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第29話「絶望と喪失」

 気づいたら、腰が軽かった。


 地面に倒れたまま、俺は腰に手を伸ばした。


 黒剣がなかった。


 鞘もない。


 ただ、空白があった。


 数百年間、一度も離れたことがなかったものが——ない。


 転生した時も、一緒にあった。


 魔王時代から数えれば、何百年もの間、俺の隣にあったものが——


 ない。


 俺は空を見たまま、動けなかった。


---


 「煉っ——!」


 声が聞こえた。


 澪の声だ。


 空き地の入口から、澪が走ってきた。颯を颯に城島に任せてきたのだろう。


 澪が俺の前で膝をついた。


 俺の状態を確認した。折れた肋骨。ひびの入った左腕。右肩の損傷。額の傷。


 澪の顔が、見る見るうちに青くなった。


「……どこが一番痛いですか」澪が静かに聞いた。声が震えていた。


「肋骨だ。二、三本いっている」


「折れているんですか」


「折れている」


「動けますか」


「少し待てば」


「待ちません」澪が立ち上がった。「今すぐ動きます。肩を貸してください」


「自分で——」


「貸してください」


 澪の声が、珍しく強かった。


 俺は黙って澪の肩を借りた。


 体を起こした。


 折れた肋骨が、呼吸のたびに痛む。だが立てた。


 澪の肩が、俺の体重を受け止めた。


 細い肩だ。こんな細い肩が、俺の体重を——


「黒剣がない」澪が気づいた。周囲を見回した。「どこに」


「橘が持っていった」


 澪が止まった。


 俺を見た。


「……奪われたんですか」


「ああ」


 澪は何も言わなかった。


 ただ、唇を引き結んだ。


「行きましょう」


 澪が歩き出した。俺の体を支えながら。


---


 廊下に戻ると、城島が颯を支えていた。


 颯は壁にもたれて立っていた。顔色が悪い。右手で脇腹を押さえていた。


 何も言わなかった。


 ただ、目が細くなった。


「颯」俺は言った。


「……煉」颯が顔を上げた。「生きてるか」


「生きている」


「よかった」颯がゆっくりと息を吐いた。「俺も生きてる。骨がいってるけど」


「すまなかった」


 颯が俺を見た。


「何が」


「お前を守れなかった」


 颯が少し目を見開いた。それから、力なく笑った。


「逆だろ」颯が言った。「俺が守られる側だったのに、役に立てなかった」


「そうじゃない」


「俺の骨が折れたのは、俺の問題だ」颯が言った。「煉のせいじゃない」


「だが俺が——」


「煉」


 颯の声が、低くなった。


 痛みで細くなった声だったが、はっきりしていた。


「今は自分を責めるな。それは後でいい」颯が言った。「今は——俺たちで帰ろう。そっちが先だ」


 俺は颯を見た。


 骨が折れているのに。


 痛みをこらえているのに。


 それでもこいつは、俺のことを先に考えている。


「……ああ」


 俺は答えた。


 澪が二人分の荷物を持った。


 三人で廊下を歩いた。


 いつもより、ずっと遅い歩みで。


---


 保健室に颯を寝かせた。


 養護教員が驚いて、すぐに救急に連絡した。颯の骨折の状態が、保健室で対処できる範囲を超えていた。


 颯が搬送されるまでの間、俺は颯の隣に立っていた。


 颯は天井を見ていた。


「なあ煉」


「なんだ」


「橘って、どのくらい強かった」


 俺は少し考えた。


「俺が戦ったことのある人間の中で、一番強かった」


「城島先輩より?」


「次元が違う」


 颯が静かに息を吐いた。


「切り札は」


「なんでお前がそれを知ってんだ。言ったことがないはずだ。」


「お前が用意してないわけないだろ」


そう言ってニコッと笑みを浮かべた。


「使った」


「それでも」


「それでも無傷だった」


 颯が黙った。


 しばらく間があった。


「黒剣は」


「奪われた」


 颯の顔が、歪んだ。


 痛みではなかった。


「……奪われたのか」颯が言った。「あの剣を」


「ああ」


「俺のせいだ」颯が言った。「俺が吹き飛ばされて、煉が戦いに引き込まれて——」


「颯」


「俺が弱いから——」


「颯」


 俺は颯を見た。


「さっきお前が言ったことを、そのままお前に返す」


 颯が俺を見た。


「今は自分を責めるな」俺は言った。「それは後でいい」


 颯がしばらく俺を見ていた。


 それから、力なく笑った。


「……そっくりそのまま返してくるなよ」


「お前が言ったことだ」


「わかってる」颯が目を細めた。「でも——悔しいな」


「ああ」


「煉が悔しいって言うの、初めて聞いた気がする」


「そうか」


「……そうだよ」颯が天井を見た。「俺も悔しい。だから——絶対取り返そう。黒剣」


「ああ」


「約束だぞ」


「約束だ」


 救急車のサイレンが、遠くから近づいてきた。


