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第33話「おかえり」

 二週間が経った。


 朝、目が覚めた時に、最初にしたことは深呼吸だった。


 肋骨が、痛まなかった。


 昨日まではまだ動くたびに鈍い痛みがあった。だが今朝は——ない。完全ではないかもしれないが、動ける程度には治っていた。


 人間の体の回復力は、魔王時代より遥かに遅い。


 だが確実に、治る。


 俺は固定具を外した。


 左腕を動かした。ひびは塞がっていた。右肩を回した。違和感はあるが、戦闘に支障はない。


 鏡を見た。


 いつもの顔だった。


 二週間で、何かが変わったわけではない。体が治っただけだ。


 それでも——何かが、少し違った。


 俺は着替えて、アパートを出た。


---


 学園の屋上に向かった。


 始業より一時間早い。ほとんど生徒はいない時間だ。


 扉を開けると、澪がいた。


 いつもの定位置だ。だが今日は弁当ではなかった。コーヒーの缶を二つ持っていた。


 澪が俺を見た。


 一瞬だけ、その目が動いた。固定具がないことを確認したのだろう。


 それから澪は静かに言った。


「おかえりなさい」


 俺は少し止まった。


「……なんだ、それは」


「おかえりなさい、です」澪が繰り返した。「二週間、大人しくしていたので」


「出かけていたわけではない」


「でも——戻ってきた感じがします」澪が俺を見た。「固定具がなくて、ちゃんと歩いていて。昨日までと、少し違います」


 俺は澪を見た。


 澪が片方のコーヒーを差し出した。


「どうぞ」


「ありがとう」


「お礼を言われることじゃないです」


 俺はコーヒーを受け取った。


 澪の隣に立って、缶を開けた。


 一口飲んだ。温かかった。


 風が吹いた。朝の空気が、少し冷たかった。


「澪」


「なんですか」


「二週間、色々やってくれたな」


「大したことはしていません」


「大したことだ」俺は静かに言った。「橘の能力の弱点を見つけた。倉石の記録と繋げた。城島の戦略の起点を作った。全部、お前がいなければなかった」


 澪がしばらく黙っていた。


「……私は」澪が言った。「あなたの役に立ちたかっただけです」


「立った」


「そうですか」


「そうだ」


 澪がコーヒーを一口飲んだ。


 しばらく、二人で黙っていた。


 空が広がっていた。雲が少しあった。風が流れていた。


 俺は澪を見た。


 澪は空を見ていた。朝の光が、澪の横顔を照らしていた。


「澪」


「なんですか」


「一つだけ言っていいか」


 澪が俺を見た。


「どうぞ」


「お前がいてくれて——よかった」


 澪の目が、わずかに揺れた。


 しばらく何も言わなかった。


 それから、視線を逸らした。耳が赤かった。


「……そういうことを」澪が言った。「突然言わないでください」


「突然ではない。ずっと思っていた」


「それも突然です」


「そうか」


「そうです」澪がコーヒーを両手で持ち直した。「あなたは——本当に不器用ですね」


「そうかもしれない」


「でも」澪が小さく言った。


「でも?」


「……そういうところが、嫌いじゃないです」


 俺は何も言わなかった。


 澪も何も言わなかった。


 風が吹いた。


 二人分の沈黙が、屋上に溶けた。


---


 昼休み、颯が病院から退院してきた。


 教室に颯が現れた瞬間、クラスの数人が「神崎! 退院したのか!」と声を上げた。颯が「ただいま!」と言いながら大きく手を振った。脇腹を押さえていた。


「まだ痛いのか」


「少しな」颯が俺の隣に来た。「でも動けるくらいには治った」俺の固定具がないことに気づいた。「お、煉も外したのか」


「今朝外した」


「おっ、じゃあ揃い踏みだな!」颯がにやりとした。「で、これからどうする? 次の手を考えてるって言ってたけど」


「放課後、四人で話す」


「城島先輩も?」


「ああ」


「倉石先生は?」


「後で話す」


「わかった」颯が拳を握った。「骨折中はじっとしてたけど——正直、うずうずしてた」


