第12話 桜花賞
田原武馬
――四月十一日
春の陽気が漂う快晴日。
阪神競馬場のコース外周に植えられたソメイヨシノは満開で咲き誇っている。
例年は雨で大半が散ってしまうこともあるが、今年は多くの木が花を残している。
薄い桜の花びらが風に舞う様は壮観だ。
今日はG1桜花賞当日だ。まだ昼過ぎだというのにスタンドは大勢の客で賑わっている。
シュンヤは第4Rの騎乗が終わり、休憩室のベンチで休んでいた。ここまで二回騎乗して一着、二着と好成績を残している。
「Hi!シュンヤサン!リラックスタイムですか?」
シュンヤの頭の上から声がかかった。
顔を上げると、青い瞳と目が合った。アメリカの天才騎手アルトン・アンダーソンである。
センターパートに整えられたブロンドの前髪を揺らしながらシュンヤの隣に腰掛ける。
(ほとんど初対面なのに!この人距離近くない!?)
シュンヤは人見知りをするタイプだった。
「ア、アルトンさん。ナイストゥミーチュー」
アルトンは、緊張するシュンヤをよそに白い歯を見せ、HAHAHAと笑っている。
「そう硬くならないで。リラックス続けてください」
「何かご用でしたか?」
「今日のメインレース、桜花賞。センセンフコクに来マシタ」
アルトンは自身の鞭を空で振りながら、何でも無いような様子でそう言い放った。
センセンフコク?……宣戦布告!
シュンヤの頬にピリッと緊張が走る。
「わざわざそれを言いに来たんですか?前走の阪神JF、あなた達が勝利したじゃないですか!」
「確かにそうデス。あの時のアナタ達は怖くなかった。でも最近のアナタの騎乗を見て感じていマス。アナタはワタシのライバルになると。だから、今日アナタとは良いレースがしたい。そう思ったんデス。」
アルトンの青い瞳がキラッと光る。
「そして、ワタシとフレンドになってクダサイ!」
「ええ!?どういう事ですか?さっき宣戦布告って言いましたよね?なら、僕とあなたは敵同士、エネミーです!」
シュンヤは眉間に皺を寄せアルトンを睨む。精一杯の威嚇だ。リリーを負かせた相手にそう易々と心を開くわけにはいかない。
「日本では昨日のエネミーは今日のフレンドって言うでしょう?お互い高め合っていけるいいフレンドになれると思うんデス!」
「僕達は今日のエネミーじゃないですか……」
アルトンの圧にシュンヤの声はか細く消える。
「マイフレンド!ヨロシクオネガイシマス。HAHAHA!」
(悪い人じゃないんだろうなぁ……)
シュンヤは少し歳上の青年を見ながらそう思った。
◇◇◇
現在シュンヤは桜花賞のパドック前で集合の合図がかかるのを待っている。ヘルメットの色は六枠を示す緑色だ。
遠くに真っ白な馬体が見える。六枠十一番、それが今回のウェディングリリーに割り当てられた枠順だ。
今日のリリーは白色の『メンコ』と呼ばれる布製の覆面のような被り物を身に着けている。
メンコとは音やキックバックから馬を守る役割があり、レース中の集中力を持続させるのに役立つ。
そしてその後ろには漆黒の馬体を持つ馬が見える。六枠十二番コルピエアルクオレだ。
相変わらず小柄だが、阪神JFを勝利した時に比べても筋肉はキレを増しており、てらてらと不気味な輝きを放っている。
その二頭後ろには阪神JFでウェディングリリーと直線でデッドヒートを演じたダンガンハリケーンがいる。七枠十四番だ。
こちらも調子は良さそうでリズミカルに頸を使って歩いている。
「止まぁぁれーーーーーーーー」
係りの号令を合図に、パドックを周回をしていた十八頭がピタッと歩を止める。
シュンヤは他の騎手に並び、パドックで一礼をした。そしてパドックの内側にいる佐伯氏と大護にかけ寄った。
「シュンヤ、俺たちの一ヶ月の特訓の成果を見せてやれ」
「久我くん、期待しているますよ」
「はい!!見ていてください!」
シュンヤは二人の激励に応え、愛馬に飛び乗る。
「おう、シュンヤ。調子はどうだ?」
鳥飼がリリーの引き綱を引きながら声をかけて来た。
「大丈夫です。二回目のG1騎乗となるとあまり緊張しませんね」
「シュンヤ!今日は絶対に勝ちましょうね!
