第82話「城島蓮という男の矜持」
廊下の奥に立っていた人物が、ゆっくりとこちらを向いた。
男だった。
外国の異能者だ。長身で、金色の髪をしていた。体格がいい。だが鍛えた筋肉の密度が、一般の異能者とは次元が違う。冥焔会の黒い服を着ていたが、それでも異質さが滲み出ていた。
男が口を開いた。
「マッテイタ、クロセレン」
片言の日本語だった。だが声に圧があった。気配と声が一致している。底が見えない重さを持った人間の声だ。
「お前が——ヴィオラを手こずらせた相手か」俺は言った。
「ソウダ」男が静かに答えた。「ワタシハ、ヨワイモノニキョウミハナイ。オマエニアイタカッタ」
ヴィオラが俺の横で、微かに息を整えた。初めて見るヴィオラの緊張だった。不死身の人間が緊張している。それだけで、この男の実力の一端が伝わってきた。
「城島」俺は言った。
「わかっています」城島が静かに前に出た。「私が相手をします」
「一人でいいのか」
「一人で十分です」城島が男を見た。目が動いていなかった。「黒瀬くん、先に行ってください」
---
男が城島を見た。視線が、城島の全身を一瞬で測るように動いた。
「オマエガ、アイテカ。コドモジャナイカ。オマエジャ、オレハタノシメナイ」
片言の日本語で、男が言った。子供じゃないか、という言葉に、微かな侮りと蔑みが混じっていた。
城島が男を見た。
表情は変わっていなかった。以前仮面を脱いだ時に見せた、城島の顔だ。だが目の奥には、何かが灯っていた。
城島が口を開いた。
日本語ではなかった。
「I've heard enough. If you underestimate me because of my age, you'll regret it before this is over. I've been trained by someone who spent hundreds of years on a battlefield. Whatever you think a child can do——I'll show you exactly how wrong you are.」
流暢で、淀みのない英語だった。城島財閥の御曹司として培われた語学力が、この瞬間に別の形で発揮されていた。かなり皮肉が効いている煽りだ。完璧な発音と文法で、真っ向から相手を煽り返した。
男が一瞬、動きを止めた。
それから、初めて笑った。
「Heh. Not bad, kid. Let's see if your ability matches your mouth.」
男の気配が変わった。戦闘態勢だ。
「行けますか」俺は城島に言った。
「行けます」城島が前を向いたまま答えた。「黒瀬くん、一つだけ言っていいですか」
「なんだ」
「必ず黒剣を取り戻してきてください。それが——今日ここで戦う理由です」
俺は城島の背中を見た。
光理支配が展開された。城島の全身を包む光が、廊下を白く照らした。
「わかった」
---
俺とヴィオラは城島の横を抜けて、先の廊下へ走った。
背後で戦闘が始まった音がした。城島の光理支配が炸裂する音と、男の瞬間移動が空気を裂く音が交互に響いた。振り返らなかった。城島を信頼しているからだ。あの光の中で、城島蓮は本物だ。
ヴィオラが先を走りながら言った。
「城島という子——強いわね」
「強い。俺が信頼してるぐらいには」
「あなたが?」
「一緒に戦ってきただけだ。だがあいつの強さは俺が一番わかっていると言っても過言ではない。あいつなら大丈夫だ、信頼してみろ」
ヴィオラが少し黙った。それから、静かに言った。
「魔王時代のあなたは、誰かのことをそう言わなかった」
「今は言える」
「変わったのね」そう言ったヴィオラの表情は懐かしむような寂しいけれど嬉しいような複雑な表情をしていた。
そして、二人で更に深部へと走り続けた。
---
施設の中層部に差し掛かった頃だった。
廊下が開けて、少し広い空間に出た。
人影が一つ、その中央に立っていた。
年齢は三十代だろうか。中肉中背で、特に目立った体格でもない。黒い制服を着ていたが、武器を持っている様子もなかった。ただ立っているだけだ。
だが気配がある。
