とにかく、バーガンディロードの戦法は決まっている。最後の末脚に賭けるんだ……!)
シュンヤはズキズキ痛む足を庇いながら思考を巡らせる。
レースも中盤。前の隊列では少しずつポジション争いが激化しているようだが、バーガンディロードは依然として最後方を進んでいる。シュンヤは重心を絶妙に後ろに置くことで手綱を絞り、足を溜めている。
前の馬達が跳ね上げた小石や芝の塊がシュンヤの頭上や頬をかすめて飛んでいく。
バーガンディロードはメンコを着用しており、キックバックを受けても気にしていない様子だった。
残り600mの標識を越えた時、縦長だった馬群は一気に縮まり、一つの塊になっていた。
ウルスチャクラムは依然先頭だが、既に追い出しを開始している。
それに並びかけているのはグロウコマンド。アルトンは鞭を刀のように抜き放ち、構えている。
(バーガンディロードは短い間しか末脚を発揮できない……まだ我慢だ……!)
事前に、折橋調教師から追い出しのタイミングは残り300m地点、直線に入ってからと指示を受けていた。
追い出しに備え、シュンヤはバーガンディロードの頸を左側に向け、外目のポジションを取らせる。
バーガンディロードもこれまでの戦法を覚えているのか、足の回転を上げ、一頭、二頭と抜いていく。
残り400m、前方にいる騎手達は一気に追い出しを開始している。
三列前にいるレーヌドールも追い出しを開始した。金色の尾があっという間に残像となり前の二頭に並びかけている。
シュンヤはまだ手綱を動かさない。バーガンディロードからは『いつ行くのか?』と絶えず合図が送られてきていた。シュンヤは口笛を何度か吹き、茶褐色の相棒をなだめた。
「もう少し、もう少し……!」
最終コーナーに入った。
シュンヤ達はポジションを外に回していた影響で、前に馬のいない状況で追い出しを開始することが出来た。
「中山の直線は約300m!ここで全てを出し切ろう!!バーガンディ!!」
―疾風迅雷とはまさにこのことか。
シュンヤの合図を受けたバーガンディロードはあっという間に十頭余りの馬達を抜き去った。前傾姿勢で芝をかき込むようなその姿は獰猛な肉食獣のよう。
バーガンディロードの豪脚が芝を捉え、地面を蹴り上げる。とてつもない推進力でどんどん先頭集団に詰め寄る。
その跳びが大きいせいか、乗っているシュンヤにはさほどの衝撃は伝わってこない。
「すごいぞバーガンディ!これなら行ける!」
シュンヤは足の痛みも忘れて必死に手綱を追い、鞭を振るった。
『粘る粘るウルスチャクラム!並びかけてかわすかグロウコマンド!しかし十四番レーヌドールも来ている!やはり三強決着となるのか!?』
スタンドには興奮気味なアナウンサーの声が響いている。
『外から一頭、バーガンディロードも迫ってきている!すごい脚!ウルスチャクラムをかわして三番手に躍り出た!』
バーガンディロードは前を行くグロウコマンドとレーヌドールにほとんど差のない所まで迫っていた。
残り50m。かわせる!シュンヤがそう思った瞬間、レーヌドールの馬体が震えた。
星のアクションに応え、栗色の身体を躍らせ、筋肉が唸りを上げる。
そのまま並んでいるグロウコマンドとバーガンディロードの頭一つ分抜け出した。残り20m、10m、追いつけない……!
『バーガンディロード迫る!しかしグロウコマンド譲らない!レーヌドール抜け出した!!レーヌドール、レーヌドール!勝ったのはレーヌドールだ!十七頭の男馬を引き連れ、新女王が誕生した!牝馬の皐月賞勝利は七十五年振り!』
小さく拳を握った星を遠目に、バーガンディロードは三着でゴール板を駆け抜けた。
(あのレーヌドールが皐月賞馬……)
向こう正面で軽く走らせている星に追いつき、祝福の言葉を投げかける。
「勝義さん、おめでとうございます!レーヌドール、まさか男馬の頂点に立っちゃうなんて……!」
「久我君か!ありがとう!バーガンディロードが来た時には焦ったよ!」
星は珍しく頬を紅潮させ、弾けるような笑顔で返事をしてきた。
「君が言ってくれたようにレーヌで凱旋門、絶対挑戦するわ!」
見るとレーヌドールは鼻孔を激しく膨らませ、荒く呼吸をしている。
体には血管が無数に浮き上がり、レースの激しさを物語っていた。
しかし、黒曜石のようなその瞳は爛々と輝き、歩容はステップを踏むように軽やか。とても嬉しそうだ。
「バーガンディ、よくやった。よくやったぞ」
遠くでウイニングランを行なっている星を遠目に見送り、シュンヤは装鞍所に引き上げていた。
もちろん、死力を尽くしてくれたバーガンディロードを褒めるのは忘れない。少し不本意そうだがシュンヤの呼びかけに耳をぐりぐり動かして反応を示している。
バーガンディロードを担当する厩務員さんもシュンヤによくやった。と褒めてくれた。