「そうか」


「黒剣、絶対取り戻そうな」


「ああ」


 颯が俺の肩を軽く叩いた。


「あと、煉」


「なんだ」


「口癖、まだか?」颯が聞いた。


「もう少しだ」


「そっか」颯がにやりとした。「澪ちゃんも同じこと聞いたんじゃないか?」


「なぜわかる」


「あいつも気にしてたから」颯が笑った。「俺も気にしてた。でも——もう少しなら、待つよ」


「待たなくていい」


「待つ」


 颯がにやにやしながら自分の席に向かった。


 澪が「神崎くん、いきなり来ないでください。びっくりします」と言った。颯が「澪ちゃん、ただいま!」と言った。澪が「……おかえりなさい」と言った。


 俺は窓の外を見た。


 全員が揃った。


---


 放課後、四人で屋上に集まった。


 颯、澪、城島。三人が俺を見ていた。


 いつもの光景だ。


 だが今日は——何かが違った。


 全員の目が、動いていた。


 待っている目ではなく、動く準備ができている目だ。


「話す」俺は言った。


颯も城島も澪も頷いた。


「橘将望に、交渉を持ちかける」俺は静かに言った。「城島の案だ。橘は俺に興味を持っている。その興味を利用して、黒剣を取り戻す」


「交渉の内容は」颯が聞いた。


「橘が俺に望むことと、俺が黒剣を取り戻すことを、交換する」


「橘が望むことって——俺たちを傷つけることとか、冥焔会に協力させることとか、そういう話じゃないよな」颯が眉を寄せた。


「おそらく違う」城島が答えた。「橘将望は俺たちを傷つけることに興味があるわけじゃない。黒瀬くんという存在に興味がある。だとすれば——黒瀬くんと、もっと深く関わることを望む可能性がある」


「具体的には」


「戦いだと思います」澪が静かに言った。「橘将望は昨日、黒瀬くんの切り札を見たかった。それだけのために戦いを仕掛けた。次に望むのも——黒瀬くんがさらに成長した姿を見ることだと思います」


「成長した俺を見る代わりに、黒剣を返す」俺は言った。「そういう取引だ」


 颯がしばらく考えた。


「……橘がそれに乗るかどうかだな」


「乗ると思う」俺は言った。「あいつは俺をデータと言っていた。データを集め続けるなら、俺が成長する過程を見る方が——今すぐ黒剣を使って封印を解くより、価値がある」


「でも」颯が言った。「橘に近づくためには、まず場所を特定しないといけない。どうやって呼び出す」


「それは——」俺は少し考えた。「橘の方から来る。あいつは『また来る』と言っていた」


「いつ来るかわからないじゃないか」


「ある程度予測できる」城島が言った。「橘将望は黒瀬くんが体を治すのを待っていると思います。傷んだ状態の黒瀬くんに興味はない。面白いデータが取れないから」


「なるほど」颯が頷いた。「つまり、煉が動き始めたら来るってことか」


「そう思います」城島が答えた。


 四人が少し沈黙した。


 颯が「じゃあ、来るまでの間に何かできることはあるか」と言った。


「ある」俺は言った。


「なんだ」


「黒剣なしで戦う練習だ」


 颯が止まった。


「……え?」


「黒剣が戻るまでの間、黒剣なしで動く練習をする」俺は続けた。「交渉が成功して黒剣が戻っても、次の戦いでまた奪われる可能性がある。そうなった時のために、黒剣なしでも戦えるようにしておく」


「それは……正直、煉が黒剣なしで戦うのは、かなり厳しくないか」颯が言った。「黒剣の光を吸収する性質が、煉の戦い方の核心じゃないのか」


「そうだ」俺は認めた。「だから練習が必要だ」


「黒剣なしでどうやって橘に対抗する」


「澪の仮説を使う」俺は澪を見た。


 澪が少し目を見開いた。


「……私の?」


「観測を吸収するのは黒剣の性質だ」俺は言った。「だが——黒剣がなくても、観測を遮断する方法があるかもしれない」


「どういう意味ですか」


「颯の嵐操作だ」


 颯が反応した。


「俺の?」


「お前の異能は空気、気圧、気象を操る」俺は颯を見た。「気象現象は量子レベルのノイズを大量に発生させる。橘の量子操作は、高度な計算と観測を必要とする。颯の嵐操作が大規模なノイズを発生させれば——橘の観測精度が落ちる可能性がある」


