第4話「上級異能者の本気と、二週間の地獄」
翌朝、颯は約束通り現れた。
朝の六時に、アパートのドアを思い切り叩いて。
「煉! 起きてるか! 手合わせしようぜ!」
俺はすでに起きていた。夜明け前から体を動かしていた。この体の筋肉の動かし方、骨格の癖、呼吸のリズム。全部を把握し直す作業だ。魔王時代とは全く違う体だ。丁寧に確認しなければならない。
ドアを開けると、颯が全身運動着姿で立っていた。手には菓子パンが二つ。
「朝飯、奢ってやる」
「いらない」
「食え。体動かすんだろ」
押しつけられた。俺は仕方なく受け取って一口齧った。甘い。魔王時代には存在しなかった味だ。
「どこでやる」
「学園の近くに公園がある。広いし朝は誰もいない」
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公園は颯の言う通り広かった。木々に囲まれた草地が広がり、朝靄の中に静けさが満ちている。魔王時代の修練場を思い出した。あちらは岩と血の臭いしかなかったが。
颯が草地の中央に立った。俺はその対面に立つ。距離は十メートルほど。
「ルールは?」
「降参か戦闘不能で終わり。加減はするが、本気の動きは見せる」
「了解。俺も本気でいくぞ」
「構わない」
颯が両手を広げた。その瞬間、颯の周囲の空気が歪んだ。
風だ。
いや、正確には違う。颯の体から放出される異能が、周囲の空気を巻き込んで渦を作っている。落ち葉が舞い上がり、草がなぎ倒されていく。
「俺の異能は『嵐操作』だ」
颯の声が、風の音に混じって届いた。
「風だけじゃない。気圧、湿度、温度、全部操れる。範囲内なら天候そのものが俺の武器になる」
なるほど。だから上級異能者の中でも、出力値が飛び抜けていた。範囲型の異能は制御が難しい分、使いこなせれば圧倒的な制圧力を持つ。
「来い」
俺は黒剣を抜いた。
颯が右手を振り下ろした。
突風が来た。正面からではなく、三方向から同時に。左、右、正面。気流を複数操って挟み込む戦術だ。受ければ吹き飛ぶ。
俺は地面を蹴って真上に跳んだ。
三つの気流が足元でぶつかり合い、爆発的な乱気流を生んだ。俺はその乱気流に乗って、さらに高く跳ね上がった。
「上か!」
颯が見上げた。俺はすでに落下しながら剣を構えていた。
颯が上空に向けて気流の壁を作った。俺はそれを剣で切り裂いた。
黒剣ヴァルムは、ただの剣ではない。魔王時代から俺と共にあったこの剣は、異能すら断ち切る特殊な性質を持っている。気流の壁が左右に割れ、俺はそのまま颯との間合いを詰めた。
「っ、嘘だろ! 気流を切った!?」
颯が後退しながら足元に竜巻を生成した。防御用だ。俺の踏み込みを弾こうとする。
俺は竜巻の外縁を沿うように回り込んだ。竜巻は強力だが、中心から離れるほど威力が落ちる。外縁を走れば、吹き飛ばされるほどの力はない。
颯の横に滑り込み、剣の腹を首筋に当てた。
静止。
朝靄の中、二人分の息が白く混じった。
颯がゆっくりと両手を上げた。
「……参った」
降参の言葉だった。だが颯の顔は、負けた顔じゃなかった。目が輝いている。
「すげえ! 気流を切るって何!? あの剣、何でできてんの!?」
「企業秘密だ」
「ケチ! でもまあいい! お前、やっぱり最高だ!」
颯がけらけら笑いながら草の上に大の字で倒れた。
「俺、負けたの久しぶりだ。同年代じゃほとんど負けたことなかったのに」
「それは相手が弱かっただけだ。お前の異能は本物だ」
颯が起き上がって俺を見た。
「褒めてるのか?」
「事実を言っている。範囲制圧型の異能をあそこまで精密に操れるなら、使い方次第で覇級も狙える」
颯がぽかんとした。それから照れたように頭を掻いた。
「……お前、たまにすげえこと言うな」
「たまにじゃない。いつも本当のことしか言わない」
「それ、お世辞を言えないってことじゃないか」
「そうだ」
颯がまた笑った。今日一番大きな笑い声だった。
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手合わせが終わった後、俺は颯に頼み事をした。
「この辺で、人気のない広い場所を教えてくれ。毎日使いたい」
「トレーニングか?」
「ああ。入学まで二週間ある。この体を仕上げたい」
