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第84話「人間の限界のその先、新たな感覚」

 数百年前のことを、思い出していた。


 戦場の中で、俺はいつも一人だった。誰かに背中を預けることも、誰かのために動くこともなかった。ただ目の前の敵を倒し続けて、それが当然だと思っていた。強さとは孤独であることだと、魔王時代の俺は疑いもせずにいた。


 だが今は違う。


 背後で城島が戦っている。施設の入口で颯と里中が大量の敵と相対している。遠いところで澪が帰りを待っている。その全てが、今この瞬間の俺の力になっている。守るものがある人間は、守るものがない人間より強い。それを教えてくれたのは、この人間の体で過ごした一年間だった。


 片膝をついたまま、俺は静かに息を整えた。


---


 男が再び右手を持ち上げた。


 今度は大きな動作だった。これまでの細かな確率操作とは規模が違う。空間そのものが歪む感覚があった。床、天井、壁——あらゆる場所から、何かが起きる予兆が滲み出してきた。


「そろそろ本気で行こうとしましょう」男が穏やかに言った。その声には感情の起伏がなく、まるで天気の話でもするような淡々とした響きがあった。「あなたはほんとうに面白い。だから少し丁寧に、ーーーーーーー確率の檻に閉じ込めてあげる」


 確率の檻。


 その言葉通りだった。


 俺の体の周囲で、無数の確率が書き換えられていく感覚があった。踏み出せば床が割れる確率が上がる。腕を振れば筋肉が痙攣する確率が上がる。息を吸えば気管が収縮する確率が上がる。あらゆる行動の結果が、男の意志によって塗り替えられていく。体が重くなったわけではない。だが、何をしても上手くいかないという予感が、全身を支配し始めていた。


「これが——本当の確率操作だ」


ヴィオラが動いた。


 不死身の体を盾にして、男との間に割り込んだ。どんな傷を受けても死なない体で、確率操作の渦の中に飛び込んだ。だが男は慌てなかった。ヴィオラの足が絡まるような形で動き、体が横に流れた。攻撃が届かない。それどころか、ヴィオラ自身の体が意図しない方向に動かされていた。


「不死身の体は面白い」男が静かに言った。「死なないということは、どれだけ悲惨な攻撃をされても立ち上がれるということです。でも——攻撃が届かなければ、不死身は意味がないのですよ」


「わかっている」ヴィオラが立ち上がりながら、静かだが鋭い声で言った。「でも私がここにいる限り、あなたの意識の一部は私に向いている。それだけでいい」


 それだけでいい、という言葉の意味を、男が理解するより先に俺は動いていた。


---


 意識を、切った。


 考えることをやめた。どこに踏み込むか、どの角度で打つか、どう躱すか——そういった全ての思考を、意識の表面から消し去った。魔王時代に叩き込まれた、戦場の本能だけを残した。考えてから動く人間の速度では、確率操作の処理速度に追いつけない。だが意識より速く体が動く領域——反射の極限まで研ぎ澄まされた、数百年分の戦闘経験が刻み込まれた領域なら、話が変わる。


 体が動いた。


 意識が追いつく前に、体が男との距離を詰めていた。


 男の右手が動いた。確率を書き換えようとした。だが——俺の体はすでに、男が確率を設定しようとした場所にはいなかった。確率の書き換えが完了する前に、俺の体が次の位置に移動していた。


この時、煉の速さは人間の反射を裕に凌駕した。それはまるでーーーーーー光そのもの。

光速といっても過言ではない。

いや、そのような言葉では生ぬるい、体感速度においてはそう感じさせるものがあった。


「——っ」


 初めて、男の呼吸が乱れた。


---


 右の掌底が、男の胸骨を捉えた。


「間に合いました」


「はっ!?どういう、、、」


「本当の限界は隠しておくものですよ」


男の本当の限界は“意識できない”ではなかった。たとえ、意識ができていなかったとしても煉が男の体を捉えた時点で、認識できてしまっているのだ。


「煉!避けるんだ!」


煉はわかっていた。絶対に男の攻撃を避けることができないことを。その時、煉は思った、、、


「精々最後まで足掻かせてもらうとするよ」


煉は右手を最高速度で、力一杯振りかぶった。速さでは勝てる。そう確信していた。


そんな最中、男の右手が煉の心臓目掛けて伸びてくる。胸に触れられ、心臓の機能を確立で操作されてしまったら流石の煉でも何もできない。


「これで終わりだ、黒瀬煉!」


男の手があとコンマ数秒で届く位置まできた時ーーーーーーー

「ピキッッッッッッ」

先に煉の拳が当たった。


(この感覚は何だ)


その瞬間、その場にいた3人全員が考えた。


「「「当たった、、、?」」」」


そう当たったのだ。通常の状況で聞けば煉の拳の方が早いのだから当たり前のことかもしれない。自分で攻撃をしたにもかかわらずおかしい話だが、この状況においてはありえない、ありえてはいけないことだった。


 完全ではなかった。確率操作が完全に無効化されたわけではなく、男の体が微妙にずれたせいで直撃ではなく掠った形になった。だがそれでも、確かに当たった。確率がゼロに近いのはずの攻撃が、男の体に触れた。