――しかし、装鞍所で下馬した瞬間、右足に激痛が走った。
「ッツ!……痛ッ……!」
脛から足先にかけて燃えるように痛み出した。邪魔にならない場所になんとか移動し、座ってブーツを脱ぐ。
見ると、脛と足の甲が真っ赤に腫れていた。嫌な汗がダラダラと噴き出してくる。
「久我騎手、大丈夫か!?」
バーガンディロードの厩務員が心配そうにこちらに駆けてくるのが見えた。
周りに数人の人だかりが出来ていた。
シュンヤはあまりの激痛に足を抱え込んだまま立てずにいた。
「立てないのか?」
シュンヤは目の前の係の質問になんとか首を横に振って応じる。
「おぉーーい!担架持ってこい!」
そのまま担架で運ばれ、馬場に待機していた救護車に乗せられた。
中では若い救護班の男性が待機していた。
「どこが痛みますか?」
「右足です。膝から下が腫れています。多分スタート時に馬とゲートに挟まれて」
「他に痛む箇所はありませんか?頭部や呼吸が苦しいなどは?」
「ないです」
「これで痛む箇所を冷やしてください」
救護班の彼から、氷のうを手渡された。派手な水色が目に優しくない。
腫れた箇所に当てると僅かだが、痛みも楽になった。
その後救急車で競馬場に併設されている救護室まで運ばれた。
学校の保健室のような、簡素な作りの部屋に、薬品棚や様々な機器が所狭しと置かれている。
シュンヤは硬いベッドの上に寝かされた。
消毒液の匂いが鼻につく。年季の入った天井を眺めていると、目の端に人影が見えた。
紺色のシャツに身を包んだ男だ。胸のプレートには近藤と書かれている。
「久我騎手、私の声が聞こえますか?」
シュンヤが返事をすると、手元に持っているボードに何やら書き込んでいた。
「意識に問題はなし。と……」
「じゃあちょっと診ていきますね」
その後痛む箇所を触られたり、質問に答えたりして、ひとしきり診察を終えた。
「腫れがひどいね。自力で歩けないレベルだから、外部の病院で一度診てもらってください」
そう言って近藤はマジックテープ式の固定具をシュンヤの右足に巻いた。
その後すぐに救急隊員がやってきた。
近藤に礼を言う間も無く、競馬場から手近にある総合病院に救急車で移送された。
そこではガラス製の台に寝かされ、レントゲン検査を受けた。
ガラス台はひんやりとしていて熱を持ったシュンヤの足にはすこし気持ちがよかった。
検査が終わると看護婦に松葉杖を手渡された。近藤がつけてくれた固定具はそのままだ。
松葉杖をつきながら診察室へ行くと、白い口髭を蓄えた初老の医師が椅子に腰掛けている。
その傍にはいつの間に来たのか、大護も座っている。
シュンヤが大護の隣に座ると、医師が顔を上げた。
「久我さんですね。ココ、見てください」
医師は、モニターに表示された白黒のレントゲン写真をトントンと叩いた。
「ここ、見えますか。体重を支えるための足の太い骨、いわゆる脛骨というんですが、黒いスジみたいなのが見えるでしょう。不全骨折という状態になっています。簡単に言えばヒビが入っている状態です」
医師は淡々と続ける。
「幸いな事に軽いもので、三、四週間もあれば骨自体はくっつくでしょう。その後経過観察によりますが、最低でも一ヶ月は激しい運動は控えてください」
医師の言葉にシュンヤは鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
「ちょっと待ってください!ヒビが入った程度で復帰まで二ヶ月もかかるんですか?大事なレースが一ヶ月後にあるんです!なんとかなりませんか!」
シュンヤの悲痛な叫びが診察室に響く。
一ヶ月後はウェディングリリーの牝馬クラシック二冠目『オークス』がある。何としてもそこまでには復帰しなければならない。焦りと痛みでシュンヤはどうにかなってしまいそうだった。
「そう言われましても……骨が結合するのに約一ヶ月、リハビリ過程に一か月。その過程を経ないと再度同じ箇所が骨折する恐れもあります。完治するまでは、医者として許可を出すわけにはいきません。お気持ちはわかりますが、今は治療に専念してください」
シュンヤは医者の言葉に息を飲み、拳を握りしめた。涙が出そうだ。足の痛みよりも今は心が痛い。
オークスでウェディングリリーに騎乗出来ない。
「シュンヤ、お前はまだ若い。ここでしっかり治さないと先々、足の感覚が完全の戻り切らない事だってあるんだ。先輩騎手にもそういう奴らが何人かいる。オークスだってリリーの最後のレースってわけじゃないだろう?」
大護は震えるシュンヤの肩に手を置き、優しく諭すように言った。
「はい……」
答えるシュンヤの目には大粒の涙が光っていた。
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