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第74話「数百年の経験」

 俺は立ち止まって、考えた。


 気配を読む精度が落ちている。


 呼吸が浅くなっている。


 頭の処理速度が、わずかに遅くなっている。


 原因は全て、味覚と嗅覚への過剰刺激だ。


 椎名の能力を無効化するには——脳への刺激を遮断するか、脳がその刺激を処理しないようにするか。


 遮断する手段はない。異能もない。


 では——処理しないようにする。


 どうやって。


 俺は目を閉じた。


「目を閉じた」椎名が言った。「なぜですか」


 俺は答えなかった。


 目を閉じた状態で、意識を集中した。


 味覚と嗅覚への刺激は来ている。


 甘さも、腐敗臭も、脳に届いている。


 だが——魔王時代、俺は何百年も戦場にいた。


 戦場には様々な匂いがあった。血の匂い。炎の匂い。腐敗した匂い。


 それらに慣れるために——感覚を制限して動く訓練を、何百回も繰り返した。


 特定の感覚を意図的に切り離す。


 それは——できる。


 俺は味覚と嗅覚への意識を、極限まで下げた。


 感覚が来ている。


 だが処理しない。


 脳に情報は届く。だが、その情報を意識の表面に上げない。


 甘さが遠くなった。


 腐敗臭が遠くなった。


---


 目を開いた。


 気配が、戻っていた。


 完全ではない。だが——七割から九割に戻った。


「あれ」椎名が言った。「回復した?」


「少し」


「なんで」椎名が言った。「味覚と嗅覚への刺激は継続しています。それなのになぜ」


「感覚を切り離した」


「感覚を?」椎名が目を見開いた。「意識的に感覚情報を遮断したということですか」


「完全な遮断ではない。処理を後回しにしている感覚に近い」


「そんなことができるのか」椎名が言った。「普通の人間には不可能なはずです。脳は無意識に感覚情報を処理するので」


「数百年の戦場で慣れた」


椎名がしばらく俺を見た。


「……そうか」椎名が静かに言った。「数百年分の経験か。それは俺の計算外でした」


「そうだな」


「でも」椎名が言った。「完全な遮断じゃないでしょ」


「そうだ」


「ということは——出力をさらに上げれば、処理しきれなくなる」


「そうかもしれない」


「正直ですね、本当に」椎名が言った。「好きですよ、そういうの。漫画で弱点を正直に認めながら戦うキャラ、かっこいいじゃないですか」


「お前は戦いながら喋るな」


「これが俺のスタイルなので」


---

 椎名が一歩踏み出した瞬間、地面がわずかに沈んだ。


 その巨体に似合わない速さで距離が詰まる。振り下ろされた掌は、ただの打撃ではない。空気が震え、甘ったるい匂いが一瞬だけ漂う。


 煉は身を引く。頬をかすめた風圧だけで皮膚が粟立つ。


「今の、避ける? いいねぇ……“序盤の意外性”ってやつ」


 椎名は笑いながら、口の中で何かを転がすように舌を動かす。


「――しょっぱいのは、防御。甘いのは、加速。苦味は、崩し」


 次の瞬間、踏み込みが変わった。


 さっきよりも明らかに速い。いや、“軽い”。体重を感じさせない移動で懐に入り、横薙ぎの一撃。黒瀬は腕で受けるが、衝撃が芯まで届き、骨が軋む。


 押し返される前に、足を滑らせて距離を取る。


 ――ただのパワーじゃない。


 リズムがある。まるで、味を“組み立てている”。


 椎名は楽しそうに息を吐く。


「今のはね、甘味ベースのスピード強化からの塩で締める一撃。アニメだとさ、“一段階上がった感じ”のやつ」


 再び、何かを口に放り込む。


 今度は顔つきがわずかに変わる。眉が下がり、目が細くなる。


「……ちょっと苦めでいこうか」


 踏み込みが鈍重になる――ように見えた。


 だが次の瞬間、軌道が歪む。重い一撃が来ると見せかけて、途中で角度が変わり、内側からえぐるように拳が突き出された。


 黒瀬は半歩遅れる。


 脇腹に衝撃。息が詰まり、視界が揺れる。


