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第27話「ホンモノの強さ」

 橘将望が学園に現れたのは、翌週の月曜日だった。


 昼休みだった。


 颯と澪と三人で屋上に向かっていた。廊下の角を曲がった瞬間、俺の足が止まった。


 気配。


 いや、違う。


 気配がない。


 それなのに——いる。


 廊下の先に、橘が立っていた。ベージュのカーディガン姿だ。学園の生徒でも教員でもない。それでも、まるで自分の家の廊下に立っているかのような自然さで、そこにいた。


「あ、いた」


 橘が俺を見て、にこりとした。


 笑顔だった。


 穏やかで、人当たりの良さそうな笑顔だ。だが——昨日と同じ違和感がある。この笑顔の奥に、何もない。感情がない。まるで笑顔という仮面を、ただ顔に貼り付けているだけのような。


「また会ったね」


「学園に何の用だ」


「会いに来たんだよ」橘が軽く言った。「黒瀬くんに」


 颯が俺の前に出た。


「お前が橘か」颯が橘を見た。「煉の知り合いか?」


「知り合いとは言えないかな」橘が颯を見た。「君は神崎颯くんだね。上級異能者、嵐操作。なかなか面白い異能だよね」


「……なんで俺の異能を知ってる」


「調べたから」


 当然のように言った。


「黒瀬くんの周りの人間は、一通り調べたよ」橘が続けた。「神崎颯、朝霧澪、城島蓮。三人とも面白い人材だね」


 俺は澪に目配せした。


 下がれ、という意味だ。


 澪が気づいた。一歩後退した。


「颯」


「わかった」颯が澪の前に立った。


 橘がその様子を眺めていた。


 笑ったまま。


「ねえ、黒瀬くん」


「なんだ」


「一個だけ確認したいことがあってさ」橘が言った。「神崎くんの異能って、どのくらいまでやれる? 気になって」


「関係ない話だ」


「そう?」橘が首を傾げた。「でも僕、気になっちゃったから」


 橘が颯に向かって、軽く手を振った。


 ひらり、と。


 挨拶するように。


 次の瞬間。


 颯が壁に叩きつけられた。


 廊下が揺れた。


 石造りの壁に、人体が打ちつけられる音がした。


 颯がずるりと床に崩れた。


「颯っ——!」


 澪の声が廊下に響いた。


 俺は橘を見た。


 橘は動いていない。


 ただ手を振っただけだ。


 それだけで——颯が吹き飛んだ。


「あ、ごめんね」橘が颯を見た。「少し強すぎたかも。でも死にはしないよ。骨が二、三本いったかもしれないけど」


 二、三本。


 骨が、二、三本。


 その言葉を、橘は雨の話でもするように言った。


 俺の中で何かが動いた。


 静かな怒りではなかった。


 もっと根本的な、原始的な何かだ。


 俺は黒剣を抜いた。


「澪、颯を頼む」


「わかりました」


「場所を変える」俺は橘を見た。「ついてこい」


「いいよ」橘が笑った。「どこでも」


---


 学園の裏門を出た先の空き地だった。


 人気がない。夕暮れには早い。


 昼の白い光が、空き地を照らしていた。


 俺は中央に立った。振り返った。


 橘がゆっくりと歩いてきた。


 ポケットに手を入れたままだ。散歩でもするような歩き方だ。まるで戦いに来ているように見えない。


「颯に何をした」


「ベクトルを変えただけだよ」橘が言った。「空気の動きを少しだけ変えた。そしたら吹き飛んだ」


「空気の動きを変えた」


「うん。僕の異能はね——物体の軌道をずらすって感じかな。一度に一つだけ、ほんの少しだけ。シンプルでしょ」


 単一対象ベクトル補正。


 一度に一つ。ほんの少しだけ。


 その異能で、颯をあそこまで。


「来い」


 俺は黒剣を構えた。


 さっきから、橘の気配を探っている。


 ない。


 この距離にいるのに、気配がない。


 蒼井も三浦も、気配は感じた。隠してはいたが、確かにあった。だが橘は——存在しているのに、気配がない。


「いいよ」橘が笑った。「どうぞ」


---


 俺は踏み込んだ。


 加速。最短距離。橘との距離が、一瞬で消えた。


 黒剣を振った。


 刃が橘の首筋に向かった。


 当たらなかった。


 橘は動いていない。


 剣が——ずれた。


 かすりもしなかった。


「惜しかったね」橘が言った。


 俺は即座に体を回した。二撃目。今度は胴を薙ぐ。


 またずれた。


 三撃目、四撃目、五撃目。


 全部ずれた。


 橘は微動だにしていない。ただ俺の前に立っているだけだ。


 まるで俺が幽霊と戦っているようだった。


「なるほど」俺は立ち止まった。「軌道をずらしている」


「そう」橘が頷いた。「一度に一つだけね」


 複数同時攻撃ならどうだ。


 俺は黒剣を右手に持ち替えながら、地面の石を左手で掴んだ。同時に放った。


 剣と石、二つが橘に向かった。


 石がずれた。


 剣は——


 剣もずれた。


「あれ」俺は言った。「二つ同時でも通じるのか」


「そうだね」橘が肩をすくめた。「一つって言ったっけ。まあいいか」


 嘘だ。


