第73話「五感への干渉」
翌日の朝だった。
颯のアパートに全員が集まった。
颯、城島、澪、里中。それと倉石も来ていた。
昨夜のうちに、全員に連絡を入れていた。
話し合いが終わった頃だった。
颯のアパートのドアが、強い力で吹き飛んだ。
扉が室内に飛んできた。
俺は即座に前に出た。体で扉を受け止めた。
衝撃が走った。だが倒れなかった。
廊下に、人影が一つあった。
冥焔会の黒い制服を着ていた。
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人影を見た。
大柄だった。
身長は俺より頭一つ高い。体格もいい。だが鍛えた筋肉ではなく、全体的にずんぐりとした体型だ。
年齢は二十代前半だろうか。
顔立ちは悪くない。だが目つきが独特だった。
キョロキョロと動く目だ。落ち着きがない。
制服の胸元に、アニメのキャラクターのバッジが複数ついていた。
鞄にはアニメのキーホルダーが大量についていた。
俺を見た瞬間、その目が輝いた。
「黒瀬煉だ。本物だ」男が言った。「強者との対峙シーン、最高すぎる。これ絶対アニメ化した時の神回じゃないですか」
颯が「何を言っているんだ」と小声で言った。
「連行しに来たんじゃないのか」俺は言った。
「そうですよ」男が言った。「でも強者と戦える機会でもある。そういう展開、大好きなんですよね。強敵と主人公が一対一で戦うやつ」
「お前が主人公のつもりか」
「そうです」男が胸を張った。「俺、椎名大輝。冥焔会所属、異能者です。趣味は漫画とアニメ鑑賞、あと美食。好きなジャンルは異能バトルものです」
「自己紹介をしに来たのか」
「戦う前に名乗るのは基本でしょ」椎名が言った。「漫画でもそうじゃないですか。名乗らずに戦うのはかっこ悪い」
颯が「こいつ、なんか変だぞ」と小声で言った。
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倉石が「黒瀬、一人でいいか」と聞いた。
「一人でいい」俺は言った。「颯、澪と里中と倉石先生を頼む」
「わかった」颯が頷いた。「でも——こいつ、大丈夫か」
「強い」俺は静かに言った。「気配がある。舐めてかかれる相手じゃない」
椎名がその言葉を聞いて、顔を輝かせた。
「わかってくれますか。俺、強いんですよ。でも誰にもわかってもらえなくて。冥焔会でも評価が低くて」椎名が言った。「黒瀬煉に強いって言ってもらえるなら、今日来た甲斐がありましたよ」
「場所を変える」俺は言った。「ここでやれば周囲に被害が出る」
「わかりました」椎名が頷いた。「センス、ありますね。戦う前に場所の確認、漫画の主人公みたいで好きです」
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アパートの裏の空き地に出た。
夜だった。
街灯が一つだけ灯っていた。
椎名が俺の前に立った。
空き地の中央で、俺と椎名が向かい合った。
「一つ聞く」俺は言った。「お前の異能は何だ」
椎名が嬉しそうな顔をした。
「聞いてくれましたか。ありがとうございます。能力の説明シーン、好きなんですよね」椎名が言った。「俺の異能は——味覚操作です」
「味覚操作」
「そうです」椎名が続けた。「正確には五感の一部である味覚と嗅覚を、相手の脳に直接干渉して操作する能力です。相手に何かを食べさせる必要はない。気配の範囲内に入れば、脳の感覚野に直接作用します」
「五感への干渉か」
「味覚と嗅覚だけです」椎名が言った。「視覚と聴覚と触覚は操作できません。でも——この二つがあれば、十分なんですよね」
「なぜだ」
「試してもらえれば分かります」椎名が微笑んだ。「俺、この能力のこと馬鹿にされることが多くて。弱そうって言われて。でも実際に戦ったやつは全員、同じ言葉を言うんですよ」
「どんな言葉だ」
「これが一番強い能力だって」椎名が静かに言った。「今まで漫画とアニメで学んだ全ての知識を、この能力に込めました。負けるつもりはないです」
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椎名が異能を発動した。
何も起きなかった。
