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第38話「最後の詠唱」

 橘が歩いてきた。


 俺は立っていた。だが体が、限界に近かった。


 背中の衝撃で肋骨に何かが走っていた。左足が正常に動かなかった。右肩の古傷が開いていた。


 颯の嵐操作は続いていた。橘の観測は落ちている。だが俺の体が先に限界を迎えようとしていた。


 橘が止まった。


 俺を見た。


「黒瀬くん」橘が静かに言った。「そろそろ終わりにしようか」


「まだだ」


「体が限界だよ」橘が言った。「立ってるのが精一杯でしょ」


「まだ動ける」


「動けないよ」橘が言った。「見ればわかる」


 橘が右手を持ち上げた。


 全力だった。


 前回のフォトン・シンギュラリティのような規模ではない。だが——今の俺の体に受けさせるには、十分な威力だった。


 俺は動こうとした。


 足が、動かなかった。


「煉っ——!」颯が叫んだ。


 その時だった。


---


 城島が俺の前に出た。


 どこから来たのかわからなかった。


 能力を使って光速できたに違いない。


 後方に下がっていたはずの城島が、気づいた時には俺の前にいた。


 光理支配が発動していた。


 城島の全身が光を纏い、橘の攻撃を受け止めようとした。


「城島——!」


 声が出た。


 だが間に合わなかった。


 橘の攻撃が、城島に直撃した。


 鈍い音がした。


 後にちょうど1人の人間が力なく倒れたときのような音がした。同時に、、、


 城島の体が、前に吹き飛んだのではなく——折れるように崩れた。


 光理支配が、強制的に解除された。


 城島が地面に倒れた。


 動かなかった。


---


 静寂があった。


 颯が「城島先輩っ——!!」と叫んだ。


 澪が動いた。城島に向かって走った。


「城島、蓮」澪が城島の傍に膝をついた。「城島くん——っ」


 俺は城島を見ていた。


 動いていない。


 城島が——動いていない。


 橘が俺を見た。


 その目が、初めて変わっていた。


 笑っていなかった。


「……予想外だった」橘が静かに言った。「彼が出てくるとは思わなかった」


 俺は何も言えなかった。


 城島が動かない。


 光理支配が消えた体が、訓練場の地面に横たわっていた。


「黒瀬くん」橘が言った。「これで終わりにしよう。今日は——思ったより色々起きたし」


 俺は橘を見た。


 何かが、俺の中で動いた。


 怒りではなかった。


 もっと深いところにあるものだ。


 魔王だった頃から、この体になってから、ずっと積み重なってきたものが——一点に収束していく感覚があった。


 颯の嵐操作が、まだ続いていた。


 橘の観測は、まだ落ちている。


 今だ。


 今しかない。


 俺は右手を持ち上げた。


 まるでそれは、煉たちの希望表すかのように、はたまた城島の最後のタスキを受けた木漏れ日のように、何かが一筋の線を描きならが輝いていた。


 終環ラスト・シグネットが、薬指で光った。


 指輪から、銃が顕現し始めた。


 だが——今日は違った。


 銃が顕現する速度が、遅かった。


 体力が足りない。


 深いところから力を引き出す余裕が、今の体には残っていなかった。


 それでも。


 俺は口を開いた。


---


「神々にすら忘れられ」


 橘が俺を見た。


「時の彼方に封じられし終末の印」


 颯が「煉……?」と言った。


「幾千の鎖、幾億の戒め、その全てを今ここに断ち切る」


 澪が顔を上げた。


 橘の目が変わった。笑顔が消えた。その目が、初めて——警戒の色を帯びた。


「過去を縛る楔よ、砕けろ」


 右手の指輪が、黒く輝いた。


「未来を閉ざす檻よ、崩れろ」


 銃が、ゆっくりと顕現し始めた。


「運命を繋ぐ輪よ、解き放たれよ」


 橘が動いた。


 止めようとした。


 だが——颯の嵐操作が橘の観測を妨げ、橘の攻撃がわずかにずれた。


 それで十分だった。


「我は最後を刻む者」


 銃が、完全に顕現した。


 前回の試し撃ちとは違う。


 完全詠唱で顕現した銃は——見た目からして違った。


 黒かった。


 黒剣より、さらに深い黒だ。


 なんて美しい黒なのだろうか。この黒光りは今この世界において最もと言っていいほどの、優雅さを模していた。


 存在しているだけで、周囲の空気が変わる感覚があった。


「世界の終わりに立つ証明そのもの」


 橘が止まった。


 その目に、初めて見る感情があった。


 恐れだ。


 橘将望が——恐れていた。


「——完全詠唱全封印、解放」


 俺は銃を橘に向けた。


「来たれ、呼応しろ——」


---


 城島が、動いた。


 誰も気づかなかった。


 倒れていた城島が、腕を持ち上げた。