 颯が目を丸くした。


「……俺の嵐操作が、橘の能力に干渉できるってことか」


「理論上は」俺は言った。「だがお前には戦闘に参加してほしくない。危険すぎる」


「じゃあどうする」


「俺が橘と対峙する。その間、お前は距離を置いて嵐を発生させる。直接戦わなくていい」


 颯がしばらく考えた。


「……俺、それで役に立てるのか」


「役に立てる」俺は断言した。「お前の嵐操作の範囲は広い。橘の観測範囲全体に干渉できるなら——俺の攻撃が、初めて届く可能性が生まれる」


 颯が俺を見た。


 その目が、少し輝いていた。


「……わかった」颯が言った。「やる」


「訓練が必要だ。どのくらいの嵐なら橘の観測に干渉できるか、加減を探る必要がある」


「いつから始める」


「明日から」


「骨は大丈夫なのか」颯が俺の体を見た。


「動ける程度には治った」


「無理するなよ」


「お前が言うな」


「俺は医者に許可もらってる!」颯が反論した。


 澪が「二人とも、無理をしたらだめですよ」と言った。城島が「私も監視します」と言った。


 颯が「監視って怖い言い方するな城島先輩」と言った。城島が「監視です」と言った。颯が「はい」と言った。


---


 話し合いが終わって、四人で屋上を出ようとした時だった。


 澪が俺の袖を軽く引いた。


「少し待ってください」


 颯と城島が先に出た。


 屋上に俺と澪が残った。


「なんだ」


「一つだけ」澪が俺を見た。「無断リセットの訓練もしてください」


「黒剣がなければ使えない」


「今の状態では」澪が言った。「でも——本当にそうですか」


 俺は澪を見た。


「黒剣がなければ使えないと思っているのは、黒剣を使って練習してきたからではないですか」澪が続けた。「無断リセットの本質は、黒剣の性質と魔王時代の力量操作の組み合わせだと言っていましたよね」


「ああ」


「黒剣の性質——観測を吸収すること——それが橘の弱点になるなら」澪が静かに言った。「力量操作だけを使って、別の形で観測を吸収できないですか」


 俺は澪を見た。


「……考えたことがなかった」


「私も確信はありません」澪が言った。「でも——試してみる価値はあると思います」


 俺は少し考えた。


 力量操作だけで、観測を吸収する。


 黒剣なしで、無断に近い何かを作り出す。


 それが成立するかどうか——やってみなければわからない。


「澪」


「なんですか」


「お前、本当に頭がいいな」


「また言う」澪が視線を逸らした。「褒めても何も出ません」


「褒めていない。事実だ」


「同じです」


「違う」


 澪がため息をついた。それから、小さく笑った。


「……試してみてください」澪が言った。「何かわかったら、教えてください」


「ああ」


「約束ですよ」


「約束だ」


 澪が先に屋上を出た。


 俺は一人残った。


 空を見上げた。


 夕暮れが始まっていた。空が橙色に染まっていた。


 力量操作だけで、観測を吸収する。


 黒剣なしの無断。


 本当に成立するかどうかは——やってみなければわからない。


 だが。


 やってみる価値は、ある。


 今思えば、【あれ】もあることだしな


 俺は屋上の端まで歩いた。


 右手を持ち上げた。


 魔王時代の力量操作を、静かに起動した。


 何かを感じた。


 微かなものだった。だがそれは確かに——そこにあった。


「まあ」


 俺は静かに言った。


 言葉が、出かかった。


 今日は——出てきそうだ。


「まあ」


 もう一度言った。


 深呼吸した。


「まあ、なんとか——」


 俺は止まった。


 笑った。


 薄く、飄々と。


「まあ、なんとかなるだろ」


 夕暮れの屋上に、久しぶりにこの言葉が落ちた。


 二週間ぶりだった。


 誰も聞いていなかった。


 それでも——確かに、言えた。


---


 夜、スマホにメッセージを送った。


 颯に。澪に。城島に。


 同じ内容だった。


 「明日から動く」


 三人からすぐに返ってきた。


 颯:「よっしゃ!!!!!」


 城島:「わかりました。準備します」


 澪:「わかりました」


 少し間があって、澪からもう一通来た。


 「あの言葉、言えましたか」


 俺は少し考えてから返した。


 「言えた」


 また間があった。


 「よかったです」


 「おやすみなさい」


 俺はスマホを置いた。


 窓の外を見た。


 夜の街が広がっていた。


 黒剣はまだない。


 橘将望はまだそこにいる。


 颯の骨はまだ完全には治っていない。


 全部、まだ終わっていない。


 だが——動ける。


 俺は天井を見上げた。


「まあ、なんとかなるだろ」


 二度目の独り言が、夜の部屋に落ちた。


 今度は——確信を持って言えた。

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