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第89話「おかえりなさい」

 アパートに帰ったのは、朝の七時を過ぎた頃だった。


 颯が「解散する前に飯食おう」と言ったが、全員が疲弊していたので、一旦それぞれ帰って休んでから集まることになった。

里中が「私の傷を先に手当てしろ」と言った。


「そうだった、先輩の腕、怪我してましたもんね」


楓はそう言って近くのコンビニでガーゼを買って応急処置をした。


「病院に行った方がいいです」


「後で行く」


 ヴィオラとルナは、しばらく二人で話すと言って別の方向に歩いていった。ヴィオラが「また連絡する」と俺に一言残したので、俺は頷いた。


 全員と別れた後、俺は一人でアパートへの道を歩いた。


 朝の空気が、清かった。施設の中で嗅いでいた冥焔会の臭いが、朝風に流されて消えていった。黒剣が腰にあった。その重さが、一歩ごとに確かめられた。


---


 アパートのドアを開けた。


 澪がいた。


 ドアの前に、立っていた。


 俺は少し止まった。


「来ていたのか」


「来ました。連絡をもらってから、いてもたってもいられなかったので」


 澪の目が、俺の全身を確認するように動いた。傷がないか。怪我はないか。そういう確認だと、一目でわかった。そして、ーーーーーー少し潤んでいた


「大丈夫だ」


「……そうですか」澪が小さく息を吐いた。「よかったです」


「待っていたのか、ずっと」


「一時間ほどです。連絡をもらってからすぐに来たので。少し早すぎましたね」


「一時間、ドアの前に立ってたのか」


「中に入れなかったので、鍵がないから」


「そうだな」俺は鍵を取り出して、ドアを開けた。「入れ」


 澪が「お邪魔します」と言って中に入った。


---


 二人でテーブルを挟んで座った。


 澪がバッグから何かを取り出した。コンビニの袋だった。


「来る途中で買ってきました。おにぎりと、お茶です。食べていないと思ったので」


「ありがとう」


「お礼を言われることじゃないです」


 いつもの言葉だった。だが今日のそれは、いつもより少し温かかった。


 俺はおにぎりを受け取り、一口食べた。


 うまかった。施設の中で何も食べていなかった。体が栄養を求めていた。シンプルなコンビニのおにぎりが、今日一番うまいものに感じた。


「澪」


「なんですか」


「話す」


「そうですか、聞きます」


---


 全部話した。


 施設への潜入。里中と颯が入口を守ったこと。城島が外国の異能者と戦っていたこと。確率操作の男との死戦。あの、、、感覚のこと。ヴィオラとルナの再会のこと。最深部の鎖と、終環の新しい使い道のこと。黒剣を取り戻した瞬間のこと。


 澪は一度も口を挟まなかった。ノートを取り出したが、途中から仕舞った。記録ではなく、ただ聞くことを選んだのだろう。目が、俺の話の一つ一つを受け取っていた。


 全部話し終えた時、しばらく沈黙があった。


 澪が静かに口を開いた。


「城島くんはたしか、英語をとても流暢に喋れますよね」


「そうだ」


「それじゃあ、さぞ面白いことが起きたでしょう。……それは見たかったですね」その口元が、わずかに緩んでいた。


「そうだな」


「その謎の感覚は」澪が続けた。「それが一度目ですね。確率操作の男との戦いで起きたのが、最初です」


「橘将望との戦いでは起きなかった。だが確率操作の男との戦いで初めて起きた」


「起きた状況を整理すると」澪がノートを再び開いた。「追い詰められて、当たらないとわかっていながら拳を振った瞬間です。諦めていない状態で、論理的に不可能なことをしようとした時に発動した」


「そうだな」


「それが——黒瀬くんの異能の兆しだと思います」澪が静かに言った。「普通の異能は発動条件が決まっていますが、この感覚は論理の外から来ている気がします。確率を消した、という男の証言と合わせると——」


「確率や論理そのものに、バグを引き起こす可能性がある」


「そうです」澪が頷いた。「まだわかりません。でも——覚えておいてください。その感覚を」


「覚えている」


「次に起きた時、すぐに教えてください」


「わかった」


---


 話が一段落した頃、澪がお茶を俺に差し出した。


「一つだけ聞いていいですか」


「なんだ」


「今日——怖い瞬間はありましたか」


 俺は少し考えた。


「確率操作の男に全力で封殺された時だ」俺は言った。「手が全部なくなったと思った。終環も使い切っていた。黒剣もない。次の手が見えなかった」


「その時、どうしましたか」


「拳を振った」


「当たらないとわかっていながら」


「そうだ。振らない理由がなかった。諦める理由がなかった」


 澪がしばらく俺を見ていた。


「……なぜ諦める理由がなかったんですか」


「帰る場所があったからだ」俺は静かに言った。「お前が待っていると言っていた。颯と里中が踏ん張っていた。城島が背中を守っていた。帰る場所がある人間には、諦める理由がない」


