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第98話「廊下の角」

 俺は歩き出した。


 特別なことを考えたわけではなかった。ただ、あの目を見た時に体が動いた。諦めている目だ。助けを求めることすら諦めた目だ。魔王時代に、戦場でそういう目をした人間を何度も見た。あの目を見た時に動けなかった記憶が、数百年分積み重なっている。だから今は、動く。

そしてもう一つ、過去の自分と、、、、、


 ルナが後ろからついてきた。止めなかった。


 廊下の角に近づくにつれて、三人の上級生の声が聞こえてきた。


「何が悲しくてお前みたいな根暗と同じ学校にいなきゃならないんだろうな」


 笑い声があった。


「眼鏡ないと何も見えないんだろ。可哀想に」


 また笑い声があった。


 小柄な生徒は何も言わなかった。ただ壁に背中をつけて、膝を抱えていた。


---

「なあ、聞いてんのか?」


低い声とともに、鈍い音が一つ。


壁に背を押し付けられた男子が、息を詰まらせる。


「す、すみません……」


震えた声。


だが、それが癇に障ったのか。


「は?謝って済むと思ってんの?」


もう一人が、胸ぐらを掴み直す。


囲んでいるのは三人。

どれも制服の着こなしからして上級生だと分かる。


そして何より――


「ほぼ無能者のくせに、調子乗ってんじゃねぇよ」


吐き捨てるようなその言葉。


この学校での“格”を理解している者なら、すぐに分かる。


Aランク。


実力者だ。


普通の生徒なら、まず逆らえない。


「お前みたいなのがいると、空気悪くなんだよ」


軽く腹を蹴る。


男子は声も出せず、その場に崩れ落ちる。


笑い声。


退屈しのぎの暴力。


いつもの光景――のはずだった。


---


「……くだらねぇな」


その声は、唐突に割り込んだ。


静かな、低い声。


だが、不思議とよく通る。


三人の視線が、一斉にそちらへ向く。


そこに立っていたのは――黒瀬煉だった。


壁にもたれかかるように立ち、興味なさげにこちらを見ている。


「……あぁ?」


一人が眉をひそめる。


「誰かと思えば……Sランク様じゃねぇか」


嘲るような笑み。


残りの二人も、すぐに理解したように口角を歪める。


「あー、あの“無能者のくせに上がったやつ”か」

「マジで意味わかんねぇよな。どういうコネ使ったんだか」


明らかな敵意。


むしろ、待っていたかのような反応だった。


「ちょうどいいわ」


一人が肩を鳴らす。


「気に食わなかったんだよ、お前」


「Sランク?笑わせんなって話」


「格ってもん教えてやるよ」


空気が、わずかに張り詰める。


だが――


煉は、一歩も動かなかった。


ただ、軽くため息をつくだけ。


「遺言は言い終わったか?」


その一言。


あまりにも淡白で、あまりにも興味がなさそうな声。


その態度が、逆に神経を逆撫でする。


「……舐めてんのか?」


一人が踏み出す。


「後悔すんぞ」


次の瞬間――


動いた。


一直線の突進。

無駄のない踏み込み。


Aランクの実力に相応しい、鋭い動き。


普通なら、反応できない速さ。


だが。


「遅い」


煉の口から、静かに言葉が落ちた。


同時に――


視界から消える。


「――っ!?」


次の瞬間。


踏み込んだはずの上級生の身体が、横に流れた。


何が起きたのか分からないまま、バランスを崩し、そのまま地面に叩きつけられる。


息が詰まる音。


一拍遅れて、理解が追いつく。


「は……?」


残りの二人が、目を見開く。


今のは、ただの体術。


だが、その極められ方は常軌を逸していた。


「お前……」


言葉が続かない。


煉は、何事もなかったかのように視線を向ける。


「あと二人だろ」


その言い方が、完全に“数”として見ているものだった。


「……調子乗るなぁ!!」


怒号とともに、二人同時に動く。


連携。


挟み込むような動き。


無駄のない、訓練された動作。


だが――


「だから、遅い」


一歩。


それだけで、間合いが崩れる。


片方の攻撃を、最小限の動きでいなす。


同時に、もう一人の懐へ入り込む。


「がっ――!?」


腹に入る一撃。


重いが、正確。


呼吸を奪うだけの、無駄のない力。


そのまま身体を支点にして、もう一人を引き寄せる。


「なっ――」


反応する前に、足を払う。


視界が反転する。


背中から地面へ。


「ぐっ……!」


二人同時に崩れる。


わずか数秒。


それで、決着はついていた。


---


