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第88話「帰還」

 上の階に戻った時、最初に聞こえてきたのは颯の声だった。


 怒鳴り声でも叫び声でもなく、荒い呼吸の合間に漏れる、低い唸り声だ。まだ戦っている。施設の入口付近から、嵐操作の気配と花粉の気配が混在して伝わってきた。里中もまだ動いていた。二人が肩を並べて、押し寄せてくる冥焔会の構成員を食い止め続けていた。


 俺とヴィオラが廊下を抜けて入口付近に出た時、颯が最初に気づいた。


 戦いの最中だった。嵐操作で三人を吹き飛ばして、振り返ったその瞬間に、俺を見た。


 颯の目が、俺の腰に向いた。


 黒剣があった。


「……黒剣」颯が呟いた。


 その一言だけだった。だが颯の顔が、疲労と痛みで歪んでいたその顔が、一瞬で変わった。安堵でも喜びでもない、もっと根本的な何かが、颯の目に灯った。


 里中が振り返った。赤い髪が汗で額に張り付いていた。右腕に、切り傷があった。だがその目は、まだ燃えていた。


「取り戻したのか」里中が言った。


 俺は何も言わなかった。黒剣の柄を、少しだけ引き抜いた。黒い刀身が、廊下の薄明かりを飲み込んだ。光を吸収する黒が、一瞬だけ輝いた。


 颯が「よし」と言った。


 それだけで十分だった。


---

 残っていた構成員が十人ほど、入口付近に集まっていた。颯と里中が二人で食い止めていたが、時間をかけるにつれて消耗していくのは明らかだった。里中の右腕の傷が、その証拠だ。


 夜の廃ビルの中。割れた窓から吹き込む風が、鉄と血の匂いを運んでいた。


その中心に――黒瀬煉。


足元には、奪われていたはずの“黒剣”。

ゆっくりと柄を握った瞬間、空気が変わる。


「……やっと、戻ってきたか」


低く呟いたその声に、十人の敵が一斉に構えた。炎を纏う者、雷を走らせる者、影を操る者――それぞれが異能を展開し、殺意を向ける。


だが。


次の瞬間、煉は消えた。


――いや、“消えたように見えただけ”。


一人目の喉元に、既に黒剣が届いている。


「遅い」


斬撃。音すら置き去りにした一閃。

血飛沫が舞う前に、その異能は黒剣に吸い込まれた。


炎が、煉の剣に宿る。


「一人」


振り返る動作の中で、二人目の雷撃を“斬った”。


雷が霧散する。いや、霧散ではない――奪われたのだ。

剣が帯びる雷光。空気が震える。


「二人」


三人目、影を伸ばす敵が背後から襲う。

だが影ごと、床ごと、空間ごと――叩き斬る。


「甘い」


影は吸われ、剣に沈む。

黒が、さらに濃くなる。


ここからは、もはや戦いではなかった。


踏み込み一つで距離を潰し、

振るうたびに異能を奪い、

奪うたびに煉は加速する。


四人、五人――


炎と雷が混ざり、黒剣は灼けるような輝きを放つ。

六人目の氷を砕き、その冷気さえ飲み込み、白い霧を纏う。


七人目が絶叫と共に突っ込む。


「化け物が……!」


「違うな」


一歩。


「取り戻しただけだ」


振り下ろし。

衝撃波が走り、壁ごと敵を叩き潰す。


八人、九人。


もはや誰も、彼の動きを捉えられない。

剣を振っているのか、空間が裂けているのかすら曖昧になる。


最後の一人が、震える手で能力を解き放った。


全てを焼き尽くす、最大出力の炎。


だが――


煉は、避けなかった。


黒剣を前に出す。


「来い」


炎は、飲み込まれる。


音もなく、熱もなく、全てが黒へと吸い込まれていく。

そして。


静寂。


「これで――終わりだ」


一閃。


遅れて、風が裂ける音が鳴った。


気づけば、十人全員が倒れていた。

動く者は、もういない。


黒瀬煉は剣を肩に担ぎ、夜空を見上げる。


吸い込んだ異能が、剣の中で脈動している。

まるで、奪った力すべてが彼に跪いているかのように。


「まあ何とかできるのが俺だ」


その一言に、夜風が震えた。


彼は歩き出した。


黒剣を携え、すべてを奪う者として。


 俺は黒剣を鞘に収めた。


---


 颯が俺の隣に来た。


「速かった」颯が言った。「黒剣があると、やっぱり違うな」


「そうだな」


「どのくらい違う?」


「素手の時より、全てが一段上になる。攻撃も、防御も、気配読みも。黒剣の光吸収の性質が、異能への対処の幅を広げる」


「じゃあ黒剣なしで今まで戦ってたのは」


「限界まで動いていた」


「それで橘将望に勝ったのか」颯が静かに言った。「黒剣なしで、終環を使って、城島先輩の助けを借りて。それで」


「全員がいたから勝てた」


「そうだよな」颯が頷いた。「でも——これからは黒剣もある。そうなったら橘将望と再戦しても——」


「その話は後だ」


「そうだな」颯が笑った。「今は帰ることが先か」


---


 城島が来た。


 廊下の奥から、光理支配の気配を纏いながら歩いてきた。右肩のあたりに、制服が破れた跡があった。だが歩き方は確かだった。倒れてはいない。


 城島が俺の腰を見た。黒剣を見た。


「取り戻せましたね」城島が静かに言った。


「お前のおかげでもある」


「私は自分の戦いをしただけです」城島が言った。「あの外国人の方——強かった。瞬間移動の速度が、想定より上でした」


「勝てたのか」


「いや、完敗です」城島が微かに笑った。「最後の最後、トドメを刺される直前に彼は言ったんです」


(モウオワッタヨウダ。オレハムダナコロシハシタクナイ。ツギアウトキハモットタノシマセロヨ。ナマイキボーイ)