「“予想を裏切る展開”! いいでしょ、こういうの!」


 椎名の声が弾む。完全に、戦いを“演出”として楽しんでいる。


 煉は息を整えながら、足を踏みしめる。


 ――味覚で、身体の状態と動きを変えている。


 甘味で軽く、塩で締め、苦味で崩す。

 なら、その“流れ”を断てばいい。


 踏み込む。


 今度は黒瀬からだ。一直線。迷いのない最短距離。


「お、来る? いいねいいね、“主人公の反撃パート”!」


 椎名が迎え撃つように腕を広げる。


 だが、煉は止まらない。


 一歩目、加速。

 二歩目、さらに踏み込む。


 三歩目で――わずかに軌道を外す。


 拳が空を切る。そのまま体を滑らせ、椎名の側面へ。


「……っ」


 初めて、椎名の表情が揺れる。


 煉の拳が、脇腹に沈む。柔らかい肉の奥に、確かな手応え。


 だが、止まらない。


 反撃の掌が振り下ろされる。黒瀬はそれを肩で受け、踏み込んだまま二撃目を打ち込む。三撃目、四撃目。


 重さでは勝てない。なら、連打で削る。


「くっ……いいじゃん、それ!」


 椎名が後退しながら、再び何かを噛む。


 今度は、表情が一変した。


 目が見開かれ、口元が吊り上がる。


「これだよ……“クライマックスの味”!」


 踏み込みが爆発的に速くなる。


 さっきまでとは別物。重さも速さも、段違い。黒瀬の視界から一瞬で消え、次の瞬間には眼前。


 防御が間に合わない。


 拳が顔面を捉え、体が浮く。地面に叩きつけられ、衝撃が全身を走る。


 それでも、煉はすぐに起き上がる。


 息は荒い。だが、目は死んでいない。


「まだ立つかぁ……最高だね、“主人公が食い下がる展開”!」


 椎名が笑う。


 煉は何も言わない。ただ、再び構える。


 そして――踏み込む。


 今度は真正面から。


 速さでも、力でも劣る。それでも、真正面。


 椎名も応じる。互いの拳が、同時に振り抜かれる。


 衝突。


 鈍い音が響く。


 煉の拳が顔面に入り、同時に椎名の一撃が肩を砕くように叩く。


 距離がゼロになる。


 もう、技も流れも関係ない。ただの殴り合い。


 一発。

 二発。

 三発。


 互いに受け、互いに返す。


 呼吸が乱れ、足が鈍る。それでも止まらない。


 椎名の動きが、わずかにぶれる。


 味の“流れ”が崩れ始めている。


 黒瀬はそこを逃さない。


 一歩、深く踏み込む。


 全身を使って、最後の一撃を叩き込む――


 鈍い衝撃が響き、椎名の体が大きく揺れた。


 だが同時に、黒瀬の視界も傾く。


 互いに限界。


 それでも、まだ倒れない。


 静かな空間の中で、荒い呼吸だけが交錯する。


 次の一歩で、決まる。


 そんな予感だけが、その場に張り付いていた。


---


 俺は考えた。


 食欲の匂いへの対策が必要だ。


 感覚の後回し処理では、報酬系への刺激は完全に抑えられない。


 ならば——別のアプローチが必要だ。


 痛みだ。


 痛覚への刺激は、他の感覚の処理を圧迫する。


 逆利用できる。


 俺は左手の親指の爪を、右の掌に強く押し当てた。


 鋭い痛みが走った。


 脳が痛覚の処理を優先した。


 食欲の匂いへの意識が、わずかに遠のいた。


「何をしているんですか」椎名が言った。


「痛みで食欲の匂いへの意識を押し出した」


「痛覚を意図的に発生させた?」椎名が言った。「脳が痛みを優先処理するから、味覚と嗅覚への意識が薄れる、ということか」


「そうだ」


「それも計算外でした」椎名が言った。「痛みで感覚を上書きする発想は、俺の研究になかった」


「戦場で覚えた」


「数百年の経験か」椎名が言った。「やっぱり規格外だ。でも——痛みは持続できない。強い痛みを維持すれば、体への負担になる」


「そうだな」


「だから」椎名が全力で踏み込んだ。「今のうちに決める」

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