第85話「銀髪と古い名前」
扉の前で、ヴィオラが止まった。
唐突だった。廊下を進む足が、まるで見えない壁にぶつかったかのように、ぴたりと止まった。俺は半歩先に出てから気づいて、振り返った。ヴィオラの顔が、いつもと違っていた。穏やかで、どこか超然としたあの表情が消えて、代わりに何百年分もの感情が一度に押し寄せてきたような、複雑な色が滲み出ていた。
「ヴィオラ」
「……待って」ヴィオラが静かに言った。「少しだけ、待って」
扉の向こうから、気配がした。
強い気配だ。だが攻撃的ではない。むしろ——静かだった。嵐の前の海のような、表面は凪いでいるが底に何かを秘めている、そういう種類の静けさだ。
「知っている気配か」俺は聞いた。
ヴィオラが、ゆっくりと頷いた。
「知っている」ヴィオラの声が、いつもより低かった。「長い間——探していた気配よ」
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扉を開けた。
部屋は広かった。天井が高く、壁に沿って無数の機器が並んでいた。冥焔会の研究施設らしく、正体不明の装置が稼働していた。その中央に、一人の人物が立っていた。
女性だった。
ヴィオラと同年代に見えた。だがそれが外見だけの話であることは、その気配が証明していた。人間の年齢では測れない、深く積み重なった時間の重さが、その体から滲み出ていた。
黒い髪をしていた。長い髪が、背中の中ほどまで伸びていた。目が赤かった。生まれつきのものなのか、あるいは何らかの力の影響なのか、判断できなかった。
その人物が、俺ではなくヴィオラを見ていた。
まるで、ヴィオラだけがここに存在しているかのように。
「久しぶりね、ヴィオラ」黒髪の女性が静かに言った。声は柔らかかった。だがその柔らかさの裏に、長い年月が折り重なっている感覚があった。「会いに来てくれると思っていた。ただ——こういう形で会うとは、思っていなかったけれど」
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ヴィオラが一歩前に出た。
いつもの冷静さが、戻っていた。表面だけは。だが俺には分かった。ヴィオラの手が、僅かに震えていた。何百年も生きて、何度死にかけても動じなかった人間の手が、今この瞬間だけ、細かく揺れていた。
「ルナ」ヴィオラが言った。
その名前を呼んだ声が、俺がこれまで聞いたヴィオラの声の中で、一番人間らしかった。
「久しぶりに、名前を呼んでくれた」ルナと呼ばれた女性が、微かに目を細めた。「何百年ぶりかしら」
「数えていない」
「私は数えた。三百四十二年よ」
三百四十二年。
その数字が、部屋の空気に落ちた。俺ですら、少し止まった。三百四十二年間、名前を呼ばれなかった人間がいる。あるいは三百四十二年間、その名前を呼ばなかった人間がいる。どちらの側の孤独も、想像するだけで重かった。
「なぜここにいる」ヴィオラが言った。感情を押さえた、静かな声だった。「冥焔会に協力しているのか」
「協力、と言えるかどうか分からないけれど」ルナが言った。「ここに来たのは、あなたに会うためよ。冥焔会がこの計画を進めれば、あなたが来ると思っていた。黒瀬煉を追って」
「私を呼ぶために、冥焔会に協力したということか」
「そういうこと」ルナが頷いた。「迷惑だった?」
「迷惑という言葉では足りないわ」
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俺はヴィオラとルナを交互に見た。
二人の間にある空気の質が、これまで俺が見てきたどんな対話とも違った。怒りでも敵意でもない。積み重なりすぎた時間が作り出す、独特の重さだ。
「一つだけ聞いていいか」俺は言った。
二人が俺を見た。
「お前は何者だ」
ルナが俺を見た。赤い目が、静かに俺を捉えた。
「黒瀬煉ね。噂通りの顔をしている」ルナが言った。「私の名前はルナ。ヴィオラの——何と言えばいいかしら。友人、と言うには長すぎる時間を共有した。敵、と言うには互いを知りすぎている。昔の言葉で言えば——同士、が一番近いかもしれない」
「同士だったなら、なぜ三百四十二年も会っていなかった」
ルナが少し間を置いた。
「それを話すには、少し時間がかかる。でも——あなたには関係のある話よ、黒瀬煉。あなたの魔王時代のことだから」
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ルナが部屋の端に置かれた椅子に腰を下ろした。戦う気配がなかった。それどころか、俺たちを待っていたかのような自然さで、部屋の中に溶け込んでいた。
「座ったら?」
「立ったままでいい」
「相変わらずね」ルナが微かに笑った。「分かった。では立ったまま聞いて」
ルナが俺を見た。
「黒瀬煉、あなたは魔王時代の記憶がほとんどないと聞いた。ヴィオラが消したから」
「そうだ」
「ではヴィオラから、私の話を聞いたことは?」
「聞いていない」
「そうでしょうね」ルナが静かに言った。「ヴィオラは私のことを話さない。ずっとそうだった。でも——私はあなたに知ってほしいことがある。魔王ヴァルゼイドが封印される前後の話を。ヴィオラだけが知っていると思っている話を、実は私も知っているということを」
ヴィオラが「ルナ」と言った。短く、しかし鋭い声だった。
「話す必要がある」ルナがヴィオラを見た。「三百四十二年、あなたが黙っていたから、私が話す。それだけのことよ」
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ヴィオラが黙った。
反論しなかった。止めなかった。ただ、視線を床に落として、黙っていた。それがヴィオラなりの、許可のような気がした。
「魔王ヴァルゼイドが封印される直前」ルナが話し始めた。「ヴィオラは一つの選択をした。あなたの記憶を消すという選択を。でもその選択をする前に——ヴィオラは私に相談していた」
