第32話「封印の記録と最初の一手」
放課後、澪と城島が倉石の職員室を訪ねた。
俺も来ようとした。澪に止められた。
「固定具をつけたまま歩き回らないでください」
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃないです。昨日より顔色が悪い」
「そうか」
「そうです。教室で待っていてください」
「一緒に聞きたい」
「後で全部話します」澪が俺を見た。「約束します」
城島が「私が記録を取ります」と言った。
俺は諦めた。
澪に止められると、なぜか反論できなくなる。理由は自分でもわからない。
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澪と城島が職員室に入った時、倉石は一人でいた。
書類を見ていたが、二人を見て手を止めた。
「朝霧と城島か。黒瀬は」
「教室で待たせています」澪が言った。「体の状態がよくないので」
「……そうか」倉石が目を細めた。「橘将望か」
「はい」城島が答えた。「昨日のことは、聞いていますか」
「城島の父親から少し聞いた。詳しくは聞いていない」
「では、改めて」城島が昨日の戦いの状況を簡潔に説明した。颯の骨折。切り札が無効化されたこと。黒剣が奪われたこと。橘が覚級だということ。
倉石は黙って聞いていた。
城島が話し終えた時、倉石は長い沈黙の後に言った。
「黒剣を奪われた」
「はい」
「……そうか」
倉石が立ち上がった。窓の外を見た。
「倉石先生」澪が口を開いた。「私が調べたことを聞いてもらえますか」
「話せ」
澪がノートを開いた。昨日考えた仮説を、丁寧に説明した。
橘の能力が量子操作であること。観測が必要という制約。黒剣が光を吸収する性質を持つこと。その二つが交わるところに、何かがあるかもしれないという仮説。
倉石は窓の外を見たまま、澪の話を聞いていた。
澪が話し終えた。
沈黙があった。
長い沈黙だった。
城島が「先生?」と声をかけようとした時、倉石が動いた。
机の引き出しを開けた。古びたノートを取り出した。
煉に見せたものと同じノートだ。
倉石がページを捲った。
ある頁で止まった。
「一つだけ、似たような記述がある」
澪と城島が近づいた。
倉石が指で示した箇所には、こう書かれていた。
「黒剣は光のみならず、あらゆる観測を吸収するという記録あり。封印の術式においても、黒剣が近くにある時のみ、術式の精度が著しく低下した
澪が息を呑んだ。
「観測を、吸収する」澪が静かに言った。
「ああ」倉石が頷いた。「封印を施した術者の記録に残っていた。黒剣は光だけでなく——観測という行為そのものを吸収する性質があるらしい」
「だとすれば」城島が続けた。「橘将望の能力は観測を前提にしている。黒剣が近くにあれば——」
「観測ができなくなる」澪が言った。「観測できなければ、確率を操作できない」
「理論上は」倉石が静かに言った。「だが問題がある」
「なんですか」
「黒剣は今、橘将望が持っている」倉石が澪を見た。「取り戻せなければ、この仮説は意味をなさない」
沈黙があった。
城島が口を開いた。
「取り戻す方法を考えます」
「簡単な話ではないぞ」倉石が言った。「橘将望は覇級だ。戦えば黒瀬が一方的にやられる。今の状態では尚更だ」
「戦わずに取り戻す方法があるかもしれません」城島が言った。「橘将望は冥焔会に所属していない。独立した立場で協力しているだけです。つまり——冥焔会の命令では、黒剣を返させることができない」
「ではどうする」
「橘将望自身に、返す理由を作る」城島が静かに言った。「あの人物は黒瀬くんに興味を持っています。研究対象として。だとすれば——黒瀬くんが橘将望にとって、もっと面白い存在になれば」
倉石がしばらく城島を見ていた。
「……それは、黒瀬を餌にするということか」
「言い方は悪いですが」城島が頷いた。「橘将望が黒瀬くんを手元に置きたいと思えば、黒剣を条件として交渉できる可能性があります」
「危険な賭けだ」
「他に手がありません」
倉石がしばらく黙っていた。
窓の外の光が、傾き始めていた。
「わかった」倉石が言った。「だが、一つ条件がある」
「なんですか」
「黒瀬が体を治してからにしろ。折れた骨が治るまで、少なくとも動かすな」
「……黒瀬くんが聞くかどうか」澪が小声で言った。