リリーはこちらを少し見上げ、自信満々といった足取りで歩いている。
「オレたちには秘策があるものな!」
「鳥飼さん声大きいです!」
「ははは。悪い悪い」
「んもうシュンヤ、私に返事をしなさいよ!」
「ごめんよ、リリー。君が頼りだ。僕を本物のジョッキーにしてくれ!」
「ええ!」
手綱を通してジン、とリリーの熱い気持ちが伝わってくる。
それが愛おしくて、シュンヤはリリーの鬣に顔をそっと埋めた。
「ッッ……シュンヤッ……!そういうのは、このレースに勝ってからにしなさい!」
照れたようなリリーの声が聞こえる。
シュンヤは顔を上げ、リリーに勝利を。と願った。
その時風が吹いた。どこからか飛んできた桜の花びらが一枚、リリーの鬣にひらひらと舞い落ちた。
◇◇◇
続々とゲートに馬達が体を収めている。
シュンヤ達は十一番のため先にゲートに入っている。
ゲートの入場順は枠順の番号で決められている。奇数番号が先、偶数番号が後に入る。
偶数番号は『後入れ』と言われ、馬がゲート内で待つ時間が短いため暴れたりするリスクが減る。
しかしリリー先入れでも嫌がる素振りは一切見せず、おとなしくしている。
左横に緑帽のアルトン・アンダーソンとコルピエアルクオレが入って来た。
「シュンヤサン、ワタシ達はフレンド。でも一切テカゲンはしません」
「当たり前ですよ。前みたいに簡単にいくと思わないでください」
アルトンはニヤッと口の端を上げると前に向き直った。
もう言葉はいらない。シュンヤも前に向き直る。
手綱を通して伝わるリリーの呼吸だけを感じて。
ガシャン!!
ゲートが開いた。リリーはいいスタートを切った。
コース外周には満開の桜が列をなしており、桜吹雪が十八頭のうら若き乙女達を歓迎しているようだ。
しかしシュンヤにそれを眺めている余裕はない。逃げの構えに入るリリーに並びかけて来る影があった。同じく逃げ馬、ダンガンハリケーンだ。
「シュンヤちゃん!ここはこの黒川さんに譲りなって!」
「嫌ですよ!」
シュンヤはリリーの手綱を一度だけ動かす。
シッッッ!
リリーの鋭い息遣いが聞こえた。
先ほどまで横に迫っていたダンガンハリケーンは目に映っていなかったようだ。
白い背中が加速していく。
「シュンヤ!これで良いのよね?」
「ああ!君の好きなだけ走ればいいよ!作戦通り!あの時までこのまま行こう!」
リリーは嬉しそうに飛び跳ね、桜並木を横目にぐんぐんぐんぐん加速する。
彼女のハミ受けも良好だ。頼もしい気配が手綱越しに伝わってきた。
ハミとは馬の口に噛ませる棒状の金具のことで、ハミの両側についたリングに手綱がつながっている。馬はそれを通して騎手の手綱操作を感じ、反応している。いわば車のハンドルやブレーキのようなものである。
『十一番ウェディングリリー単騎の先頭、大きく大きく、差が開いて十四番ダンガンハリケーン二番手。十馬身ほど差がついているでしょうか!』
アナウンサーの驚きの混じった声がスタンドに響く。
桜の木は向こう正面をすこし過ぎたあたりで途切れ、今は緑の景観が広がっている。
後ろを振り返っても後続が小さな粒に見える。
「気持ちいいわね!」
「うん!最高だ!」
目の前に広がるのは芝の緑色のみ。春風が気持ちいい。
『依然として先頭を行くウェディングリリー。800m通過は44.9秒!驚異的なハイペースを刻んでおります!二番手はダンガンハリケーンとは依然として八馬身ほどの差があるでしょうか!』
レースは残り800m。後続集団に拡がるビリビリとした雰囲気が先頭のシュンヤ達に伝わってきた。
後続の騎手達はウェディングリリーの粘り強さを知っている。このまま楽に逃げさせてはいけない。いつ捕まえにいくか、牽制し合っているようだ。そろそろ頃合いか。
「リリー、名残惜しいけどそろそろ作戦開始だ」
シュンヤは手綱を手繰り寄せ、徐々にリリーの脚の回転を下げさせる。徐々に徐々に下げ、平均ペースまで落とす。
「シュンヤのやつ、作戦通りだな。阪神競馬場のコースは800m地点から緩やかな下り坂が生じる。そこで馬の走りを抑えても下り坂のため速度は変わらず、足だけ溜められるって寸法だ」
調教師席からレースを見守る大護は一人、ほくそ笑む。