「相談していた?」俺は言った。
「そう」ルナが頷いた。「消すべきか、消さないべきか。ヴィオラは珍しく、迷っていた。あなたの記憶を消すことが本当に正しいのかどうか、私に聞きにきた」
俺はヴィオラを見た。
ヴィオラは床を見たままだった。
「私は消すべきだと言った」ルナが続けた。「ヴィオラに、記憶を消すよう勧めたのは私よ。あなたが転生後に人間として生きるためには、過去の重さがない方がいいと判断した。だから勧めた」
「それが——三百四十二年の理由か」俺は言った。
「そうよ」ルナが静かに言った。「記憶を消した後、ヴィオラは私を責めた。あなたの記憶を消すという選択を自分一人で抱えて生きるつもりだったのに、私が軽々しく勧めたと。そして——消えた」
「消えた?」
「私の前から、いなくなった」ルナが言った。「三百四十二年間、一度も姿を見せなかった。連絡もなかった。それが——ヴィオラの怒り方だった」
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ヴィオラが、ゆっくりと顔を上げた。
「怒っていたわけじゃない」ヴィオラが言った。声が、少し掠れていた。「ただ——あなたの顔を見ると、あの選択を思い出した。それが辛かっただけよ」
「同じことだと思うけれど」ルナが静かに言った。
「同じじゃない」
「では何が違うの」
ヴィオラが少し間を置いた。
「怒りは——相手を責める感情よ。私が感じていたのは、そうじゃなかった。あなたを責めていたんじゃなくて——自分が正しかったのかどうか、ずっと分からなかった。その答えが出ないまま、あなたの顔を見ることができなかった。私の弱さにあなたを付き合わせてしまったのがとてつもなく悔しかったのよ」
ルナがしばらくヴィオラを見ていた。
「三百四十二年かけて、その答えは出た?」
「出た」ヴィオラが静かに言った。「今日、ここで出た」
「何が答えになったの」
ヴィオラが俺を見た。
「彼よ」ヴィオラが言った。「黒瀬煉が、答えだった。魔王時代には一人だった彼が、今は仲間と一緒に笑っている。それを見た時に——あの選択は正しかったと、初めて思えた」
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部屋が静かだった。
ルナがヴィオラを見ていた。長い時間をかけて積み重なった何かが、二人の間でゆっくりと動いていた。
「そう、ならよかった」
「よかった、だけ?」
「それだけよ」ルナが微かに笑った。「三百四十二年待って、よかった。それだけ」
ヴィオラが、小さく息を吐いた。三百四十二年分の息を吐くような、長くて静かな息だった。
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俺は二人を見ていた。
何か言うべきかもしれない。だが何も言えなかった。言葉を挟む隙間がなかった、というより——言葉を挟むべきではないと思った。これは二人の時間だ。三百四十二年間、互いの重さを別々に抱えてきた二人が、今ここで初めてその重さを下ろしている時間だ。
しばらくして、ルナが俺を見た。
「黒瀬煉、一つだけ言っていいかしら」
「なんだ」
「ヴィオラが選んだ人間が、あなたでよかった。ヴィオラは長い時間、誰かの傍にいることを怖がっていた。また失うことを、また離れることを。でも——あなたの傍に来た。それだけで、私には十分よ」
俺は少し考えてから、ヴィオラを見た。
「ヴィオラ」
「なにかしら」
「お前が傍にいてくれてよかった」
ヴィオラが目を丸くした。ルナが微かに笑った。
「……魔王時代のあなたは、絶対に言わなかった言葉ね」
「今は言える」
「そうね」ヴィオラが、三百四十二年ぶりに会った旧友の前で、静かに笑った。「今のあなたなら、言えるわね」
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ルナが立ち上がった。
「黒剣の場所を教えてあげる。この施設の最深部、もう一つ下の階よ。今は誰も守っていない。私がここで待機していたのは、番人の役割もあったけれど——主にヴィオラを待っていたから」
「冥焔会に知られるぞ」俺は言った。
「構わない。私がここにいた理由は、今日で果たされた。これ以上冥焔会に協力する理由はない」
「お前の異能は何だ、お前には何ができる」俺は聞いた。
ルナが少し間を置いた。
「まあ、これから仲間になる可能性だってあるわけだ、しょうがないから教えてあげる。私の異能は
ーーーーーー時間操作よ」ルナが静かに告げた。「三百四十二年生きてきた理由が、それ。時間を操作することで、自分の時間の流れを遅くできる。だから今もこうしてここにいる」
「時間操作か」
「でも——攻撃には使えない。自分の時間を操作するだけで、他者への干渉はできない。だから戦闘では役に立たない。ただ、長く生きることだけが、私にできることだった」
「長く生きることが、今日に繋がった」
「そうね」ルナが微かに笑った。「長く生きることにも、意味があったということよ」
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俺とヴィオラは部屋を出た。
廊下に出た後、ヴィオラが一度だけ振り返った。部屋の扉を見た。ルナがまだそこにいる。三百四十二年ぶりに再会した旧友が、扉の向こうにいる。
「行くわ」ヴィオラが静かに言った。自分に言い聞かせるような声だった。
「ああ」
「黒剣を取り戻したら——ルナを安全な場所に連れて行く。冥焔会に残すわけにはいかない」
「そうだな」
「黒瀬煉」
「なんだ」
「ありがとう」ヴィオラが前を向いたまま言った。「あなたが答えになってくれて」
俺は何も言わなかった。
言葉より、前に進むことの方が大事だった。
最深部へ続く階段が、目の前にあった。