静寂。


三人とも、立ち上がれない。


意識はある。

だが、身体が言うことを聞かない。


「……なんだよ、これ」


一人が、かすれた声で呟く。


理解できない。


同じAランク。


いや、それ以上の実戦経験があるはずなのに。


何もできなかった。


「Sランクってのはな」


煉が、ゆっくりと歩み寄る。


見下ろす視線。


「そういうもんだ」


淡々とした声。


誇示でも、自慢でもない。


ただの“事実”として。


その言葉に、誰も反論できなかった。


---


煉は、それ以上何もせず背を向ける。


興味を失ったように。


そして、少しだけ足を止める。


振り返らずに言った。


「次やるなら」


静かな声。


だが、はっきりと届く。


「もう少し頭使え」


それだけだった。


「殺さなかっただけ感謝しろ」


---


残された三人は、動けないまま天井を見上げる。


悔しさも、怒りもある。


だがそれ以上に――


理解してしまった。


“差”を。


---


その場にいた、助けられた男子は。


ただ呆然と、その背中を見ていた。


何も言えなかった。


ただ一つ、はっきりしていることだけがあった。


――あれは、同じ人間じゃない。


---


 廊下が静かになった。


 三人の上級生が、それぞれ壁際や床に座り込んでいた。全員、意識はある。怪我もない。ただ、しばらく動けない状態だった。


 ルナが俺の隣に来た。


 後ろで見ていたらしかった。静かな表情をしていたが、その赤い目が少し違う光を持っていた。


「三人を三十秒以内で片付けたわね」ルナが静かに言った。


「時間は測っていない」


「私が測っていた」


「そうか」


「怪我した?」


「肩に一発もらったが、問題ない」


「見せて」


「大丈夫だ」


「見せて」ルナが繰り返した。口調は穏やかだったが、退かない気配があった。


「後でいい」


「今がいい」


 俺はため息をついた。肩を見せた。制服が少し乱れていたが、皮膚には何もなかった。ルナが確認して「問題ないわね」と安心したように言った。俺が「そう言った」とゆっくりとルナの手をどかし、立ちあがろうとした。ルナが「確認したかっただけよ」とそう呟いた。


---


 三人の上級生が、足をもつれさせながら廊下を去っていった。


 静かになった廊下の角に、小柄な生徒だけが残った。


 壁に背中をつけて、膝を抱えたままだった。眼鏡を両手で持っていた。顔が下を向いていた。


 俺は小柄な生徒の前に、一歩近づいた。


 小柄な生徒がゆっくりと顔を上げた。


 眼鏡をかけ直した。目が赤かった。泣いていたのか、あるいは泣くのをずっとこらえていたのか、判断できなかった。その目が俺を見た。


 俺は何を言えばよいか、少し考えた。気の利いた言葉が出てくる人間ではない。だから、思ったことをそのまま言った。


「大丈夫か」


 小柄な生徒が、俺を見た。


 何も言わなかった。


 口が開きかけた。何かを言おうとした。だが言葉が出てこなかった。


 その代わりに、目に涙が浮かんだ。


 一粒が、頬を伝った。


 小柄な生徒が俺から視線を外して、立ち上がった。制服の裾を引っ張って、眼鏡を直して、それから——走り出した。廊下を、振り返ることなく走っていった。小さな背中が、廊下の角を曲がって、見えなくなった。


 足音が遠ざかった。


 静寂が戻った。


---


 しばらく、俺はその場に立っていた。


 小柄な生徒が消えた廊下の角を、見ていた。


 何も言わずに走っていった。何も言えなかったのか、言いたくなかったのか、あるいは言葉を持っていなかったのか、わからなかった。ただ、涙を目に浮かべながら走っていった小さな背中が、頭の中に残った。


 あの諦めたような目が、頭の中に残った。


 助けを求めることすら、諦めていた目だ。今日が初めてではないのだろう。あの三人だけが相手ではないのかもしれない。廊下の角に一人で膝を抱えていたのは、今日だけではないのかもしれない。


 ルナが俺の隣で、静かに立っていた。何も言わなかった。三百年以上生きてきた人間の沈黙は、重さが違う。急かすでもなく、慰めるでもなく、ただそこにあった。


 俺は廊下の角を見たまま、静かに言った。


「まあ——何とかしてみようか」


 ルナが俺を見た。


「何を?」


「決めていない」俺は言った。「だが——何とかする理由はある」


 ルナが少し間を置いてから、静かに笑った。


「それで十分ね」


 夕方の廊下に、二人分の影が伸びていた。

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