第37話「橘将望、再び現る」
翌日の放課後だった。
澪が訓練場に一人残って、記録を整理していた。
城島が少し遅れて来た。
二人になった時、城島が口を開いた。
「澪さん、一つだけ聞いていいですか」
「なんですか」
「黒瀬くんのことを——どう思っていますか」
澪が手を止めた。
しばらく間があった。
「……突然ですね」
「突然ですが、聞きたかったので」城島が静かに言った。「明日、橘将望が来るかもしれない。その前に——確認しておきたかった」
「なぜ明日の前に確認するんですか」
「何があるかわからないからです」城島が澪を見た。「もし何かあった時に、澪さんが後悔しないように」
澪がしばらく城島を見ていた。
それから、視線をノートに落とした。
「……大事な人だと思っています」澪が静かに言った。「それ以上は、まだわかりません」
「そうですか」城島が頷いた。「わかりました」
「城島くんは——なぜそれを聞いたんですか」
城島が少し間を置いた。
「……黒瀬くんは、誰かに大事にされることに慣れていない」城島が言った。「澪さんがどう思っているか、黒瀬くん本人が一番わかっていないと思ったので」
「それを私に聞いてどうするんですか」
「どうもしません」城島が微かに笑った。「ただ——知っておきたかった」
澪が城島を見た。
何か言おうとした時だった。
訓練場の入口に、影が差した。
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橘将望が、笑いながら立っていた。
「あ、いた」橘が言った。「二人しかいないんだね」
澪が立ち上がった。城島が前に出た。
「橘将望」城島が静かに言った。
「城島蓮くんだね」橘が城島を見た。「城島財閥の。お父さんには色々とお世話になってるよ」
「黒瀬くんを呼びます」城島がスマホを取り出した。
「いいよ」橘が言った。「呼んで。むしろそのために来たんだから」
城島がスマホを操作した。
俺と颯に、同じメッセージを送った。
「来てください。橘将望が訓練場に来ました」
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俺と颯が訓練場に着いた時、橘はまだ入口に立っていた。
澪と城島が、橘から少し離れた位置にいた。
橘が俺を見た。
「来た来た」橘が笑った。「固定具、外れたんだね。早かったじゃない」
「待たせた」
「別に。俺、急いでないし」橘が言った。「でも——雰囲気変わったね」
「そうか」
「うん」橘が俺を見た。「前より、少し面白そうな顔してる」
俺は橘を見た。
颯が俺の横に並び、城島と澪は後方に下がった。
「橘」
「なに?」
「一つだけ聞く」
「どうぞ」
「黒剣を返してほしい。それと引き換えに——俺が成長する過程を、お前に見せる」
橘が少し目を細めた。
「取引?」橘が言った。「珍しいね。前は問答無用で戦いに来たのに」
「二週間で考えた」
「なるほど」橘がしばらく俺を見た。「でもね」橘が続けた。「黒剣はもう用済みなんだよね」
「用済み」
「うん。冥焔会に渡した」橘が言った。「昨日。封印解除の研究に使うって言うから、あげた。僕には黒剣より——君自身の方が面白いから」
俺は止まった。
黒剣が——冥焔会の手に渡った。
「取引に使える駒がなくなったね」橘が笑った。「でも別にいいよ。黒剣がなくても、君は面白そうだし」
「……そうか」
「うん。だから今日は——前回の続きをしようと思って来たんだよ」橘が肩をすくめた。「嵐操作の子も一緒だし、何か考えてきたんでしょ。見せてよ」
颯が「煉」と小声で言った。
俺は颯を見た。
「始めよう」
「わかった」颯が頷いた。「いつでも」
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颯が嵐操作を起動した。
訓練場に風が生まれた。
気圧が変化し始めた。気象ノイズが広がっていった。
橘が少し眉を動かした。
「ほう」橘が言った。「嵐操作を使うんだ」
「そうだ」
「何のために?」
「試してみれば分かる」
俺は走った。
橘に向かって。
黒剣がない。終環はまだ使わない。
