第35話「終環《ラスト・シグネット》」
訓練二日目の夜だった。
アパートの部屋で、俺は右手を見ていた。
昨日から、右手の薬指に微かな感覚がある。
何かが——集まってくる感覚だ。
魔王時代の力量操作を起動すると、それが顕著になる。指先に、目に見えない何かが引き寄せられてくる。
俺はその感覚を、注意深く辿った。
力量操作を、いつもより繊細に。
糸を手繰るように、少しずつ。
何かに触れた。
俺は止まった。
この感覚を——知っている。
数百年前。
魔王として君臨していた頃、俺は一つのものを封印した。
力が強すぎた。
俺自身でも、制御しきれない力だった。
戦場で一度だけ使った。そしてその威力を見て——俺は封印することにした。
世界を変えてしまうような力は、必要な時以外に存在すべきではないと、あの頃の俺は思っていた。
だからそれを——封印した。
どこに。
俺自身の中に。
最も深いところに。
魔王ヴァルゼイドの魂の中枢に。
転生しても、それは消えなかった。
この体の中に——ずっとあったのか。
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俺は力量操作を全力で起動した。
魔王時代の全ての技術を注ぎ込んで、封印の層を一枚ずつ剥がしていった。
時間がかかった。
一時間。二時間。
アパートの時計が深夜を指した頃、俺は最後の層に触れた。
そこに——あった。
強大な何かが、封印の奥で静かに眠っていた。
数百年間、眠り続けていた。
俺がそれに触れた瞬間、何かが反応した。
右手の薬指が、熱くなった。
熱くなって。
光った。
黒い光だった。黒剣と同じ色の光が、薬指から放出された。
その光が収束した。
凝縮した。
固まった。
右手の薬指に——指輪が現れた。
黒い指輪だった。
装飾は何もない。ただ黒く、シンプルで、重みのある指輪だ。
俺はそれを見た。
しばらく、動けなかった。
これが——俺が封印したものか。
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指輪を嵌めた状態で、力量操作を起動した。
何かが、変わった。
力量操作の精度が、上がっていた。
いや、精度ではない。
深さが、変わっていた。
より深いところにアクセスできる感覚だ。魔王時代でさえ辿り着けなかった、自分の力の最深部に——指輪を通すことで、繋がれる感覚がある。
俺は静かに力を込めた。
右手の人差し指と中指を伸ばした。
銃の形を作るように。
力量操作を、その形に集中させた。
何かが、手の中に顕現しようとしていた。
だが——まだ出てこない。
何かが足りない。
合言葉だ。
俺はそれを、封印した時に設定していた記憶がある。解放する時のための言葉を。
数百年前の記憶を辿った。
あの日、俺はこれを封印しながら、こう言った。
「この力は、必要な時にだけ呼応せよ」
必要な時。
呼応せよ。
俺は口を開いた。
「封印解放——呼応しろ」
右手が、黒く輝いた。
黒剣と同じ色だ。だがそれより深い。より濃い黒だ。
光が収束した。
俺の手の中に——銃が現れた。
黒い銃だった。
シンプルな形をしていた。余計な装飾は何もない。ただ、存在するだけで重量感がある。
見ただけでわかった。
これは——普通の武器ではない。
俺は銃を見た。
数百年前、戦場で一度だけ使った。その時の感覚が、手に蘇ってきた。
あの時、俺は敵に向けてこれを撃った。
結果——その場にいた全ての敵の異能が、一瞬で消えた。
無断と同じ効果だ。
だがそれより——はるかに広く、はるかに深く。
無断は接触が必要だった。だがこれは——距離が離れていても効く。
射程の範囲内であれば、どこにいる相手にでも届く。
そして。
一発だけ。
これは一発しか撃てない。
それがこの力が強大な理由だ。無限に使えれば世界の理を壊す。だから一発だけという制約の中に、全ての力が凝縮されている。
俺は銃を下ろした。
力量操作を解除した。
銃が、光に溶けて消えた。
右手の薬指に、指輪だけが残った。
終環。
俺がかつて封印した、最後の切り札。




