第30話「それぞれの想い」
翌朝。
澪は病院に向かった。
颯が入院している病棟は、学園から歩いて二十分の総合病院だ。澪は始業の二時間前に家を出た。
病室の扉をノックすると、颯がすでに起きていた。
「澪ちゃん! 来てくれたのか!」
「おはようございます」澪が室内に入った。「具合はどうですか」
「まあ、骨が折れてる以外は元気!」颯が起き上がろうとした。「いって——」
「動かないでください」
「うん、動かない」颯が大人しく横になった。「煉は? 来てないのか」
「今日は病院で自分の検査があるはずです。昨日、私が予約を入れました」
「……それを本人に言ったのか?」
「メッセージを送りました」澪が颯の隣の椅子に座った。
「返事は?」
「『わかった』と一言だけ」
颯が天井を見た。
「……煉、どんな様子だった? 昨日の夜」
「公園で少し話しました」澪は静かに言った。「黒剣のことを聞いたら——つらいという感情がわからないと言っていました」
「わからない?」
「本当につらいのに、それをつらいと呼んでいいのかわからないと。そういう感情に、慣れていないんだと思います」
颯がしばらく黙っていた。
「……そうだよな」颯が静かに言った。「あいつ、ずっと一人だったんだろ。数百年。誰かに心配されるとか、誰かを心配するとか——そういうことに慣れてないんだよ、きっと」
「そうだと思います」
「だから澪ちゃんが隣にいてくれてよかった」颯が澪を見た。「昨日の夜、一人にしなかったよな?」
「……公園で少しだけ」
「それで十分だよ」颯が言った。「煉のこと、頼むな」
澪は少し間を置いた。
「……頼まれなくても、します」
颯が笑った。
「だよな」颯が言った。「そういうとこ、澪ちゃんらしい」
澪は颯から視線を逸らした。
窓の外の朝の光が、病室を白く照らしていた。
「神崎くん」
「なんだ」
「早く治してください」澪が静かに言った。「あなたがいないと——うるさくなくて、困ります」
颯が目を丸くした。
それから、声を出して笑った。
「いたっ——笑ったら骨に響く——でも澪ちゃんがそういうこと言うの珍しいな!」
「一度だけです。二度は言いません」
「覚えておく!」颯が笑いながら脇腹を押さえた。「絶対早く治す。約束する」
「お願いします」
澪は立ち上がった。荷物を持った。
「学園に行きます」
「うん。煉のこと、よろしくな」
「わかっています」
澪は病室を出た。
廊下を歩きながら、澪は少しだけ息を吐いた。
頼まれなくても、する。
本当のことだった。
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同じ頃、俺は病院にいた。
別の病院だ。澪が予約を入れてくれた整形外科だ。
レントゲンを撮った。
肋骨が二本折れていた。もう一本にひびが入っていた。左腕のひびと、右肩の損傷も確認された。
「よく動けましたね」医者が首を傾げながら言った。「この状態で」
「慣れています」
「慣れる怪我じゃないですよ」
医者に固定具をつけてもらいながら、俺は窓の外を見ていた。
朝の空が広がっていた。
黒剣がない。
目が覚めた時も、病院に来る時も——腰が軽かった。
その軽さが、ずっと気になっていた。
腰が軽い。
それだけのことだ。
だが——それだけのことが、ずっと気になっていた。
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放課後、城島がアパートに来た。
資料を持っていた。
「黒瀬くん、入っていいですか」
「どうぞ」
城島が部屋に入った。俺の状態を見て、眉を寄せた。
「固定具をつけているんですね」
「折れていた」
「何本ですか」
「二本と、ひびが一本」
「……わかりました」城島が椅子を引いて座った。「橘将望の情報を集めました。父を経由して、冥焔会の内部情報も少し」
「聞く」
城島が資料を開いた。
「橘将望は——冥焔会の中で、特殊な立場にいます」城島が静かに言った。「執行官でも幹部でもない。独立した立場で、冥焔会に協力している形です」
「協力? 所属ではないのか」
「はい」城島が続けた。「冥焔会も橘将望を完全には制御できていないらしい。彼は冥焔会の目的に興味があるから協力しているだけで、命令系統の外にいます」
「目的に興味がある」
「古い王を目覚めさせること——つまり、あなたに興味があるということだと思います」城島が俺を見た。「昨日の言動を聞く限り、橘将望はあなたを——研究対象として見ている節があります」
「データと言っていた」俺は静かに言った。「颯を傷つけたのも、俺の反応を見るためだと」
城島の表情が固くなった。
「……そういう人間です」城島が言った。「感情がない。正確には——感情はあるのかもしれないが、他者の感情に対して何も感じない」
「共感がないということか」
「おそらく」城島が資料を捲った。「もう一つ、重要な情報があります」
「なんだ」
「黒剣について」