 澪の目が、微かに揺れた。


 しばらく何も言わなかった。窓の外から、朝の光が差し込んでいた。鳥の声が聞こえた。静かな朝だった。


「黒瀬くん」澪が静かに言った。


「なんだ」


「一つだけ言っていいですか」


「どうぞ」


 澪が、真っ直ぐ俺を見た。


「おかえりなさい」


 たった一言。その一言だけだった。


 だが今日一番の言葉だった。施設の中で起きた全てのことより、黒剣を取り戻した瞬間より、夜明けの道を全員で歩いた時より——この五文字が、今日という日の中で一番重かった。


「ただいま」


 俺は言った。


 澪が少し目を細めた。


「……ただいまって言えるんですね」


「初めて言った気がする」


「そうですね。でも——似合ってますよ」


「そうか」


「そうです」


---


 しばらく、二人で黙っていた。


 悪い沈黙ではなかった。言葉がなくても、そこにある種類の静けさだ。昨夜の出来事が全部終わって、今ここに二人でいる。それだけで十分な、そういう静けさだった。


 澪がお茶を一口飲んだ。


「黒剣、見せてもらえますか」


「どうぞ」


 俺は黒剣を腰から外して、テーブルに置いた。


 澪が黒剣を見た。鞘に収まったままの黒剣を、じっくりと見た。触れようとして、少し躊躇してから触れた。鞘の表面を、指先で静かに撫でた。


「重いですね」澪が言った。


「そうだな」


「これが——数百年間、あなたと一緒にあったものですね」


「そうだ」


「……大事にしてください。次は絶対に奪われないように」


「奪われない」


「約束ですか」


「約束だ」


 澪が手を離した。黒剣をそっとテーブルに戻した。


「今日、休めますか」澪が聞いた。


「休める」


「本当に?」


「本当だ。体は疲弊しているが、頭は静かだ」


「頭が静かというのは、どういう状態ですか」


「やることが終わった状態だ。やることが残っているうちは、頭が動き続ける。今日はやることが終わった。だから静かだ」


「そうですか」澪が立ち上がった。「では——休んでください。私は帰ります」


「もう少しいていいが」


 澪が少し止まった。


「……もう少し、いていいですか」


「いていい」


「では——もう少しだけ」澪がまた座った。「でも、あなたが眠くなったら言ってください。その時は帰ります」


「わかった」


---


 二人でしばらく、窓の外を見ていた。


 朝の光が、部屋に満ちていた。遠くで車の音がした。誰かが歩いている足音がした。世界が、普通に動いていた。施設の中で起きた全ての出来事が、嘘のような普通の朝だった。


「澪」


「なんですか」


「昨日、お前が作った作戦は完璧だった」


「完璧ではなかったです。最後にあった気配の五体は想定していませんでした」


「だが基本の流れは正確だった。入口の警備、施設の構造、敵の配置。全部、お前の情報通りだった」


「そうですか」


「そうだ。お前がいなければ、あそこまで整然とは動けなかった」


 澪がしばらく黙っていた。


「……ありがとうございます」


「お礼を言われることじゃない。本当のことだ」


「知っています。でも——ありがとうございますと言いたかったので、言いました」


 俺は少し考えた。


「そうか」


「そうです」澪が窓の外を見た。「来年も——こうやって、みんなで動けますか」


「動ける」


「二年生になっても」


「そうだ」


「覇級との戦いが来ても」


「そうだ」


「私が作戦を立てて、みんなが動いて、あなたが先頭に立って——そういう形が続きますか」


「続く」


 澪が窓の外を見たまま、静かに言った。


「……それが、楽しみです」


「そうか」


「はい」澪が言った。「あなたと一緒にいると、先のことが楽しみになります。それが——私にとって、あなたがいることの意味です」


---


 俺はその言葉を、しばらく頭の中で繰り返した。


 先のことが楽しみになる。


 魔王時代、先のことを楽しみにしたことはなかった。先には戦いしかなかった。だが今は——颯と約束した手合わせがある。澪の誕生日が来る。城島がさらに強くなる。ヴィオラとルナが新しい場所で生きていく。


 全部が、先にある。


「俺もだ」俺は静かに言った。


「何がですか」


「先のことが、楽しみだ」


 澪が、俺を見た。その目が少し揺れた。


「……一緒ですね、また」


「そうだな」


「それが——嬉しいです」澪が言った。耳が赤くなっていた。「さらっと言わないでください」


「さらっとではない」


「さらっとです」


「本当のことだから言った」


「わかっています」澪が視線を逸らした。「わかっていますが——困ります」


「なぜ困る」


「それ以上は聞かないでください」


「わかった」


 窓の外で、鳥が鳴いた。


 朝が続いていた。


 黒剣がテーブルにあった。澪が隣にいた。


 昨夜は長かった。だが今は——静かで、穏やかで、悪くない朝だった。


「まあ」


「なんとかなるだろ、ですね」澪が先に言った。


「そうだ」


「なりましたね、今日は」


「そうだな」


「これからも——なりますよ」澪が静かに言った。「きっと」


「そうだな」


 二人の声が、朝の部屋に溶けた。

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