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第80話「出発前夜」

 七月の終わりだった。


 明日、動く。


 澪が作戦の最終確認を終えたのは夕方の六時で、全員が倉石のところに集まって二時間かけて細部まで詰めた。ヴィオラは黙って聞いていたが、最後にただ一言「よく考えられている」と言い、倉石が「明日の体調管理を怠るな、早めに休め」と言って、解散になった。


---


 アパートに帰った。


 部屋に入って電気をつけると、いつもと同じ景色が広がっていた。変わったものは何もない。だが今夜は、空気の質が少し違った。戦場の前夜に似た静けさとでも言えばいいか。魔王時代に何百回も経験した、あの独特の重さが部屋に満ちていた。


 椅子に座って、右手の薬指を見た。


 終環ラスト・シグネットが、黒く静かに光っていた。橘との戦いで一度使った。あの時は体が限界を超えていて、詠唱を終えた後しばらく動けなかった。城島が倒れて、隙が生まれて、それでも当てた。明日また使う機会が来るかもしれない。だが今度は体が万全だ。あの時とは違う。


 そして——黒剣が戻る。


 長い時間がかかった。橘将望に奪われてから、ずっと腰が軽かった。その軽さに少しずつ慣れてしまっていたが、慣れることとなくてもいいことは全く別の話だ。黒剣は俺の一部だ。転生してもそれは変わらなかった。


---


 スマホが鳴った。


 颯だった。


 「眠れるか」


 俺はしばらく画面を見た。颯らしい問いかけだと思った。眠れるかどうかを確認しに来る人間が、俺の周りにいる。それが今でも、不思議な気がすることがある。


 「眠れる。お前は」


 「眠れない。興奮してる」


 「体力を温存しろ」


 「わかってる。でも眠れないものは眠れない」


 少し間があった。颯が何かを考えているのが、間の長さから伝わってきた。


 「煉、一個だけ聞いていいか」


 「なんだ」


 「明日、全員で戻ってこられるよな」


 俺は画面を見た。颯が求めているのは慰めではなく確信だ。大丈夫だという空虚な言葉ではなく、俺が本気でそう思っているかどうかを確かめたいのだと、文字の向こうから伝わってきた。


 「戻ってくる。全員で」


 「即答だ」


 「考える必要がないからな」


 しばらく間があった。


 「……そっか。じゃあ眠れるように努力する」


 「煉、俺はお前の隣で戦えるだけで生きててよかったと思えるよ。おやすみ」


 「おやすみ」


俺はその一言だけを残し文の前半には触れなかった。俺にその言葉は、身に余ると感じたからだ。


---


 スマホを置いた直後に、また通知が来た。


 澪だった。


 「起きていますか」


 「起きている。颯と同じことを聞くな」


 「颯くんも連絡してきたんですね」


 返信しながら、澪のメッセージの間の取り方が颯とは全く違うことに気づいた。颯は勢いで言葉を送ってくる。澪は何かを考えてから送ってくる。その違いが、文字越しでも伝わってくるのが面白かった。


 「一つだけ言っていいですか」


 「どうぞ」


 「明日——無理をしないでください。黒剣を取り戻すことと、あなたが無事でいることは、同じくらい大事です」


 俺はその文章を、しばらく見ていた。澪が何を言いたいのかは分かった。黒剣奪還だけに集中して自分のことを後回しにするなという意味だ。俺がそういう動き方をしがちだということを、澪はよく知っている。


 「わかった」


 「約束ですよ」


 「約束だ」


 「もう一つだけ」


 「なんだ」


 「明日帰ってきたら、話を聞かせてください。黒剣を取り戻した時の話を、みんながどうなったかを、全てを」


 俺はその言葉を読んで、少し止まった。澪は帰ってくることを前提に話している。約束を先に作っている。それが澪のやり方だと、今更ながら気づいた。


 「聞かれるまでもないな」


 「楽しみにしています。おやすみなさい」


 「おやすみ」

---


 楓と澪の言葉を、もう一度頭の中で整理した。


 颯は眠れないと言いながらも、全員で戻ってくることを信じていた。澪は無事でいることを条件に出して、帰りの話を楽しみにしていた。


 全員が、明日のことを考えていた。俺のために。


 魔王時代には、なかった光景だ。


 戦場に向かう前夜に、誰かが眠れているかを確認しに来る。帰ってきたら話を聞かせてほしいと言う。隣で戦えることを誇りだと言う。何百年も生きてきて、こんなことを思ったことがなかった。そういうものが存在するとは、魔王時代には想像もしていなかった。


 澪は来ない。


 それだけが、意識の端に引っかかっていた。澪が来ないことを決めたのは俺だ。理由も澪は受け入れてくれた。だが、遠いところで待っているという事実が消えるわけではない。それが弱さになるのか強さになるのかは、明日動いてみなければわからない。


---


 そんな部屋の静寂を破ったのは一つの通知音だった。


 ヴィオラだ。


 「眠れているかしら」


 「まだ眠っていない」


 「そう」


 ヴィオラの間の取り方は、颯とも澪とも違った。長くて、重くて、その沈黙の中に何かが込められているような感覚があった。


 「一つだけ言っていいかしら」


 「どうぞ」


 「明日の施設に、私が以前見たことのある構成員が複数いると思う。その中に一人、特別に気をつけるべき人間がいる」


 *「誰だ」*


 「名前はわからない。ただ——私でも手こずった相手がいた。それだけ覚えておいて」


 「わかった」


 「おやすみなさい」


 「おやすみ」


---


 スマホを机に置いた。


 ヴィオラでも手こずった相手。不死身の人間が手こずるということは、それだけの実力者がいるということだ。名前も異能もわからない。だが、それでも行く。準備できることは全部した。考えるべきことは全部考えた。


 俺がやることは——明日、全力で動くことだ。


 黒剣を取り戻す。全員を無事に連れて帰る。それだけだ。


 ベッドに横になった。天井を見上げた。


 魔王時代の前夜は、いつも一人だった。誰も声をかけてこない。誰かの顔を思い浮かべて眠ることもなかった。ただ夜が明けるのを待って、動き出していた。


 今夜は違う。颯の文字がある。澪の約束がある。ヴィオラの情報がある。全部が、今の俺の中にある。


「まあ」


 誰にも届かない声で、静かに言った。


「なんとかなるだろ」


 目を閉じた。


 夜が続いていた。東の空が明るくなるまで、まだ少し時間があった。

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