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第68話「新しく光る影」

 次の瞬間、敵の指が地面を掴み、そのまま無理やり体を引き起こす。関節が軋み、筋肉が悲鳴を上げているのが、見ているだけで分かる。


「……まだ、終わってない」


 低く、擦れた声。


 主人公は構え直す。だが同時に理解していた。自分の体も限界に近い。呼吸は浅く、視界の端が暗い。


 それでも――踏み込む。


 ほぼ同時に、二人は動いた。


 先ほどまでとは違う。速さも、力も落ちている。だが、その分だけ一撃一撃が重い。無駄が削ぎ落とされ、純粋な“当て合い”に変わっていた。


 拳が交差する。


 一発。頬に入る。

 二発。腹に沈む。

 三発。肩を打つ。


 互いに避けきれない。避けない。

 ただ、前に出る。


 敵の拳が顔面を捉え、視界が白く弾ける。だが同時に、主人公の拳も相手の肋を打ち抜く。


 距離が、ゼロになる。


 呼吸が混ざるほどの至近距離で、最後の一撃を振りかぶる――


「……そこまでだ!」


 鋭い声が割り込んだ。


 次の瞬間、二人の間に数人の影が割って入る。腕を掴まれ、強制的に引き剥がされる。


「これ以上は危険だ! 両者とも戦闘停止!」


 抵抗しようとした腕に、力が入らない。敵も同じだった。互いに睨み合ったまま、しかしもう一歩も踏み出せない。


 荒い呼吸だけが、その場に残る。


「……判定に移行する」


 淡々とした声が告げる。


 数秒の静寂。やがて、結果が下された。


「有効打数――僅差により、勝者……高坂」


 その言葉は、妙に静かに響いた。


 煉は何も言わない。ただ、ゆっくりと拳を握りしめる。痛みよりも先に、悔しさが込み上げる。


 あと一歩。

 たった一撃。


 それが届かなかった。


 視線を上げると、敵もこちらを見ていた。勝者であるはずのその目に、余裕はない。むしろ、同じように限界まで削り合った者だけが持つ、張り詰めた光が宿っている。


「……次は」


 かすれた声が、わずかに漏れる。


 言葉にはならなかったが、それで十分だった。


 勝負は終わった。

 だが――決着は、まだ先にある。

---


 高坂が俺に近づいてきた。


「負けたな、黒瀬」


「そうだな」


「悔しくないのか」


「悔しい」


「珍しいな、素直に言うんだな」


「事実だから言う」俺は言った。「黒剣があれば違う結果になっていた。だから悔しい」


「だろうな」高坂が頷いた。「黒剣を取り戻せ。そしてもう一度戦おう」


「そうする」


「約束だ」高坂が手を差し出した。


 俺は握った。


「約束だ」


---


 試合後、城島が来た。


「お疲れ様でした」


「負けた」


「見ていました」城島が静かに言った。「黒剣があれば、違う展開でしたね」


「そうだ。だがそれは言い訳だ」


「言い訳ではないと思います」城島が言った。「現状の確認になりましたよね。黒剣なしの限界が、少し見えた」


「そうだな」俺は右肩を動かした。「高坂の一撃を受けた。速度を極限まで上げられると、完全には躱せなくなる。それが今の俺の限界だ」


「ならば——黒剣を取り戻した後、その限界が変わりますね」


「そうだ」


「楽しみです」城島が言った。「黒剣ありの黒瀬くんが、高坂くんと戦う場面が」


---


 控室に戻ろうとした時だった。


 廊下の端に、人が立っていた。


 女性だった。


 俺と同年代に見えた。


 銀色の髪をしていた。長い髪が肩の下まで伸びていた。


 服装が独特だった。制服ではない。黒を基調とした、動きやすそうな服だ。


 俺を見ていた。


 ただ、立って、俺を見ていた。


 気配があった。


 強い気配だった。


 橘将望とは違う種類の気配だ。橘は底が見えない薄さだった。


 この女性の気配は——深い。


 深く、静かで、重い。


 だが威圧感ではない。


 剣のような気配だった。


 研ぎ澄まされた、静かな刃のような。


---


 女性が口を開いた。


「久しぶりね」


 俺は止まった。


「……知り合いか」


「あなたは私を知らないでしょうね」女性が静かに言った。「でも私はあなたを知っている。ずっと前から」


「名前は」


「ヴィオラ」女性が言った。「それだけ覚えていればいい」


「ヴィオラ」


「そう」ヴィオラが俺を見た。「黒瀬煉——いいえ」ヴィオラが少し間を置いた。「ヴァルゼイド。あなたのことは、魔王時代から知っている」


---


 静寂があった。


 城島が息を呑んだのが、隣で聞こえた。


 俺はヴィオラを見た。


 ヴィオラが俺を見ていた。


 その目に、感情があった。


 懐かしさとも、悲しさとも、違う何かだ。


 俺には読めなかった。


「魔王時代を知っているということは」俺は静かに言った。