 最初から嘘だった。


 ならば——この男の本当の能力の射程は、もっと広い。


「三つなら」


「試してみる?」橘が少し笑った。


 俺は石を二つ拾い、黒剣と合わせて三つを同時に放った。


 全部ずれた。


 五つにした。


 全部ずれた。


 俺は止まった。


 息を整えた。


 考えた。


 剣が届かない。近距離でも中距離でも、全てがずれる。黒剣の射程はある程度広い。それでも届かない。


 ならば——素手なら。


 俺は黒剣を鞘に収めた。


「剣を片付けるの?」橘が言った。「どうして」


「接触できれば何でもいい」


「なるほど」橘が少し面白そうな顔をした。


 俺は走った。


 全速力だ。最速の踏み込みで橘の懐に入る。


 右の拳が橘の顔面に向かった。


 ずれた。


 左の肘が橘の首筋に向かった。


 ずれた。


 体当たりで橘を押し倒そうとした。


 ずれた。


 俺の体が、橘の横を通り抜けた。


 まるで橘が透明なガラスのように。


 何もないのに、そこに入れない。


 着地した。振り返った。


 橘はまだ立っていた。一歩も動いていない。


「格闘もダメかぁ」橘が言った。


 俺は止まった。


 冷静に考えた。


 近距離、遠距離、素手、剣、複数同時——全部ずれる。


 触れられない。


 ならば。


「橘」


「なに?」


「お前は攻撃してこないのか」


「ああ、そうだね」橘がポケットから右手を出した。「そろそろしようか」


 橘が右手を俺に向けた。


 何かが来た。


 見えない。音もない。


 ただ——来た。


 右肩に衝撃があった。


 吹き飛んだ。


 地面を三回転がった。


 体が止まった。


 起き上がった。


 右肩が、熱かった。骨が軋んでいた。ひびが入った。


「空気の圧縮だよ」橘が言った。「軌道を変える応用でね。空気を圧縮してぶつける。威力調整もできるよ。今のは五割くらい」


 五割。


 あれで五割。


「また来るよ」橘が言った。


---


 二撃目が来た。


 今度は見えた。空気が歪む感覚があった。俺は横に跳んだ。


 だが——左足に直撃した。


「あ、見てたのに当たったね」橘が言った。「躱したと思ったでしょ」


 そうだ。


 確かに躱したはずだった。跳んだ方向が正しかったはずだった。


 なのに当たった。


「ベクトルを変えた」橘が説明するように言った。「君が躱す方向に、空気の塊の軌道を合わせた。躱しても当たるようにね」


 息が止まった。


 躱しても当たる。


 攻撃を避けることと、攻撃が当たらないことが——切り離されている。


「面白いでしょ」橘が微笑んだ。「じゃあ三撃目」


 来た。


 俺は別の方向に跳んだ。


 当たった。


 また別の方向に跳んだ。


 当たった。


 俺は止まった。


 動いても当たる。


 動かなくても当たる。


 では、どうすれば。


「黒瀬くん」橘が言った。「わかった?」


「……何が」


「意味ないんだよ、逃げることが」橘が穏やかに言った。「僕が当てたいと思ったら、当たる。それだけ」


 当てたいと思ったら、当たる。


 それだけ。


 四撃目が来た。胸に直撃した。肋骨が折れた感覚があった。


 五撃目。左腕に。骨にひびが入った。


 六撃目。腹部に。内臓が揺れた。


 七撃目。右膝に。崩れた。片膝が地面についた。


 起き上がった。


 また来た。


 また直撃した。


 また起き上がった。


 橘は動いていない。


 ただ俺に向かって手を向けているだけだ。


 俺はボロボロになっていった。


 橘は無傷のまま立っていた。


---


 体が、正直に悲鳴を上げていた。


 折れた肋骨が、呼吸のたびに痛む。右肩のひびが全身に伝わる。左足が、まともに動かない。


 額から血が出ていた。


 それでも——俺は立っていた。


 橘がしばらく俺を見ていた。


「……すごいね」橘が言った。「あの状態で立ってる」


「当然だ」


「当然じゃないよ、普通は」橘が言った。「骨が何本か折れて、内出血もしてて。普通の人間なら意識がない」


「倒れる理由がない」


「そう言ってたね。以前も」


 橘が歩き出した。


 初めて、橘が動いた。


 近づいてくる。


 橘が俺の目の前に立った。


 距離、一メートル。


 間近で見る橘の顔は、相変わらず穏やかだった。笑っていた。


「黒瀬くん、一個だけ教えてあげる」橘が言った。


「なんだ」


「今まで僕が使ったのは、僕の異能じゃないよ」


 俺は橘を見た。


「偽物の異能」橘が言った。「デモンストレーション用に見せてた能力。本当の異能は、全然別のものだよ」


「……どういう意味だ」


「まあ、今は関係ないんだけど」橘が続けた。「一つだけ言っておくね。君の切り札があるでしょ。まだ誰にも見せてない、最後の手段」


 俺は黙っていた。


「出してみてよ」橘が笑った。「このままだとつまんないし」

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