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第86話「最心部と黒い鎖」

 階段を降りた。


 一段ごとに、空気が変わっていった。上の階の喧騒が遠ざかって、代わりに深い静けさが満ちてきた。壁の材質が変わった。コンクリートから、何か別の素材になった。黒みがかった石だ。冥焔会がわざわざこの素材を選んだ理由が、降りるにつれてわかってきた気がした。この素材は、異能の気配を吸収する性質を持っているのかもしれない。上の階で感じていた颯や里中の気配が、完全に遮断されていた。


 最深部に着くと、目の前には扉があった。


 これまでの扉とは違った。鉄製で、分厚くて、表面に細かい紋様が刻まれていた。封印の術式だ。倉石の記録で見たものと似ている。冥焔会が黒剣を封じ込めるために、それなりの時間と労力をかけて作った扉だということが、一目でわかった。


「開けられるか」ヴィオラが聞いた。


「開ける」


 俺は扉に手をかけた。術式が俺の手に反応して、微かに光った。だが拒絶はしなかった。黒剣と俺の繋がりが、術式の認証を突破したのかもしれない。扉が、重い音を立てて開いた。


---


 中に入った。


 部屋は、思ったより狭かった。


 天井が低く、壁が黒い石で覆われていた。照明は一つだけ、天井の中央に小さな光源があった。その薄明かりの中に——黒剣があった。


 部屋の中央に、台座のようなものが据えられていた。そこに黒剣が立てられて、無数の鎖に繋がれていた。鎖は黒剣の刀身に巻きつき、柄に絡まり、台座と床と壁に繋がっていた。ただの金属の鎖ではない。一本一本に術式が刻まれていた。光を反射しない、黒い鎖だ。


 黒剣が、そこにあった。


 俺は一歩、前に出た。


 黒剣から、微かな気配がした。武器が気配を持つというのは、普通ではあり得ない。だが黒剣は普通の武器ではなかった。数百年間、俺と共にあったものだ。俺の力量操作が染み込んで、俺の戦いの記憶が刻み込まれて、俺という存在の一部になっていた。一心同体といっても過言ではない。その黒剣が、鎖に繋がれて、細く、静かに、俺を呼んでいた。


 俺は黒剣に手を伸ばした。


---


 その瞬間、施設全体が揺れた。


 天井から細かい石の粒が落ちてきた。壁の機器が一斉に赤く点滅した。警報音が鳴り響いた。ヴィオラが素早く周囲を確認した。


「罠だった?」


「違う」俺は言った。「冥焔会が、外から何かをした。黒剣に触れようとした瞬間を感知して、最後の手を打ってきた」


「最後の手?」


 その答えは、すぐに来た。


 部屋の壁が、音もなく溶けた。


 正確には溶けたのではない。壁の一部が、異空間に繋がる穴として開いた。その穴から、何かが這い出てくるような感覚があった。


 気配だ。


 一つではなかった。複数の気配が、穴から滲み出てきた。だが気配の主は見えなかった。姿がない。あるのは気配だけだ。


「これは——」ヴィオラが眉を寄せた。


「知っているか」


「知らない。でも——嫌な感じがする」


---


 気配が形を持ち始めた。


 霧のように広がっていた何かが、人の形に凝縮した。一つ、二つ、三つ。やがて五つの人型の気配が、部屋の中に立った。姿は見えない。ただ気配だけが、人の形をしている。


 そのうちの一つが動いた。


 空気が歪んだ。


 俺の左腕に、見えない何かが絡みついた。引っ張られた。床に引き倒されそうになった。体勢を立て直した瞬間、今度は右足に同じ感覚が来た。見えない力で、体を拘束しようとしていた。


「縛るタイプの異能か」俺は言いながら、拘束を力で引き剥がした。だがすぐに別の気配が俺の背後に回り込んだ。


「数が多いわ」ヴィオラの体にも、見えない力が絡みついていた。不死身のヴィオラが死ぬことはないが、動きを封じられていた。「五体全部が同時に来たら、かなり厄介ね」


「そうだな」


 俺は状況を整理した。


 姿が見えない気配の集合体が五つ。それぞれが拘束系の異能を持っている。黒剣は台座に繋がれている。この状態で黒剣に近づくのは難しい。そして——上の階では颯と里中がまだ戦っている。長引かせるわけにはいかない。


---


 気配の一つが、今度は黒剣に向かって動いた。


 黒剣の鎖に絡みついた。鎖が光った。術式が活性化した。黒剣が台座に、より強く縛り付けられていく感覚があった。


「黒剣の拘束を強化している。時間を稼いで、黒剣を完全に封じ込もうとしている」


「時間を稼ぐということは——上に誰かが来るまでの時間稼ぎだ。施設の深部まで辿り着いた俺たちを、上から挟み込むつもりかもしれない」


「そうなる前に片をつける必要があるわね」


「そうだ」


 気配の二つ目が俺に向かってきた。見えない拘束が、今度は胸元に絡みついた。強く引かれた。壁に引き寄せられる感覚があった。俺は足を踏ん張った。壁に叩きつけられる前に、拘束を両手で掴んで引き千切った。見えないはずの拘束が、俺の手の中で感触として伝わってきた。細い、冷たい、金属のような感触だ。


「掴めるのか、見えないのに」ヴィオラが言った。


「気配で位置がわかる。形は見えなくても、そこにあることはわかる」


「なるほど」


 気配の三つ目が、今度はヴィオラを床に縫い付け、四つ目が俺の足首に絡み、五つ目が再び黒剣の鎖に手をかけた。


 五体が、完全に連携して動いていた。


---


 俺は終環ラスト・シグネットに意識を向けた。


 今日の最初の一撃で使った。あの一撃で施設の外周を一掃した。通常であれば、もう使えない。一発限りの制約がある。


 だが俺にはーーーーーー“とっておき”がある


 終環の本質は、封印を解放することだ。俺が数百年前に封印したものを、指輪を通じて解き放つ力。その力の使い道は——銃だけではないかもしれない。


 俺は薬指の指輪を見た。


 一発を使い切った後も、指輪そのものはそこにある。力の残滓が、まだ指輪に宿っていた。全力ではない。主砲を撃った後の残火のようなものだ。だがそれを、別の形に変換できないか。


 封印を解く力。


 鎖を断ち切る力。


 そう、それは——同じことだ。


---


「少し時間をくれ」


「時間はあまりないわ」ヴィオラが床に縫い付けられながら言った。


「わかっている」


 俺は右手の薬指に意識を集中した。


 指輪の残火を、掌全体に広げた。銃として顕現させるのではなく、広く薄く、掌に展開する。封印を解く力を、点ではなく面として使う。射出ではなく、解放として使う。


 指輪が黒く光った。銃の形にはならなかった。代わりに、掌全体が黒い光に包まれた。


 俺は台座に向かって走った。


 気配の二体が俺に向かってきた。拘束が絡みつこうとした。だが今度は振り払わなかった。そのまま走り続けた。拘束を引き千切りながら走った。速度が落ちた。だが止まらなかった。


 台座まで、あと三歩。


 気配の一体が、俺の前に立ちふさがった。


 止まらなかった。


 体当たりで気配を突き破った。気配が一瞬散った。


 台座の前に立った。


 黒剣が目の前にあった。


 鎖が黒剣を縛っていた。術式が光っていた。


 俺は黒く光る掌を、黒剣の鎖に当てた。



「——封印、解放」

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