 光理支配の残滓が、城島の体から溢れた。


 わずかな光だった。


 だが——それは橘の周囲の空気を、一瞬だけ歪めた。


 橘の量子操作が——ほんの一瞬、乱れた。


 それだけでよかった。


終環ラスト・シグネット


 引いた。


---


 音はなかった。


 光も、爆発も、衝撃も——何もなかった。


 ただ——黒が、放たれた。


 黒い何かが橘に向かって進んだ。


 橘が量子操作で書き換えようとした。


 できなかった。


 城島の光理支配の乱れと、颯の嵐操作の干渉が重なった一瞬、橘の観測は完全に機能していなかった。


 書き換えるための観測が——できなかった。


 黒が橘に触れた。


 橘の体が、止まった。


---


 しばらく、何も起きなかった。


 橘がそこに立っていた。


 目が開いていた。


 だが——光がなかった。


 橘の全身から、異能の気配が消えていた。


 完全に、零に帰されていた。


 無断より深く。


 より長く。


 橘の量子操作が——存在しなかった状態に、帰されていた。


 橘が膝をついた。


 初めて、橘の体が崩れた。


「……ね」橘が静かに言った。「これが——最後の切り札」


「そうだ」


「すごいね」橘が地面を見た。「僕の能力が——感じられない。完全に、ない」


「しばらく戻らない」


「そっか」橘が笑おうとした。だが今の橘に、笑う力は残っていなかった。「参った。本当に、参った」


「橘」


「なに?」


「黒剣は冥焔会に渡ったと言ったな」


「うん」


「場所を教えろ」


 橘がしばらく俺を見た。


「……教えたら、どうする?」


「取り戻す」


「冥焔会と戦うの?」


「そうなる」


 橘がしばらく俺を見ていた。


 それから、小さく笑った。今度は本物の笑いだった。


「……面白いね、やっぱり」橘が言った。「教えるよ。冥焔会の研究施設の場所。黒剣が持ち込まれた場所」


「なぜ教える」


「お前に負けたから」橘が静かに言った。

「いや、正確にはお前たちに負けたからだ」


 そういって橘は少し微笑んだ。


「減らず口が」


 煉もまた微笑みを浮かべた。


「負けた相手には、正直に教えるのが僕のルールだよ」


 橘が場所を言った。



 俺は聞いた。


「あーあ負けちゃった。俺アルティマだし、この世界でもけっこう強い方だと思うんだけどなー」


そう言いながらも橘はどこか満足げな雰囲気をもらしていた。


「それと」橘が続けた。「一個だけ言っていい?」


「なんだ」


「城島蓮くんは——死んでいないよ」


 俺は止まった。


「……何?」


「気絶してるだけ。僕の攻撃は、殺すほどの威力じゃなかった」橘が言った。「でも——全員がそう思ったでしょ。その隙を作りたかった。あなたに詠唱の時間を与えるために」


 俺は橘を見た。


「お前が——意図的に」


「意図的ではないよ」橘が首を振った。「でも——結果的に、そうなった。面白い偶然でしょ」


 俺は何も言えなかった。


「黒瀬くん」橘がゆっくりと立ち上がった。「また来るよ」橘が歩き出した。「次会う時は——今度こそ僕が勝つ。能力が戻ったら」


「来い」


「うん」橘が振り返らずに言った。「楽しみにしてる」


 橘の背中が、訓練場の入口に消えた。


---


 俺は城島に向かった。


 澪が城島の横に膝をついていた。


「城島」


「……黒瀬くん」澪が顔を上げた。「呼吸はしています。脈もある。気絶しているだけです」


「そうか」


 颯が駆けてきた。


「城島先輩、生きてるのか」


「生きている」


「よかった——!」颯が膝をついた。「よかった、よかった——!!」


 颯の声が震えていた。


 俺は城島を見た。


 気絶している城島の顔は、穏やかだった。


 最後に、腕を持ち上げた。


 光理支配の残滓で、橘の観測を乱した。


 あれが——決定的な隙を作った。


「城島」俺は静かに言った。


 城島は答えなかった。


 まだ意識がなかった。


 俺は城島の横に膝をついた。


「……ありがとう」


 誰にも届かない言葉を、俺は言った。


---


 右手の終環ラスト・シグネットが、静かに光を失っていった。


 一発を撃ち尽くした指輪が、薬指で静かに眠りについた。


 俺は空を見上げた。


 夕暮れの空が、赤く染まっていた。


 颯が泣きながら笑っていた。


 澪が城島の手を握っていた。


 城島が眠っていた。


 橘が去った空き地に、風が吹いた。


 颯の嵐操作が、静かに収まっていった。


俺は手を見た。


空の手だ。


黒剣はない。終環の銃も消えた。


それでも——立っていた。


「まあ」


 俺は静かに言った。


「なんとかなったな」

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