『しびれを切らしたか、三番人気、五番ボルテッククイン田岡遊星進出を開始した!それにつられて十番ハナゼも追い出しにかかっている!』
しびれを切らした数頭が追い出しを開始したようだ。
重なった足音が聞こえてくる。
後ろをチラと振り返ると五馬身ほど後方に赤帽、田岡の鋭い眼光が見えた。
黒とえんじ色を基調としたハイエストファームの勝負服。
田岡は剛腕と呼び声の高い中堅ジョッキーだ。ズブい馬(反応の鈍い馬)を動かすのに長けている。
厳格な性格で知られ、シュンヤは自分以外の若手が泣かされているのを何度も見てきた。
その田岡が手綱をしごき、馬上で暴れ踊っている。しかもその形相は鬼のようだ。コワい。
「リリー、まだだ。まだ引き付けろ!」
「大丈夫。私は大丈夫よ。」
シュンヤの一瞬の焦りをすぐに感じ取ったか、リリーは落ち着いた声で返事をする。
『残り400mと少々!ウェディングリリーにボルテッククイン迫る!その差は三馬身ほど!その後方には十番ハナゼ、内から進出を開始した十四番ダンガンハリケーン。人気のコルピエアルクオレは依然として中団でがっちり手綱を抑えています』
芝の切れ目が前方に見えた。残り400mだ。
「そろそろだ!行こう!リリー!」
シュンヤは手綱を前に押し出した。それだけでリリーはシュンヤの意思を感じ取る。
リリーの後肢が一瞬沈んだ。真っ白い馬体が跳ね上がったように加速し、後続集団を再び置き去りにする。差を四馬身、五馬身と広げていく。
『残り200m!ここからは上り坂が待っている!五番ボルテッククイン田岡は少し苦しいか、ここで内から二番手に抜け出した十四番ダンガンハリケーン!しかししかし、依然として先頭を行くのは白毛のウェディングリリーだ!その差は縮まらない!』
シュンヤの顔には笑みが張り付いている。
リリーの鼓動、呼吸、筋肉の躍動、その生命のリズムを自らの身で感じている。
ウェディングリリーもまた、シュンヤの意思、呼吸、全てを手綱を通して感じている。
向かい風の中、一人と一頭は、一つの塊になって溶けていった。
シュンヤは自分の尾が風で後ろになびいているように感じた。
ウェディングリリーは自分の手の中に手綱、鞭を握っているような感覚を抱いていた。
「人馬一体」競馬においてそんな言葉がある。
人と馬の呼吸、それらが完璧に一つに合わさり、同じ生き物であるかのように動く事が出来ることだ。
それは騎手の理想の形とされてきた。
だけど、今の僕たちは、私たちは、そんな言葉じゃ言い表せない。
『ウェディングリリーと久我シュンヤ、逃げる逃げる!!最後の直線あと100m!後続とは五馬身差があるがこれはセーフティーリードか!』
前方には誰もいない。広がるのはただ一面の芝。
向かい風すら私たちを歓迎してくれるように感じる。
後続の足音は既に聞こえない。
そのままフッと、全ての音が消える。シュンヤとどこまでも行けそうな気がする……。
しかし刹那、静寂は破られる。針を落としたような嫌な音。後方既に見えないはずのあの、小さな黒い子を私たちは既に知覚していた。
「やっぱり来たわね」
前走、阪神ジュベナイルフィリーズで私たちを残り5mで差し切った憎い相手。
シュンヤの手にも力がこもっている。
『外から一番人気、コルピレアルクオレが来ている!!すごい脚だ!』
直線残り50m、左後方から黒い影が迫ってきているのが見えた。
でも、関係ないわ。今の私たちを、僕たちを止める者は誰もいない。
僕はめいいっぱい手綱を前に押し出した。
リリーの純白のたてがみが僕の目の前で激しく舞う。
「「いけえええええええ!!」」
その瞬間、僕たちはゴール板を誰よりも速く、駆け抜けていた。
『コルピレアルクオレ猛追!!しかし!!勝ったのは!!白毛のウェディングリリーだ桜花賞制覇!!』
「ワァアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
怒号にも似た、つんざくような歓声が聞こえる。
「勝った…」
その時僕は初めてジョッキーとして、スタートラインに立てた気がした。
その時私は初めてシュンヤと一つになれた気がした。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
やっと一話のシーンに帰って来れました汗
次回もお楽しみに!