---


 その夜。


 颯は病院に搬送された。肋骨の骨折が三本。入院が必要だと言われた。


 城島が病院まで付き添いに行った。


 俺と澪は、学園の近くの公園のベンチに座っていた。


 病院に行こうとした俺を、澪が止めた。


「あなたも診てもらわないといけません」澪が言った。「颯くんと同じ状態です」


「俺は——」


「明日、病院に行ってください。今日は休んでください」


 俺は反論できなかった。


 今の状態では、病院に行っても迷惑をかけるだけだ。


 公園のベンチに座った。


 澪が隣に座った。


 夜の公園に、虫の声だけが響いていた。


 しばらく、誰も何も言わなかった。


 澪が口を開いた。


「黒剣を奪われたこと」


「ああ」


「つらいですか」


 俺は少し考えた。


「……わからない」


「わからない?」


「つらいという感情が、正しいのかどうかわからない」俺は言った。「数百年間、一緒にあったものだ。なくなった。何かが、確かに欠けている。だがそれを——つらいと呼んでいいのかどうか」


 澪がしばらく俺を見ていた。


「つらいでいいと思います」澪が静かに言った。


「そうか」


「そうです」澪が前を向いた。「大事なものを失ったら、つらくていい。それは当然の感情です」


「お前は……」俺は澪を見た。「父親を失った時も、そう思えたのか」


 澪が少し固まった。


 しばらく間があった。


「……思えませんでした」澪が静かに言った。「父が失踪した時、私は三年間ずっと——つらいと思うことが許されない気がしていました。強くいなければいけないと」


「なぜ」


「泣いたら、本当にいなくなってしまいそうで」澪が言った。「認めたくなかったのかもしれません。でも今は——つらいと思っていい、と思えるようになりました」


「何がきっかけだ」


 澪が少し間を置いた。


「……あなたに話せたことです」澪が静かに言った。「あなたに正体を話してもらって、父のことを話して、一緒に探すと約束してもらって。誰かに言えた時に——初めて、つらかったんだと思えました」


 俺は澪を見た。


 澪は前を向いていた。


「だから黒瀬くんも、つらいと思っていいと思います」澪が言った。「大事なものを奪われたんだから」


 俺は空を見上げた。


 夜空に星が出ていた。


 黒剣がない。


 その事実が、今になってじわりと広がってくる感覚があった。


 つらい。


 そうか。


 これを——つらい、と呼ぶのか。


「澪」


「なんですか」


「お前は強いな」


 澪が少し目を丸くした。


「私が?」


「ああ。つらいことを抱えながら、誰かのために動ける。それは強さだ」


 澪がしばらく俺を見ていた。


 それから、視線を落とした。


「……強くないです」澪が静かに言った。「ただ、あなたが心配なだけです」


「それを強さと言う」


「そうじゃないと思います」


「俺が言っているから、そうだ」


 澪が小さく笑った。


 力のない、だが確かな笑いだった。


「……不器用ですね」


「そうかもしれない」


「でも」澪が言った。


「でも?」


「ありがとうございます」


 俺は何も言わなかった。


 澪が隣に座ったまま、空を見上げた。


 二人分の沈黙が、夜の公園に溶けた。


---


 その夜、アパートに帰った。


 部屋に入った。


 いつもなら黒剣を鞘に収めるところで——手が止まった。


 当然だ。黒剣がない。


 俺は椅子に座った。


 空の腰を、一度だけ見た。


 それから、窓の外に目を向けた。


 夜の街が広がっていた。


 橘将望。


 覇級アルティマの一人。


 本当の能力は、まだ見せていない。


 今日使ったのは偽装だと言った。


 偽装で、俺は何もできなかった。


 切り札を使った。それでも無傷だった。


 颯の骨が折れた。黒剣が奪われた。


 俺には今、手がない。


 どんな手を使っても、橘には届かない。


 過去を書き換えられるなら——何をしても、なかったことになる。


 俺は手を見た。


 空の手だ。黒剣がない手だ。


「まあ」


 俺は言おうとした。


 やっぱり、出てこなかった。


 いつもの口癖が、出てこなかった。


 俺はしばらくそのまま座っていた。


 窓の外で、風が木々を揺らした。


 颯が病院にいる。


 黒剣が橘の手にある。


 俺に、できることが思いつかない。


 こんなことは、魔王時代には一度もなかった。


 何百年も生きて、何千の戦場を越えて——初めて、俺は何もわからなかった。


 どうすればいいのか。


 どこから動けばいいのか。


 何が正しいのか。


 全部が——わからなかった。


 俺は椅子に背をあずけた。


 天井を見た。


 静かな夜だった。


 怖ろしいほど、静かな夜だった。

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