颯が顎に手を当てて考えた。
「学園の裏山に廃墟の訓練場がある。昔使われてたやつで、今は誰も管理してない。広さは十分だと思うが……お前一人でやるのか?」
「そのつもりだ」
「俺も混ぜろ」
「断る」
「なんでだよ!」
「お前は俺のペースについてこれない」
颯が唇を尖らせた。
「それ、どういう意味だ。俺だって上級異能者だぞ」
「わかってる。だから言っている」
颯がしばらく俺を見ていた。それから何かを察したように、静かに頷いた。
「……わかった。場所だけ教える。ただし、俺も別で毎日そっちに行く。お前の隣で勝手にトレーニングする。それはいいか」
「好きにしろ」
「やった」
全く、この男は。
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廃墟の訓練場は、颯の言う通り広かった。
雑草が生い茂り、壁は苔むしている。的として使えそうな柱が何本も残っていた。人の気配はまったくない。
俺はその日から、毎朝夜明けと同時にここへ来た。
まず走る。この体の心肺機能を把握するためだ。山道を往復して、限界点を確認する。次に体幹。人間の体は魔王の体と違い、体の軸がぶれやすい。土台を固めなければ剣は振れない。それから素振り。一万回。颯が「一万!?」と叫んだが、俺には少ないくらいだ。
颯は最初の三日は隣で同じメニューをこなそうとしていた。四日目の朝、訓練場に来た颯は足を引きずっていた。
「……お前、鬼か」
「言っただろ、ついてこれないと」
「でも俺、来る。毎日来る」
颯は筋肉痛で悲鳴を上げながら、それでも毎朝来た。俺のメニューは諦めて、自分なりの異能訓練をしていた。
馬鹿がつくほど真面目な男だった。
五日目の朝、颯が訓練の合間に聞いてきた。
「なあ煉、お前って怒るのか?」
「何に対して」
「なんでもいい。怒ったとこ、見たことないから」
俺は素振りの手を止めた。
「怒ることが少ない」
「なんで」
「大抵のことは、どうにでもなるから」
「どうにでも……」颯が首を傾げた。「でも昨日、試験官の倉石さんが無能者を学園に入れるなんて前代未聞だって文句言ってる上の人たちと話してたらしいぞ。お前のこと」
「知ってる」
「知ってて怒らないのか」
「連中が文句を言う権利はある。無能者が入学するのは確かに前例がない。だが俺が合格した事実も変わらない」
颯がしばらく黙った。
「……お前、強いな。剣だけじゃなくて」
「買いかぶりだ」
「褒めてる」
「知ってる」
颯がまた笑った。俺は素振りを再開した。
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七日目の夜、アパートの部屋で一人になった時、俺は黒剣を鞘から抜いて眺めた。
黒い刀身が、月明かりを吸い込んで光る。
この剣は知っている。俺が魔王として何千の戦場を渡ってきたかを。何万の敵を斬り、何人の強者と刃を交えたかを。
そして——俺が負けた日のことも。
勇者の顔を思い出そうとした。だが不思議と、顔が霞む。名前も曖昧だ。数百年という時間が、細部を削り取ってしまったらしい。
覚えているのは、光の封印が展開した瞬間の感覚だけだ。
そしてあの時の、自分の問いだけだ。
――人間だったら、もっと戦えたのか。
「今のところ、答えは出ていない」
俺は剣に向かって呟いた。
剣は答えない。ただ黒く光るだけだ。
二週間後、俺は覇凰学園に入る。無能者として、底辺から。
頂点がどこにあるのか、まだ見えない。だが確かに、そこに向かっている感覚はある。
「まあ、なんとかなるだろ」
窓の外で、夜風が木々を揺らした。
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入学前日の夜、颯からメッセージが届いた。
「明日、同じクラスだといいな。ちなみに俺、入学式で総代スピーチ頼まれた。緊張する」
俺は少し考えてから返信した。
「お前が緊張するところを俺は想像できない」
すぐに返事が来た。
「だよな! やっぱ緊張しないや! ありがとう!!」
なぜ礼を言われたのかわからない。
だが俺は、珍しく少しだけ笑った。
二週間の地獄が終わる。
明日から、覇凰学園だ。




