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第75話「神回だな」

椎名の体重を乗せた突進が来た。


 正面からの体当たりだ。


 俺は躱さなかった。


 受けた。


 胸で受け止めた。


 衝撃が全身に来た。


 後退した。三歩。


 だが倒れなかった。


 痛みが来た。


 胸への衝撃の痛みが、脳の処理を占領した。


 食欲の匂いが、完全に意識から消えた。


 気配が、完全に戻った。


「——っ」俺は即座に動いた。


 椎名が体当たりの後の態勢を立て直そうとしていた。


 その一瞬を逃さなかった。


 俺は椎名の右腕を掴んだ。


 引いた。


 椎名の重心が崩れた。


 前傾みになった椎名の脇腹に、左の掌底を打った。


 続けて右の掌底を、胸骨に打った。


 二発。連続で。


 椎名が大きく後退した。膝をついた。


「っ——」椎名が息を整えようとした。


 俺は椎名の前に立った。


 椎名が俺を見上げた。


「まだ来るか」


 椎名がしばらく黙っていた。


 それから、ゆっくりと両手を上げた。


「降参します」椎名が言った。


「痛みは専門分野ではないので」


 椎名がそれにと付け加えた。


「潔く負ける敵ってなんかかっこいいじゃん」


---


 しばらくの沈黙があった。


 椎名が息を整えながら言った。


「体当たりの衝撃で、痛みを意図的に発生させたんですか」


「そうだ」


「俺の体当たりを利用した」椎名が言った。「俺の攻撃を、自分の感覚回復に使われた」


「そうなる」


「完全に逆用された」椎名が言った。「悔しいですが——かっこいい。漫画で言うと敵の攻撃を逆利用して勝つ展開、好きなんですよね。まさかその展開を自分が負ける側でやるとは思いませんでしたが」


「研究が足りなかったのか」


「そうです」椎名が静かに言った。「痛みを意図的に発生させる発想がなかった。それが敗因です」


「研究の方向は正しかった」俺は言った。


「そうですか」


「気配読みを狂わせる発想は正しかった。実際に俺の精度を落とした。あとは痛覚の逆用を想定に入れれば、もっと厄介な相手になっていた」


 椎名がしばらく俺を見た。


「……黒瀬くん、どうして俺に分析を教えてくれるんですか。敵なのに」


「強さへの敬意だ」俺は言った。「お前の能力は本物だ。研究の成果が実戦で機能していた。それは認める」


「冥焔会では馬鹿にされていた俺の研究を」椎名が言った。


「馬鹿にする方がおかしい」俺は静かに言った。「知識を力に変えることは、立派な戦い方だ」


 椎名がしばらく黙っていた。


 それから、ゆっくりと立ち上がった。


「一つだけ聞いていいですか」


「なんだ」


「黒瀬くんは——なんで冥焔会と戦っているんですか。統合されれば、魔王として完全に復活できるのに」


「今の俺の方が、完全な魔王より価値がある」


「なぜですか」


「守るものがあるからだ」俺は静かに言った。「魔王時代には、なかったものだ」


 椎名がしばらく俺を見ていた。


「……そうか」椎名が静かに言った。「俺が冥焔会に入ったのは、強くなりたかったからです。でも——今日負けて、少し考えが変わりました」


「何が変わった」


「強さの方向が違ったかもしれない」椎名が言った。「俺は一人で研究して、一人で強くなろうとしていた。でも黒瀬くんには仲間がいる。それが強さの一部になっている」


「そうかもしれない」


「俺には——いなかった」椎名が静かに言った。「趣味を馬鹿にしない仲間が」


 俺は椎名を見た。


「一つだけ言う」


「なんですか」


「お前の趣味を馬鹿にする人間と一緒にいる必要はない」


 椎名がしばらく俺を見ていた。


「……それは、冥焔会を離れろということですか」


「俺が強制することじゃない。お前が決めることだ」


 椎名が空を見上げた。


「考えます」椎名が言った。「今日負けた理由も含めて」椎名が俺を見た。「一つだけ言っていいですか」


「なんだ」


「今日の戦い——めちゃくちゃ面白かったです。能力バトルとして最高でした」


「そうか」


「黒瀬煉との戦いを、俺は一生忘れないと思います」椎名が言った。「アニメ化したら絶対に神回です」


「アニメ化はされない」


「そうかな」椎名が笑った。「されると思いますけど」


 椎名が歩き出した。


「また会うかもしれません」椎名が振り返らずに言った。「その時は——もっと研究して来ます」


「来い」俺は言った。「待っている」


 椎名の大きな背中が、夜の暗闇に消えた。


---


 颯たちが出てきた。


「終わったか」颯が言った。


「終わった」


「怪我は」


「胸と脇腹に一発ずつもらった。大したことはない」


「さっきのデカい奴、どんな能力だったんだ」颯が言った。


「味覚と嗅覚への過剰刺激で、気配読みを狂わせる能力だ」


 颯が「なんだそれ」と言った。「食べ物系の能力で気配読みを狂わせるのか」


「有効だった。研究されていた」


「食べ物系の能力に本気で研究されていたのか」颯が言った。「なんか、すごい話だな」


「知識を力に変えていた。舐めてかかれる相手じゃなかった」


 澪が「怪我を見せてください」と来た。


「大丈夫だ」


「見せてください」


 俺は澪に胸と脇腹を見せた。


 澪が処置をしながら静かに言った。


「あの人——最後、笑っていましたね」


「そうだったか」


「そうでした」澪が言った。「悪い人ではなさそうでした」


「そうかもしれない」


「また来るかもしれませんね」


「来ると言っていた」


「その時は」澪が俺を見た。


「また戦う」


「また怪我をするんですね」澪がため息をついた。


「努力はする」


「約束にしてください」


「約束だ」


---


 全員が揃った後、倉石が「明日、ヴィオラと会う段取りをつけろ」と言った。


「わかった」


「冥焔会が動き始めた。急ぐ必要がある」


「そうだな」


「椎名という男のことも、冥焔会に報告が入る。次に来る相手はもっと強い可能性がある」


「わかっている」


「黒瀬」倉石が静かに言った。「急ぎつつ、慌てるな。それだけだ」


「わかりました」


---


 夜の道を一人で歩いた。


 胸と脇腹が少し痛かった。


 椎名の一撃は重かった。


 だが——悪い戦いではなかった。


 漫画とアニメから学んだ知識を、実戦の能力に変えた男。


 馬鹿にされていた研究を、本物の力に昇華していた。


 その研究は、確かに俺の気配読みを鈍らせた。


「まあ」


 俺は空を見上げた。


「なんとかなるだろ」


 夜の街に、独り言が溶けた。

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