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第83話「確率の檻」

男が最初に動いたのは、戦闘開始からわずか三秒後だった。


 右手を軽く持ち上げる、それだけの動作だった。大した動きではない。だがその瞬間、俺の足元の床が消えた。正確には消えたわけではない。俺が踏み込んだ場所の床が、ちょうど罅割れるという確率が極限まで引き上げられ、実際に罅割れた。体勢が崩れた。


「床が割れた」ヴィオラが言った。


「確率を操作して、俺が躓く状況を作り出した」俺は体勢を立て直しながら言った。「攻撃だけでなく、環境そのものを操作できる」


「そうだよ」男が穏やかに言った。まるで教師が生徒に説明するような口調だった。「私の確率操作は、自分や相手の動きだけでなく、周囲で起こる全ての出来事の確率を書き換えられる。床が割れる確率、天井から何かが落ちる確率、空気の流れが変わる確率——全部、私が数字を決める」


 それは——橘将望より性質が悪い能力だと、俺は静かに思った。橘は自分への攻撃を無効化することに特化していた。だがこの男は、戦場そのものを書き換えることができる。


---


 ヴィオラが前に出た。


 不死身の体で、正面から男に向かった。最悪の状況でも死なない。それがヴィオラの強みだ。男への攻撃が当たらなくても、少なくとも盾になれる。俺が考える時間を作れる。そういう判断だと、動きを見て理解した。


 だが男は慌てなかった。


 右手を僅かに動かした。


 ヴィオラの足元の床が、今度は逆に滑らかに変化した。摩擦係数が下がったような感覚だ。ヴィオラの踏み込みが滑り、体勢が前に崩れた。そのまま男の横を通り過ぎた。


「たとえ、あなたが強かろうと不死身だとしたら、異能での直接攻撃は不可能だ。つまり、あなた自身の肉体での攻撃が当たる確率が限りなくゼロに近づけるだけで、意味は無に帰すんですよ」男が静かに言った。「傷つかないことと、攻撃が届くことは別の話だ」


 ヴィオラが体勢を立て直して、俺の隣に戻ってきた。


「以前争った時より厄介ね」ヴィオラが静かに言った。珍しく、声に苛立ちが混じっていた。「床の摩擦を変えるなんて、以前戦った時には一回も見せていなかった」


「成長したということかもしれない」男が言った。


「いつから冥焔会にいるんだ」俺は聞いた。


「三年ほど前から。それより長くいると、組織に染まりすぎる気がして」男が言った。「私は傭兵に近い立場だよ。冥焔会の目的には特に興味がない。ただ強い相手と戦える機会があるから、協力している」


「つまり今日も、俺と戦うためにここにいるのか」


「そうだよ」男が微かに笑った。「黒瀬煉、噂は聞いていた。橘さんと戦った人間だと。実際どのくらいかと思っていたが——今のところ、一般人よりは面白いと言ったところか、、、」


---


 俺は静かに考えた。


 確率操作の弱点は何か。


 橘将望の場合、観測が必要だった。颯の嵐操作で量子ノイズを発生させ、観測精度を落とすことで対処した。だがこの男の確率操作は性質が違う。量子レベルの観測ではなく、確率そのものを書き換えているのだとすれば——観測を妨害する方法は通用しない可能性がある。


 では確率とは何か。


 確率が限りなくゼロに近いということは、無限の可能性の中で一つだけが選ばれるということだ。その一つを選ぶためには、全ての可能性を把握する必要がある。つまり——可能性の数を増やせば、男の処理に負荷がけることができるかもしれない。


 だが確信はない。


 俺はもう一度踏み込んだ。


 さっきとは違う多種多様な攻撃方法、右肘、左拳、右足の蹴りを、ほぼ同時に三方向から放った。到底、、普通の人間にはできない芸等だ。


 全部外れた。


 だが——外れるまでの時間が、わずかに長くなった気がした。三つの攻撃を同時に確率操作するために、男の処理に僅かな間が生じた可能性がある。あるいは気のせいかもしれない。


