第8話「なかなか面白いやつだな」
翌朝、学園中が騒がしかった。
Eランクの無能者が、Bランクトップの三年生を五秒で沈めた。しかも剣一本で、異能を一切使わずに。昨日の放課後に起きたその事実が、一夜明けた今朝には学園全体に広まっていた。
俺が廊下を歩くと、波が引くように人が道を開ける。視線が刺さる。昨日までの「物珍しい無能者」を見る目とは明らかに違った。
畏れ、という感情に近い目だ。
颯が隣を歩きながら上機嫌で言った。
「すごい騒ぎだな。学園始まって以来の事件だってよ」
「大げさだ」
「大げさじゃない。Bランクトップをあの速さで倒した新入生なんて、前例がない。しかも無能者だぞ」
「お前もうるさい」
「褒めてるんだ!」
澪が反対側から静かに割って入った。
「神崎くん、廊下で騒がないでください」
「はい……」
颯が素直に口を閉じた。澪の一言には不思議な抑止力がある。颯でさえ従う。
俺は少し後ろを歩く澪を見た。
今日の澪はいつもと変わらない。整った制服、きっちり束ねた栗色の髪、眼鏡の奥の静かな目。昨日あれだけ感情を見せたのに、今朝はもう完璧に元に戻っている。
律儀な人間だと思った。
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一時限目から三時限目まで、座学が続いた。
異能力学、戦闘法規、学園の歴史。俺は黙って聞いた。この世界の常識を把握するためだ。
授業中、颯は半分居眠りをしていた。澪はノートを取りながら、時折教員に質問を飛ばした。的確な質問だった。教員が「よい着眼点です」と言って、澪は小さく頷いた。褒められても表情を変えない。
城島が前の席から俺を一度だけ振り返った。
昨日のランク戦の話は城島の耳にも入っているだろう。城島は何も言わなかった。ただ少しだけ目を細めて、また前を向いた。
その意味は、まだわからない。
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昼休みになった。
颯は「購買に新しいパン来てるって! 行こうぜ!」と誰かに引っ張られて教室を出ていった。教室が一気に騒がしくなり、俺は静かな場所に移動することにした。
屋上だ。
扉を開けると、先客がいた。
澪が柵にもたれて、弁当を開いていた。
そのそよ風にたなびく綺麗で艶やかな茶色の髪に、可愛いというよりも綺麗が似合う端正な顔立ち。一瞬とはいえ見惚れてしまった。
澪は俺を見て、一瞬だけ目を瞬かせた。それから何事もなかったように視線を弁当に戻した。
「……来たんですか」
「来た」
「どうぞ」
特に歓迎でも拒絶でもない、事務的な言葉だった。俺は澪から少し離れた場所に腰を下ろし、コンビニのおにぎりを取り出した。
しばらく無言だった。
風が吹いた。澪の栗色の髪が揺れた。
「昨日のこと」と澪が言った。
「ああ」
「怒ったりしていません。ただ」澪が少し間を置いた。「びっくりしました。最後、本当に」
「すまなかった」
「昨日も謝っていましたよね」澪が俺を見た。「あなたが謝るの、珍しい気がします」
「配慮が必要な時は謝る」
「そうですか」澪が小さく笑った。「なんか、変な人ですね」
「よく言われる」
「自覚があるなら直してください」
「直す気はない」
澪がため息をついた。だが口元が少し緩んでいた。
俺は澪の弁当を見た。今日も彩りが整っている。玉子焼きの他に、小さなおかずが几帳面に並んでいた。
「今日も自分で作ったのか」
「毎日作ります。一人暮らしなので」
「手間じゃないか」
「手間ですが」澪が少し考えるように言った。「ちゃんと食べないと、ちゃんと動けないので」
真面目な答えだった。いかにも澪らしい。
澪が少し俺の手元を見た。コンビニのおにぎりだ。
「……毎日それですか」
「当分は」
澪がまた少し考えてから、弁当の蓋を取り外した。小皿に玉子焼きを乗せて、俺の方に差し出した。
「どうぞ」
「いいのか」
「昨日謝ってくれたので」
俺は受け取った。
「ありがとう」
「お礼を言われることじゃないです」
昨日も同じことを言っていた。この言葉が澪の癖らしい。照れを隠す時の言葉だと、俺はこの三日間で学んでいた。
玉子焼きを食べた。甘くて、出汁が効いていた。
「うまい」
澪が視線を逸らした。
「……そうですか」
「本当のことを言っている」
「わかってます」
また風が吹いた。
しばらく二人で黙って食べた。屋上は静かだった。遠くで鳥が鳴いている。下の方から、生徒たちの声が微かに届く。
悪くない時間だと思った。
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沈黙を破ったのは澪だった。
「黒瀬くん」
「なんだ」
「一つ、聞いていいですか」
「どうぞ」
澪が弁当の蓋を閉めながら、少しだけ躊躇うように言った。
「怖くないんですか。この学園」
意外な問いだった。俺は澪を見た。
「何が怖い」
「無能者として入学して、周りは全員異能者で、上には城島くんみたいな人もいて……普通は怖いと思うんですが」