俺は椎名を見た。
発動したはずだ。気配が動いた。
だが何も——
急に、口の中に味がした。
強烈な甘さだった。
砂糖を何十倍にも濃縮したような、圧倒的な甘さが口の中に広がった。
同時に鼻に、香りが来た。
焦げたような、甘いような、複雑な匂いだ。
俺は止まった。
「どうですか」椎名が言った。「口の中に何か感じますか」
「甘い」俺は言った。
「そうです」椎名が続けた。「俺が直接あなたの脳の味覚野に、過剰な甘さを送り込んでいます。本当に何かを食べているわけじゃない。でも脳はそれを本物として処理する」
「それだけなら大した問題ではない」
「そうですね」椎名が笑った。「甘いだけなら問題ない。でも——人間の脳は面白くて、味覚と嗅覚への過剰な刺激が続くと、他の感覚の処理能力が落ちるんですよ」
俺は椎名の言葉の意味を、即座に理解した。
まずい。
これは——単純な味覚操作ではない。
味覚と嗅覚への過剰刺激で、脳の処理能力を圧迫する。
その結果——気配を読む精度が落ちる。
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椎名が動いた。
踏み込んできた。
右の拳が来た。
俺は躱した。
だが——わずかにずれた。
肩を掠めた。
「掠りましたね」椎名が言った。「感覚が少し鈍くなってきたでしょ」
「そうだな」
「正直に言ってくれる」椎名が嬉しそうに言った。「好きですよ、そういうキャラ。漫画で言うと——無口な実力者タイプ。黒瀬くん、完全にそれですよね」
「戦いながら喋れるのか、動けるデブか」
「挑発的ですねー、まあ、余裕があるうちは」椎名が言った。「でも俺、口が動く時の方が能力の精度が上がるんですよ。気が散らないんで」
「変な奴だな」
「よく言われます」椎名が笑った。
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椎名が出力を上げた。
口の中の甘さが倍になった。
鼻腔に充満する匂いが変わった。
今度は腐敗臭に近い、強烈に不快な匂いだった。
甘さと腐敗臭が混在した。
俺の頭が、わずかに揺れた。
これは——強い。
味覚と嗅覚への同時過剰刺激。
甘さと不快臭の組み合わせは、脳への負荷が単独よりはるかに高い。
気配を読もうとした。
読める。だが、精度が落ちていた。
いつもの七割程度だ。
「気配読みが鈍くなってきましたね」椎名が言った。「俺、相手がどのくらい感覚を失っているか、なんとなくわかるんですよ。長年の研究の成果です」
「研究?」
「漫画やアニメの能力って、必ず弱点があるじゃないですか」椎名が言った。「俺の能力の弱点を自分で分析して、それを逆用する方法を考えました。で、弱点のないバリエーションを作りました」
「どういう意味だ」
「例えばさっきの腐敗臭」椎名が続けた。「不快な匂いだけを送ると、相手は無意識に呼吸を浅くする。浅い呼吸は体の酸素効率を落とす。甘さと組み合わせると、脳への酸素供給が微妙に減る」
「詳細に設計されているな」
「趣味で培った知識を全部使いましたから」椎名が言った。「漫画の能力バトルって、知識がないと勝てないんですよ。能力の相性と弱点の分析。俺、それが得意で」
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椎名が再び踏み込んだ。
今度は速かった。
さっきより明らかに速い。
俺は体を傾けた。
だが反応が、また遅れた。
右脇腹に、椎名の拳が入った。
重かった。
体格の差がある。椎名は大柄だ。その体重が乗った一撃は、見た目より重い。
俺は二歩よろめいた。
「当たりました」椎名が言った。「感覚が落ちてきた証拠です。通常の黒瀬くんには当たらないと思っていたので」
「そうだな」俺は体勢を立て直した。「一発もらった」
「正直ですね」椎名が笑った。「俺、黒瀬くんのこと好きですよ。嘘をつかないタイプ、漫画の主人公に多くて好きなんです」
「お世辞はいらない」
「お世辞じゃないです。本当に好きなキャラクタータイプです」椎名が真剣な顔で言った。「だからこそ全力でいきます。手を抜いた相手に勝っても意味がないので」




