第91話「余韻」
澪の番になった。
澪はノートを手元に置いていたが、今日はずっと閉じていた。それが澪なりの、今日は記録の日ではなく楽しむ日だという意思表示のように見えた。
「私は——朝、黒瀬くんからメッセージが来た時です。全員無事、黒剣を取り戻した、というニ行が来た時。それが一番印象に残っています」
「施設の中の話じゃないのか」
「私は施設の中にいませんでしたから。私にとっての昨日は、待っていた時間です。朝から夜まで、ずっと待っていた。その時間の中で、あのメッセージが来た瞬間が——昨日の全てでした」
個室が静かになった。
颯が「澪ちゃん……」と言いかけて、止まった。城島が静かに頷いた。里中が包帯を巻いた腕を見た。
「待っていてくれる人間がいるというのは、力になる。昨日の戦いで、何度もそれを感じた」
澪が俺を見た。その目が、少し揺れた。
「……覚えていてくれたんですね、そういうことを」
「本当のことだから覚えている」
「ここで言うか煉」
「黒瀬くんらしいですね」
「後輩、たまにすごいことをさらっと言うな」
澪が耳まで赤くなって視線を逸らした。
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俺の番が来た。
全員が俺を見た。
「俺の一番印象に残ったことは」俺は少し考えた。「黒剣を取り戻した瞬間ではなく、施設を出た瞬間だ」
「施設を出た瞬間か」颯が言った。
「夜が明けていた。全員が外に出た。誰も欠けていなかった。それが——今日まで生きてきた中で、一番よかった瞬間かもしれない」
静寂があった。
颯が「煉」と呼んだ。
「なんだ」
「そういうことをさらっと言うのは反則だぞ」颯の声が、少しだけ掠れていた。
「本当のことだ」
「わかってる、わかってるけど——嬉しいんだよな。煉にそういうことを言ってもらえると」
ヴィオラが静かに笑った。ルナがお茶を一口飲んだ。城島が目を細めた。里中が窓の外を向いたまま、静かに「そうだな」と言った。澪が膝の上で手を組んで、下を向いていた。
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食事が続いた。
話が、あちこちに飛んだ。
「そういえば里中先輩、施設で花粉操作どのくらい使ったんですか」
「全力で三時間ぶっ続けだ」
「先輩、体力お化けだ」
「当然だ」と言い、鶏の唐揚げを三個同時に口に入れた。颯が「食べ方もお化けだ」とぼそっとつぶやいた。
「うるさい、私の食べ方に文句を言うな」と言って、颯の皿から唐揚げを一個奪った。
「先輩、人の皿から取らないでください!」
「強いものが食べる権利を持つ」
「その理論はおかしい!」
「里中さん、それは屁理屈です」
「城島に言われると何も言い返せない」
「俺が言っても言い返してくるのに」
「颯は格が違う」
「格って何だ」
ヴィオラが颯と里中の口論を見ながら、ルナに小声で「あの二人、いつもこうなの」と教えた。
「見ていて飽きないわね」
「最初は驚いたけど、今は心地よい騒がしさだと思っている」
「あなたがそう言うのは珍しいわね」
「そうかしら」
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食事が終わる頃、颯が「一個だけ言っていいか」と言った。
全員が颯を見た。
「昨日——俺、里中先輩と二人で施設の入口を守ってたじゃないか。あれ、ぶっちゃけ最初はきつかった。何人来るかわからないし、体力も削られるし、煉たちが戻ってくるまでの時間が長く感じて」颯は続けた。「でも里中先輩が隣にいたから、最後まで動けた。先輩がいなかったら、途中で崩れてたかもしれない」
里中が颯を見た。
何も言わなかった。
しばらくして「颯」と呼んだ。颯が「はい」と答えた。里中が「私もだ」と静かに言った。「お前が隣にいたから、最後まで動けた。お前の嵐操作がなかったら、三十一人目の前に折れてた」
颯が目を丸くした。
「先輩が先に言ってくれるとは思わなかった」
「私も言える時には言う」里中がそっぽを向いた。「礼は言わないと言ったが——ありがとう、颯」
颯がしばらく里中を見ていた。
「先輩、ありがとうと言えるんだな」
「うるさい! 二度と言わないぞ!」
「もう一度だけ言ってください」
「言わない!!」
全員が笑った。
ヴィオラが笑っていた。ルナが笑っていた。城島が笑っていた。澪が笑っていた。俺も、笑っていた。
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帰り道、七人で夜の道を歩いた。
颯と里中が先を歩きながらまた口論していた。城島がその二人の後ろを、静かについて歩いていた。ヴィオラとルナが並んで歩いていた。二人の会話は聞こえなかったが、歩き方が穏やかだった。三百四十二年分の距離が、少しずつ縮まっているのかもしれない。
澪が俺の隣を歩いていた。
「楽しかったですか」
「楽しかった」
「即答ですね」
「本当に楽しかったからな」
「そうですね」澪が少し間を置いた。「私も楽しかったです。こういう時間が——続くといいですね」
「続く」
「続くと思いますか」
「思う」
「根拠は」
「全員が、続けたいと思っているからだ。颯も、城島も、里中も、ヴィオラも、ルナも、お前も——続けたいと思っている顔をしていた。それが根拠だ」
澪がしばらく歩いた。夜の街灯が、澪の横顔を照らした。
「……あなたは、そういうことをちゃんと見ているんですね」
「気配を読む癖が、人の感情にも向くらしい」
「それは——素敵な癖ですね」澪が静かに言った。
「そうか」
「そうです」
前から颯の声が聞こえた。「里中先輩、歩くの速い!!」「遅い颯が悪い!!」城島が「二人とも、夜ですから少し静かに」となだめるように言っていた。
澪がその声を聞いて、小さく笑った。俺もそれを見て、少し笑った。
「まあ」俺は言った。
澪が「なんとかなるだろ、ですね」と先に言った。
「そうだ」
「なりますよ、絶対に」
七人の足音が、夜の道に続いていた。