「面白いことを試すね」男が言った。「複数同時攻撃で処理を分散させようとしているのかな」


「そうだ」俺は正直に言った。


「正直だね。まあ——残念ながら、複数でも大した差はないよ」男が言った。「確率操作に処理速度の概念はない。私が決めた確率は、瞬時に全ての攻撃に適用される」


「処理速度がないということは、意識を必要としない操作ということか」


「そうだよ」男が頷いた。「意識しなくても、私の周囲の確率は常に私に有利な状態に設定されている。無意識に機能する防御だ」


 俺は男の言葉を聞きながら、別のことを考えていた。


 無意識に機能する、ということ。


 無意識ということは——気絶などによって意識が乱れれば、精度が落ちる可能性がある。あるいは、意識が及ばない領域に攻撃を届かせれば。


---


「ヴィオラ、いけるか」


「当たり前でしょう」


そう言った二人の顔は窮地の状況に立たされているのにも関わらず、笑いを浮かべていた。


「あなた達、この状況でまだ笑える余裕があるんですね。大した者です」


「楽しんでもらえてそうでよかった」


「ふっ、来てください。精々、最後の最後まで足掻いて見せてください」


 ヴィオラが動いた。


 今度は男への直接攻撃ではなく、男の背後に回り込む動きだ。男が振り返った瞬間に、俺が正面から踏み込む。前後挟撃だ。


 男が右手と左手を同時に動かした。


 ヴィオラの足元の床が傾くように歪み、俺の踏み込みの角度が微妙にずれた。


 二人同時に外れた。


「同時でも問題ないですね」男が言った。「前後の確率を同時に操作した。少し疲れはしますが——以前、問題はないです」


「少し疲れる?」ヴィオラが俺を見た。「今、少しは疲れると言った」


「聞こえた」


「つまり——完全に無意識ではない。複数の方向を同時に処理する時には、わずかな集中が必要になる、反射で能力を発動するにしても、人間な以上、限界はある」


「そうだね」男が認めた。隠す様子がなかった。「完全に無意識なわけではない。ただ——その意識するのに要する時間は、あなたたちが動きを起こしてから攻撃が届くまでの時間より、遥かに短い。だから問題はないよ」


「遥かに短い、ということは——差はゼロではない」


「理屈上ではね」男が言った。「だが実用上では意味がない差だよ。逆に返すけど、人間の動作速度では、その差を活かすことはできない」


 人間の動作速度では。


 俺はその言葉を、頭の中で繰り返した。


---


 男が初めて攻撃に転じた。


 右手を俺に向けた。


 触れられた場合、より深いところまで俺の体の周囲の確率が書き換えられる感覚があった。攻撃を躱す確率が下がる。転倒する確率が上がる。体に何か異変が起きる確率が——


 左足に力が入らなくなった。


 関節が外れたわけでも、骨が折れたわけでもない。ただ、力が入らなかった。筋肉が収縮する確率が下げられたのか、あるいは神経が正常に機能する確率が操作されたのか。


 片膝が落ちた。


「攻撃にも使えることを確認してもらった」男が穏やかに言った。「あなたの体が正常に動く確率を、私が決める。攻撃だけでなく、あなたの身体機能そのものに干渉できる」


「身体機能への干渉か」ヴィオラが言った。「それも以前はやらなかったな」


「この三年で何も成長していないとでも思っていたんですか」男が言った。「強くなることに、終わりはないと思っているので」


 俺は片膝をついたまま、男を見上げた。


 左足に力が戻ってきた。男が解除したのか、あるいは一時的な干渉だったのか。立ち上がった。


 状況を整理した。


 攻撃が当たらない。躱しても確率で転ばされる。身体機能に干渉できる。複数同時処理にわずかな集中が必要だが、人間の動作速度では活かせない差だと男は言った。


 人間の動作速度では活かせない。


 俺は数百年分の経験を持つ元魔王だ。


 人間の動作速度の限界を、俺は超えられるかもしれない。


 その考えが、一筋の光として頭の中に生まれた時だった。


「面白い顔をしているね」男が静かに言った。「何かに気づいたかな」


 俺は答えなかった。


 まだ確信がない。だが——方向は見えてきた。

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