「そうよ」ヴィオラが言った。「私はあの時代を、直接見ていた」


「何者だ」


「今は——交流戦の観戦者」ヴィオラが少し笑った。「でも話したいことがある。今日じゃなくていい。あなたが準備できた時に」


「何の話だ」


「魔王時代のこと」ヴィオラが静かに言った。「あなたが知らないこと。私だけが知っていること」


「俺が知らないこと?」


「そう」ヴィオラが踵を返した。「また会いましょう。黒瀬煉」


 廊下を歩き出した。


「待て」俺は言った。


 ヴィオラが止まった。振り返らなかった。


「一つだけ聞く」


「なんかしら」


「お前は——敵か」


 しばらく沈黙があった。


 ヴィオラがゆっくりと振り返った。


「違う」ヴィオラが静かに言った。「少なくとも今は」


「今は、か」


「それ以上は今は言えない」ヴィオラが言った。「でも——あなたの敵ではない。それだけは本当よ」


 ヴィオラが歩き出した。


 廊下の角を曲がった。


 消えた。


---


 城島が「今の人は」と言った。


「わからない」


「魔王時代を知っていると言った。どういう人物なんですか」


「わからない」俺は繰り返した。「だが——嘘をついている様子はなかった」


「気配は感じましたか」


「感じた」俺は静かに言った。「強い気配だった。剣のような気配だ」


「剣のような」


「研ぎ澄まされていた。橘将望とは違う種類の強さだ」


 城島がしばらく考えた。


「倉石先生に話すべきですね」


「そうだな」


「封印の記録に、何か手がかりがあるかもしれません」


「そうだな」


 俺は廊下の角を見た。


 ヴィオラが消えた方向だ。


 魔王時代から知っている。


 俺が知らないことを、知っている。


 何者なのか。


 何を知っているのか。


 それが——どうしても気になった。


---


 会場を出て、城島と二人で電車に乗った。


 帰りの車内で、城島が言った。


「黒瀬くん」


「なんだ」


「今日——二つのことが起きましたね」


「そうだな」


「高坂くんとの試合で現状の限界が見えたこと。そしてヴィオラという人物と出会ったこと」


「そうだ」


「どちらが気になりますか」


 俺は少し考えた。


「ヴィオラだ」


「なぜですか」


「高坂との試合は——黒剣を取り戻せば答えが変わる。だがヴィオラは——黒剣とは関係なく、答えが必要な問いだ」


「俺が知らないことを知っている、ということですね」城島が静かに言った。


「そうだ」


「怖くないですか」


「怖い」俺は言った。


「珍しいですね。怖いと言うのが続いていますね」


「本当のことだから言う」


「そうですね」城島が窓の外を見た。「私は——ヴィオラという人物が、あなたにとっていい存在であることを願っています」


「なぜだ」


「あなたの過去を知っている人間が、敵ではないといいと思うから」城島が静かに言った。「あなたの魔王時代のことを話せる相手が増えるなら——それはあなたにとって、いいことだと思います」


 俺は城島を見た。


「城島」


「なんですか」


「お前はいつも、俺のことを考えてくれているな」


「当然です」城島が微かに笑った。「あなたが黒瀬煉であり続けるために、私にできることをしたい。それだけです」


---


 帰宅して、澪にメッセージを送った。


 「交流戦、終わった」


 すぐに返ってきた。


 「お疲れ様でした。結果は?」


 「高坂に負けた」


 少し間があった。


 「そうですか」


 「悔しいですか」


 「悔しい」


 「それでいいです」


 「悔しいと思えることが、次に繋がります」


 俺は少し考えてから返した。


 「もう一つ、話がある」


 「なんですか」


 「ヴィオラという人物と出会った。魔王時代を知っていると言っていた」


 しばらく間があった。


 「……明日、話を聞かせてください」


 「わかった」


 「もう一つだけ」


 「なんだ」


 「怪我はないです」


 「右肩を打った。軽い打撲だ」


 また間があった。


 「明日、見せてください」


 「大丈夫だ」


 「見せてください」


 「わかった」


 「おやすみなさい」


 「おやすみ」


---


 スマホを置いた。


 窓の外を見た。


 夜の街が広がっていた。


 今日——二つのことが起きた。


 高坂との試合で現状の限界を確認した。


 ヴィオラという謎の人物と出会った。


 黒剣はまだない。


 冥焔会はまだそこにある。


 ヴィオラは何を知っているのか。


 全部、まだわからない。


「まあ」


 俺は目を閉じた。


「なんとかなるだろ」


 夜の部屋に、独り言が落ちた。

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