「お前は怖いか」
「私は……」澪が少し考えた。「怖いです。正直に言うと」
「何が怖い」
「役に立てなくなることが」
俺は黙って続きを待った。
澪が膝の上で手を組んだ。
「私は無能者です。異能がない。この学園で戦えるのは頭だけです。でも頭だけじゃ、いつか限界が来る。そう思ったら……怖いと感じることがあります」
澪は俺を見た。眼鏡の奥の目が、珍しく揺れていた。
「あなたは怖くないんですか。本当に」
俺は少し考えた。
怖いか。
魔王時代の俺は、恐怖を知らなかった。痛みも疲弊も、死の恐怖も。だから強かった。だが同時に、失うものも何もなかった。
この体になって変わったことがある。怖いとまでは言えないが——無くなったら困ると思うものが、少し増えた気がする。
「俺には怖いという感覚が薄い」と俺は言った。「だが」
「だが?」
「役に立てなくなることを恐れるのは、誰かのために戦いたいからだろう」
澪が目を瞬いた。
「それは弱さじゃない」
しばらく間があった。
澪が視線を空に向けた。青空が広がっている。
「……慰めですか」
「事実を言っている。俺はお世辞を言わない」
「知ってます」澪が小さく笑った。「あなたがお世辞を言う姿、想像できません」
「だろうな」
「……ありがとうございます」
澪の声が、少しだけ柔らかくなっていた。普段の整った声とは違う、素に近い声だ。
俺は何も言わなかった。
澪が立ち上がり、弁当を持った。それから少し迷うように、また口を開いた。
「明日も、ここにいますか」
「たぶん」
「そうですか」
澪は扉に向かった。扉を開けたところで、振り返らずに言った。
「玉子焼き、口に合ってよかったです」
扉が閉まった。
俺は空を見上げた。
弁当を持って屋上に来て、見知らぬ隣人に玉子焼きを差し出す。弱さを打ち明けて、礼を言って、去り際に小さく笑う。
人間というのは、不思議な生き物だ。
俺はおにぎりの二つ目を開けながら、そんなことを思った。
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午後の授業が終わり、教室に戻ると颯がいた。
机に突っ伏している。
「どうした」
「購買のパン、売り切れてた」颯が顔を上げた。「煉はどこ行ってたんだ。飯どこで食った」
「屋上」
「一人で?」
「澪がいた」
颯がぱっと顔を上げた。目が輝いている。
「澪ちゃんと二人で!? 屋上で!?」
「たまたまだ」
「たまたまでも二人は二人だ! どんな話した!?」
「色々」
「色々って何だ、具体的に言え」
「言わない」
「なんで!」
「お前に話す必要がない」
颯が「ちぇ」と言って頬杖をついた。それからにやにやしながら俺を見た。
「でもさ、煉」
「なんだ」
「澪ちゃん、昨日から変わったと思わないか」
俺は颯を見た。
「どう変わった」
「なんか、柔らかくなった気がする。最初はもっとカチカチしてたじゃないか。今は煉と話す時だけ、ちょっとだけ笑うだろ」
俺は何も言わなかった。
「脈ありだと思うぞ」
「余計なことを言うな」
「本当のことだろ!」
俺は颯の頭に手を置いて、軽く押した。
「いたい」
「余計なことを言った罰だ」
「理不尽だ!」
澪が教室に入ってきたのは、ちょうどその時だった。
颯と俺の様子を見て、澪が眉を寄せた。
「何をしているんですか」
「煉にいじめられた」
「いじめていない」
「していた!」
澪がため息をついた。
「二人とも、帰りのホームルームまで静かにしてください」
颯が「はい」と答えた。俺は黙って頷いた。
澪が自分の席に座りながら、小さく呟いた。
「……本当に似た者同士ですね」
「俺たちが?」颯が目を丸くした。「全然違うだろ!」
「傍から見たら同じです」
颯が「心外だ」と言った。俺は何も言わなかった。
窓の外で、夕暮れが校舎を橙色に染め始めていた。
澪が教科書を開いた横顔が、夕日に照らされていた。
昼間と違う、少し柔らかい顔だった。颯が言った通り、最初の日より確かに何かが変わっている。
人間というのは、不思議な生き物だ。
俺はそれを、もう一度思った。
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帰り道、颯が俺の隣を歩きながら言った。
「なあ煉、正直に答えろ」
「何を」
「澪ちゃんのこと、どう思ってる」
俺は少し考えた。
「面白い」
「面白い?」
「強さと弱さが、両方ある。それを隠さずに持っている」
颯がしばらく黙って歩いた。それから「そっか」と言った。
「煉らしい答えだな」
「そうか」
「でも」颯がにやりとした。「それって好きってことじゃないのか」
「うるさい」
「図星だ!」
俺は颯の頭を今度はもう少し強く押した。
「いたい! わかった、もう言わない!」
夜道に颯の叫びが響いた。
俺は前を向いて歩いた。
空には星が出始めていた。
屋上で見た青空と、今の夜空と。
どちらも悪くない、と俺は思った。