(ダメだ、なぜ当たったかのか、あの感覚の正体が何なのかはわからないが、ここで偶然だということがバレてしまったら、負けるのは確実に俺たちだ。一旦、話をうまく合わせることを考えよう)


 男が二歩後退した。


 その表情が、初めて変わっていた。穏やかだった顔に、純粋な驚きの色が浮かんでいた。


「当たった」男が呟いた。「確率ゼロの攻撃が、当たった」


「そうだ、、、な」


「なぜだ。人間の動作速度では——」


「人間の動作速度の話をしているなら」俺は静かに、しかし揺るぎない声で言った。「俺は今、人間の限界の外に立っている」


--- 


 男の目が変わった。


 驚きから、興味へ。興味から、真剣さへ。これまでの余裕が消えて、初めて俺を対等な相手として見る目になっていた。


「意識より速く動いているということか。思考を介さない反射で、確率操作の処理より速く行動している」男が言った。分析しながら、同時に全力で確率を操作し続けていた。「だが——反射には限界がある。無意識の動きは、予測できる。パターンがある。そのパターンを確率操作で潰せば——」


「試してみろ」


 俺は再び動いた。


 今度はさらに深く、意識を手放した。体に全てを委ねた。どこに向かうか、何を打つか、俺自身にもわからない動き方だ。予測できないのは相手だけでなく、俺自身もそうなのだから、確率操作でパターンを潰すことはできない。だが、煉の拳を一回だとしてもまともに受けてしまった、男の異能はぶれる。そしてーーーースキを生む。


 男が両手を動かした。


 右手で床の確率を操作し、左手で俺の身体機能への干渉を試みた。同時に二つの確率操作を、全力で展開した。


 右足が僅かに滑った。左腕に力が入りにくくなった。効いている。だが止まらなかった。右足が滑った分だけ体を低くして、左腕の代わりに右肘を使った。体が勝手に補正した。数百年の戦場が、あらゆる状況への対応を体に刻み込んでいた。


 右肘が、男の顎を捉えた。


 今度は直撃だった。


「お前の敗因は俺の攻撃を一発だったとしても喰らってしまったことだ」


 男の体が大きく揺れた。壁に背中から叩きつけられた。


---


 静寂があった。


 男が壁に手をつきながら、ゆっくりと体を起こした。口元から血が滲んでいた。それでもその目は、俺を見ていた。


「素晴らしい」男が静かに言った。「本当に、素晴らしい。確率操作を二つ同時に当てられながら、それでも攻撃を届かせた。意識を手放して体だけで動くということが、これほどの領域に達するとは」


「数百年あれば、誰でもいずれはできる」


「できるわけがない」男が言った。「数百年生きても、これほどの領域に達する人間はいない。お前が特別なんだ、黒瀬煉」


 俺はその言葉を、静かに受け取った。


 沈黙が落ちた。


 男が床に膝をつき、荒い呼吸を繰り返していた。確率操作の気配が、急速に薄れていった。全力を使い切った後の静けさが、部屋に満ちた。


「……負けだ」男が言った。静かで、しかし揺るぎない声だった。「完敗だ。これほど私の異能を攻略されたのは、初めてだ」


「意識を手放す発想はお前の中にあったか?」


「なかった」男が顔を上げた。「意識を持つ生き物は、必ず思考してから動くと思っていた。思考がある限り、確率操作は機能する。だが——思考を介さない領域があるとは」


「数百年の戦場が、体に刻まれている。それだけだ」


「それだけ、と言えることが、お前の強さだ」男が静かに言った。「一つだけ教えてくれ。お前は今——何のために戦っている」


 俺は少し考えた。


 澪の顔が浮かんだ。颯の声が聞こえた気がした。城島の背中が見えた。里中の赤い髪が揺れた。


「帰るためだ」俺は言った。「待っている人間がいるから」


 男がしばらく俺を見ていた。それから、小さく笑った。諦めでも嘲りでもない、純粋な、敗者が勝者に贈る笑いだった。


「……そうか。それは——強い理由だ。私にはないものだ、欲しいとも思いはしないがな」


 男が床に手をついて、静かに横になりながら皮肉混じりにいった。戦意が完全に消えていた。


「行け」男が言った。「黒剣は、この先の最深部にある」


---


 俺とヴィオラは、先へ進んだ。


 最深部へ続く廊下は、静かだった。背後で男が動く気配はなかった。遠くから、まだ颯と里中が戦っている気配が伝わってきた。城島の光理支配の残響も感じた。全員が、それぞれの場所で戦い続けていた。


 黒剣が近い。


 数百年間、一度も感じたことのなかった感覚が、腰の辺りから滲み出てきていた。黒剣が俺を呼んでいるような、あるいは俺が黒剣を呼んでいるような、そういう感覚だ。


「もう少しね」ヴィオラが静かに言った。


「そうだな」


「怖い?」


「怖くない」


「なぜ」


「帰る場所があるから」


 ヴィオラが少し間を置いてから、静かに笑った。


「……魔王時代のあなたには、絶対に言えなかった言葉ね」


「そうかもしれないな」


 廊下の奥に、扉が見えた。


 その向こうに、黒剣がある。


そんな状況の中、最初に男に当たった、あの瞬間に感じたものが何だったのか、そんな疑問だけが残った。

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