俺は城島を見た。
「父の情報では——橘将望が黒剣を持ち帰ったことは、冥焔会の上層部も把握しています」城島が続けた。「そして上層部は、黒剣を『封印の鍵』として利用しようとしているらしい」
「封印の鍵」
「魔王の体の封印は、黒剣と何らかの繋がりがあると冥焔会は考えているようです」城島が言った。「黒剣を使えば、封印を完全に解除できると。そのための研究を始めていると」
俺は黙っていた。
黒剣が、封印の鍵になる。
封印が解ければ——魔王の体が完全に覚醒する。
転生体である俺と統合させるための、次の手を打ってきたということだ。
「タイムリミットがある、ということか」
「そうだと思います」城島が資料を閉じた。「黒瀬くん、一つだけ聞いていいですか」
「なんだ」
「今、どういう状態ですか。正直に」
俺は少し考えた。
「正直に言う」
「お願いします」
「手がない」俺は静かに言った。「橘に対して、今の俺には何もない。切り札を使っても届かなかった。黒剣もない。体も傷んでいる。何から手をつければいいのか——わからない」
城島がしばらく俺を見ていた。
「黒瀬くんが『わからない』と言うのは」城島が静かに言った。「初めて聞きました」
「そうかもしれない」
「正直に話してくれてありがとうございます」
「俺がお世辞を言わないのは知っているだろ」
「知っています」城島が少し笑った。「だからこそ、重みがあります」
城島が立ち上がった。
「一つだけ言わせてください」
「なんだ」
「黒瀬くんが手を見失っている時に、私たちが考えます」城島が真っ直ぐ俺を見た。「あなたが一人で抱える必要はない。颯くんが入院している今、私が動きます。澪さんも動いています。倉石先生にも話を通します」
「城島」
「はい」
「お前に、危ない橋を渡らせるつもりはない」
「危ない橋くらい、渡ります」城島が静かに言った。「あなたが黒瀬煉であり続けるために——私が城島蓮である意味があります」
俺は城島を見た。
仮面を脱いだ城島の目は、まっすぐだった。
「……ありがとう」
「お礼はいりません」城島が部屋を出ようとした。扉の前で振り返った。「黒瀬くん、今夜——一人でいられますか」
「いられる」
「本当に?」
「いられる」
城島がしばらく俺を見た。
「……澪さんに連絡を入れておきます」
「それはしなくていい」
「します」
城島が出ていった。
扉が閉まった。
俺は一人になった。
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夜になった。
部屋に一人でいた。
いつもなら黒剣を手に取る時間だ。
代わりに何をするのか、わからなかった。
俺は椅子に座って、窓の外を見ていた。
夜の街が広がっていた。
手がない。
橘将望に対して、今の俺には何もない。
無断を使っても無傷だった。
黒剣がなければ、無断も使えない。
颯は入院している。
澪は——何かを考えている。あの目は、動いている時の目だ。
城島は情報を集めている。
倉石は——何かを知っているかもしれない。
俺一人では、手がない。
だが——俺一人ではない。
俺はそこで、少し止まった。
俺一人ではない。
魔王時代には、一人だった。全てを一人で背負っていた。それが当然だと思っていた。
だが今は——手を貸してくれる人間が、いる。
城島が動いている。澪が動いている。颯が病院で早く治すと言った。倉石が側にいると言った。
俺が手を見失っている間、周りが動いている。
それは——
俺は少し考えた。
それは、俺が人間として生きることで、初めて得られたものだ。
魔王だった頃には、なかったものだ。
スマホが鳴った。
澪からメッセージだった。
「起きていますか」
俺は少し考えてから返信した。
「起きている」
すぐに返ってきた。
「今日、橘将望について少し調べました」
「明日、話せますか」
俺は画面を見た。
澪が調べた。
怪我をした颯を病院に見舞いに行き、学園の授業を受け、それでも橘のことを調べていた。
俺は返信した。
「明日の朝、屋上で」
「わかりました」
「一つだけ聞いていいですか」
「なんだ」
しばらく間があった。
「まだ言えませんか、いるものように」
俺は画面を見た。
澪は気づいていた。
昨日も今日も、あの言葉が出なかったことを。
俺は少し考えた。
「まだだ」
「そうですか」
また間があった。
「焦らなくていいです」
「言えるようになったら、聞かせてください」
「おやすみなさい」
俺はスマホを置いた。
窓の外を見た。
夜空に星が出ていた。
口癖が言えない。
なんとかなるだろ、という言葉が——まだ出てこない。
だが。
なんとかしてくれる人間が、周りにいる。
それは——少し、違う話だ。
俺は窓の外を見たまま、静かに息を吐いた。
まだわからない。
橘将望にどう挑めばいいのか。黒剣をどう取り戻すのか。颯の怪我をどう償うのか。
全部、まだわからない。
だが——ここから始める。
それだけは、わかった。