「聞かせろ」倉石が澪を見た。「お前が言えば、聞く」
澪が少し目を丸くした。
「……なぜ私が言えば聞くと思うんですか」
「見ていればわかる」倉石が静かに言った。「あいつが素直になる相手は限られている」
城島が小さく笑った。澪が視線を逸らした。
「……わかりました。伝えます」
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教室に戻ると、俺はまだ席にいた。
窓の外を見ていた。
澪と城島が入ってきた。
「聞く」
俺は二人を見て、先に言った。
城島がテキパキと倉石との話を整理して伝えた。
黒剣が観測を吸収するという記録。橘の能力との関係。黒剣を取り戻すことが最初の一手になるという結論。そして城島の提案。
俺は黙って聞いた。
全部聞き終えた時、俺は少し考えた。
「橘に黒剣を条件として交渉する」
「はい」城島が言った。「もちろん危険です。でも今の状態で正面から取り戻しに行くより、可能性はある」
「橘が乗ってくるかどうかだ」
「乗ってくると思います」城島が言った。「あの人物は黒瀬くんに興味を持っています。それは昨日の言動からも明らかです。『もっと面白い話をしよう』と言い残したことも、その証拠だと思います」
俺は城島を見た。
「城島」
「はい」
「お前が考えたのか、これを」
「澪さんの仮説があって、初めて考えられました」城島が言った。「澪さんの観察がなければ、気づきませんでした」
俺は澪を見た。
澪が視線を逸らした。
「……倉石先生の記録があったからです。私一人では辿り着けませんでした」
「お前が繋いだ」俺は言った。「橘の能力の制約に最初に気づいたのは、お前だ」
「……そうかもしれませんが」
「そうだ」
澪が黙った。
城島が口を開いた。
「黒瀬くん、もう一つ、倉石先生からの条件があります」
「なんだ」
「骨が治るまで動くな、ということです」城島が言った。「最低限、ひびが塞がるまで。期間は二週間ほどだと思います」
「二週間」
「はい」
俺は少し考えた。
二週間。
その間に冥焔会が黒剣を使って封印を解こうとするかもしれない。
「封印の解除には、どのくらい時間がかかる」
「父の情報では——最低でも一ヶ月はかかるだろうと」城島が答えた。「封印は複雑な術式で施されています。黒剣があっても、すぐには解除できない」
「一ヶ月あれば」
「動けます」
俺はしばらく考えた。
「わかった」
「動かないということですか」城島が確認した。
「二週間待つ」
「よかった」城島が息を吐いた。
澪が俺を見た。
「本当ですか」
「お世辞を言わない主義だ」
「……約束ですよ」
「約束だ」
澪が小さく頷いた。
その目が、少し安堵していた。
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その夜、颯からメッセージが来た。
「病院、暇すぎる。煉、何してる?」
俺は少し考えてから返した。
「次の手を考えていた」
すぐに返ってきた。
「どんな手だ」
「まだ話せる段階ではない」
「そっか」
少し間があった。
「一個だけ聞いていいか」
「なんだ」
「煉、まだあの言葉は言えてないか」
俺は画面を見た。
颯も気づいていた。
「まだだ」
「そっか」
また間があった。
「焦んなくていいよ」
「澪ちゃんも城島先輩も倉石先生も動いてる。俺は寝てるだけで役に立ててないけど」
「でも一個だけ言う」
「なんだ」
「黒剣、絶対取り戻そう」
「お前が取り戻す。俺たちがサポートする。それだけだ」
俺はしばらく画面を見ていた。
颯が、骨折して入院しながら、それを言っていた。
俺は返信した。
「ああ」
「約束だ」
颯からすぐに返ってきた。
「!!!!!」
感嘆符を四つもつけていた。
颯らしかった。
俺はスマホを置いた。
窓の外を見た。
夜の街が広がっていた。
黒剣がない腰は、まだ軽かった。
だが——今夜は、昨夜より少しだけましだった。
理由はわからない。
強いて言えば——手が、少し見えてきた気がするからかもしれない。
俺は天井を見上げた。
「まあ」
口を開いた。
あの言葉が、少しだけ出かかった。
でも——まだ、出てこなかった。
もう少しだけかかりそうだ。
俺は目を閉じた。
二週間待つ。
体を治す。
それから——動く。
橘将望。
必ず、黒剣を取り戻す。
それだけは、揺るがなかった。