 「きっと黒瀬くんが勝ったのがわかったんでしょうね。」城島が悔しそうに笑った。「次は私が圧倒的に勝ちます」


城島の目は前を向いていた。昔とは違う、決意と戦意のこもった目をしていた。


 里中が「私は三十一人を相手にしたぞ」と言った。

「先輩、数えてたんですか」


「数えるのが癖なんだ」


「まあ俺は32人でしたけど」


「絶対計算ミスだ!!!」


その里中の一言で笑いが起き、場が和んだ。

---


 ヴィオラが「ルナを連れて戻る」と言って、ルナのいた部屋の方向に向かった。俺は頷いた。


 颯が「ルナって誰だ」と小声で俺に聞いた。


「ヴィオラの旧友だ。三百四十二年ぶりに再会した」


「三百四十二年」颯が目を丸くした。「それは——色々あったんだな」


「そうだな」


「でも会えてよかったな、ヴィオラさん」颯が静かに言った。


「そうだな」


 颯が少し考えてから言った。


「煉、黒剣取り戻した時、どんな感じだった?」


 俺は少し間を置いた。


「戻ってきた、という感じだ」


「それだけか、相変わらず質素だなー。もっと何かなかったのかよ」


「欠けていたものが戻った。それ以上でも以下でもない。だがそれで十分だった」


「そっか」颯が頷いた。「じゃあ帰ろう。澪ちゃんが待ってる」


 その言葉で、俺の中で何かが動いた。澪が待っている。帰ってきたら話を聞かせてください、と言っていた。約束した。その約束を、果たせる。


「そうだな」


「帰ろう、全員で」颯が言った。


---


 施設を出た。


 夜が明けていた。


 東の空が、薄い橙色に染まっていた。夜明けの光が、廃工場の外壁を照らしていた。空気が朝の匂いに変わっていた。虫の声が聞こえた。施設の中では感じなかった風が、外に出た瞬間に頬を撫でた。


 全員が外に出た。


 颯、城島、里中、ヴィオラ、ルナ。全員の顔が、夜明けの光の中にあった。誰も欠けていなかった。


 里中が空を見上げた。


「明けたな」


「そうだな」颯が言った。


「夜明けを施設から出て見るのは、なんか変な感じがするな」


「そうか」


「でも——悪くない」


 「先輩、煉みたいなこと言った」


 里中が「うるさい」と言ったが、里中も笑っていた。


 城島が俺の隣に来た。


「黒瀬くん」


「なんだ」


「全員、無事です。約束通りでしたね」


「そうだな」


「澪さんに早く連絡してあげてください。心配しているはずですから」


---


 スマホを取り出した。


 澪にメッセージを送った。


 「終わった。全員無事だ。黒剣も取り戻した」


 数秒後に返ってきた。


 「よかったです」


 その三文字だけだった。だが俺には、その三文字の重さがわかった。ずっと待っていた人間が、ずっと祈っていた人間が、答えを受け取った時の言葉だ。


 「帰る。話を聞かせると約束した*


 少し間があった。


 「覚えていてくれたんですね」


 「約束だったから」


 「……待っています」


 「おかえりなさい、と言う準備ができています」


 俺はスマホを仕舞った。


「澪ちゃんから来たか」


「そうだ」


「なんて?」


「待っていると言っていた」


「そっか」颯が笑った。「早く帰ろうな」


「そうだな」


---


 全員で歩き出した。


 夜明けの道を、六人で歩いた。颯が「腹減った」と言った。里中が「私も」と言った。颯が「先輩と意見が合った」と言った。里中が「うるさい」と言った。城島が「帰ったら食べましょう」と言った。ヴィオラが「私も混ぜてもらえるかしら」と静かに言った。ルナが「私も」と言った。颯が「全員で食べよう」と言った。


 俺は少し後ろを歩きながら、全員の背中を見ていた。


 颯と里中が肩を並べて歩いていた。城島が静かに隣を歩いていた。ヴィオラとルナが、三百四十二年ぶりに並んで歩いていた。


 誰も欠けていなかった。


 黒剣が腰にあった。


 腰が重かった。この重さが、正しかった。


「まあ」


 俺は静かに言った。


「なんとかなったな」


 いつもの口癖と、少し違った。なるだろ、ではなくなった、だ。それだけの違いだ。だがその違いが、今日という日を表していた。


 夜明けの道が、続いていた。

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