重い気配ではなかった。橘のような底の見えない薄さでも、先ほどの男のような圧倒的な密度でもない。むしろ——軽い。霧のように、掴みどころのない気配だ。
男が俺を見て、静かに言った。
「黒瀬煉。ようやく来た」
「お前は誰だ」
「名前はどうでもいい」男が言った。「どうせここを通ることはできないから」
「なぜだ」
「お前がここを通ることができる確率は今ゼロに近い。私の異能の影響でな」
「お前の異能は何だ?」
「ほう、そんな直接効いてくる奴は初めてだ。調べた時、お前の性格は“率直”と言うのがよく似合うということは知っていたが、思った以上だな」
「そうか、御託はもういいだろ」
「怖い怖い、」そう言って煉を小馬鹿にするように彼は言った。「私の異能はーーーー確率操作です」
俺はその言葉を、頭の中で繰り返した。確率操作。橘将望の能力と、同じ系統だ。だが橘は量子位相の操作という形だった。この男の言う確率操作は、どういう性質のものか。
「どういう意味だ」俺は言った。「確率操作とは」
「そのままの意味だよ」男が穏やかに答えた。「物事が起きる確率や物事の運自体を、私が任意に変更できる。例えばあなたの攻撃が当たる確率を、限りなくゼロに近づけることもできる」
橘の能力に似ている。だが方向性が違う気がした。橘は量子レベルの観測と位相を操作して、攻撃が当たらない未来を選んでいた。この男は——確率そのものを書き換えると言っている。
「試してみればいい」男が静かに言った。
---
俺は踏み込んだ。
最短距離で間合いを詰めた。いつもの動きだ。相手の懐に入り込んで、掌底を打つ。体が自然に動いた。
右の掌底が、男の胸元に向かった。
当たらなかった。
男は動いていない。俺の手が、確かに男の胸に向かったはずだった。なのに当たらなかった。空を切った感覚があった。距離の感覚がずれた、というわけでもない。俺の手が正しい軌道を通ったのに、結果として当たらなかった。
「面白いだろ」男が言った。「あなたの攻撃が当たる確率を、今限りなくゼロに近くした。どれだけ正確な軌道を通っても、確率が限りなくだったしてもゼロなら当たらない」
「物理法則に反している」
「反していない」男が静かに言った。「確率が限りなくゼロに近いということは、無数の可能性の中で当たらない可能性だけが選ばれるということだ。物理法則の中で、最も当たらない結果が実現しているだけだよ」
俺はもう一度踏み込んだ。
今度は左の肘を狙いを変えながら連続して放った。三発、方向を変えながら。
全部当たらなかった。
男の体が、微妙に、ほんのわずかに、俺の攻撃の全てをずらし続けていた。意識的に避けているのではなく、確率として当たらない動きが自然に発生しているのだ。
「橘将望の能力に似ているな」俺は立ち止まって言った。
男が少し目を細めた。
「橘さんを知っているのか」
「知っている。戦った」
「そうか」男が静かに言った。「橘さんの能力は量子位相の操作だ。私の確率操作とは、根本が違う。だが、似ているところもかなりある。あの人は私の恩人だ。私がまだ弱者だった時、あの人が様々なことを教えてくれた。そのおかげで私は今の地位や力を得ることができた。まあ、橘さんの能力は過去に遡って結果を書き換えることができるのだが、私の能力は——過去を書き換えることはできない」
「それは弱点か」
「弱点ではない」男が言った。「その代わり、私の確率操作は橘さんより広い範囲に適用できる。自分だけでなく、周囲の出来事全体の確率や運を操作できる」
俺はその言葉の意味を、即座に理解した。
自分だけでなく、周囲全体の確率を操作できる。
つまり——俺の攻撃が当たらないだけでなく、俺が躱す確率も、俺が動く確率も、全て操作できるということだ。
ヴィオラが静かに俺の隣に立った。
「攻撃できないのは私も同じ。さっきから何度か試したけど、全部外れる」ヴィオラが言った。「でも死なないから、盾にはなれる」
「盾も意味がないかもしれない」俺は言った。「俺への攻撃が当たる確率を上げられる、またはお前が不死身っていう異能を発動できる可能性を——」
「そうなるね」男が穏やかに遮った。「理解が早くて助かる。では——始めようか」
男の気配が、霧から嵐へと変わった。