まず——颯の嵐操作が、橘の観測に干渉しているかどうかを確かめる。
俺の右拳が橘に向かった。
ずれた。
だが——今回は違った。
ずれ幅が、小さかった。
前回は完全に外れていた。今回は、橘の肩を掠めた。
橘が少し動いた。
初めて、橘の体が動いた。
「……ほう」橘が言った。「当たりそうだった。面白いね」
「颯、出力を上げてくれ」
「わかった」颯が応えた。
嵐が強くなった。
気象ノイズが増大した。
俺は二撃目を放った。
今度は——橘の脇腹を、確かに打った。
橘が一歩下がった。
会場——いや、訓練場に静寂が落ちた。
城島が息を呑んだ。澪が手を口に当てた。颯が「当たった!」と叫んだ。
橘が自分の脇腹を見た。
それから俺を見た。
笑っていた。
だが——その笑顔が、少し変わっていた。
「なるほど」橘が言った。「嵐操作で量子デコヒーレンスを起こした。だから僕の観測精度が落ちた」
「そうだ」
「頭いいね」橘が言った。「誰が考えたの」
「澪だ」
橘が澪を見た。
「朝霧澪ちゃんか」橘が言った。「調べた時、頭がいいとは思ってたけど——なるほどね」
橘が澪を見たまま、軽く手を振った。
俺は動いた。
橘の手が澪に向く前に、間合いを詰めた。
橘の手を掴んだ。
「澪に向けるな」
「あ、ごめんごめん」橘が笑った。「反応がいいね。仲間への攻撃には、めちゃくちゃ速く動くんだね」
「そうだ」
「それも弱点だよ」橘が静かに言った。
橘の異能が発動した。
前回とは比べ物にならない規模だった。
空気の圧縮が、全方位から俺を包んだ。
俺は吹き飛んだ。
地面を転がった。起き上がった。
「今のは颯の嵐操作で弱まった?」俺は颯に聞いた。
「弱まってる!」颯が言った。「でもまだ効いてる! 前回なら三倍以上の威力だったはずだ!」
「そうか」
俺は立った。
橘が歩いてきた。
「黒瀬くん、一個聞いていい?」
「なんだ」
「まだ隠してるよね。何か」橘が笑った。「さっきより余裕がある。でもまだ出してない。なんで?」
「確実に使えるタイミングを待っている」
「なるほど」橘が頷いた。「切り札か。前回の無断とは別のもの?」
「別のものだ」
「見せてよ」橘が言った。「それを見たくて来たんだから」
「準備ができたら見せる」
「じゃあ急いで準備してよ」橘が笑った。「こっちも少し本気出すから」
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橘の攻撃が変わった。
前回のような単発の圧縮ではなくなった。
連続した、精密な攻撃が来た。
右から。左から。上から。下から。
颯の嵐操作で弱まっているが、それでも一撃ごとの衝撃は大きかった。
俺は躱し続けた。
全部は躱せなかった。
二撃目が右肩に入った。三撃目が腹部に入った。四撃目が左足を捉えた。
体が軋んだ。
だが倒れなかった。
「黒瀬くん、さっきから受け続けてるけど」橘が言った。「限界じゃないの?」
「まだだ」
「強情だね」橘が笑った。「でもさ——」
橘が両手を広げた。
「そろそろ仲間に手を出そうかな」
俺は止まった。
「嵐操作の彼を止めれば、僕の観測が戻る」橘が言った。「そうすれば君の攻撃は全部外れる。効率的でしょ」
颯が「来い!」と叫んだ。「俺は止まらない!」
「勇気あるね」橘が颯を見た。「でも——止まるよ」
橘が颯に向かって手を振った。
俺は動いた。
橘と颯の間に入った。
圧縮された空気が、俺を直撃した。
吹き飛んだ。
今度は遠くまで飛んだ。
訓練場の壁に、背中から叩きつけられた。
壁が割れた。
俺は床に落ちた。
「煉!!」颯が叫んだ。
俺は起き上がろうとした。
体が、言うことを聞かなかった。
背中の衝撃が大きかった。肋骨に、また何かが走った。
それでも。
手を床についた。
膝を立てた。
立った。
「……まだ立つの」橘が言った。「なんでそんなに立てるの」
「倒れる理由がないからだ」
「何度目だよ、それ」橘が笑った。「でも今日は——前回より本気出したよ。それでもまだ立ってる」
「当然だ」
「当然じゃないって」橘が歩いてきた。「ねえ黒瀬くん、一個だけ言っていい?」
「なんだ」
「今日の君は」橘が静かに言った。「前回より、確実に面白い」




