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第26話「正体不明の男、橘将望」

 四人で入った定食屋は、学園から歩いて五分の場所にあった。


 颯の行きつけらしく、店員が「いつもの?」と聞いた。颯が「今日は四人!」と答えた。店員が「多いね」と笑った。


 四人分の席に着いた。


 颯が唐揚げ定食を二人前頼んだ。城島が冷静にハンバーグ定食を頼んだ。澪がサバ定食を頼んだ。俺は日替わりを頼んだ。


 料理が来るまでの間、城島が口を開いた。


「冥焔会の情報を、少し話せます」


「聞く」


「父から引き出した情報ですが」城島が声を落とした。「冥焔会は今、内部で方針が割れているようです」


「方針が?」


「黒瀬くんへのアプローチの話です」城島が続けた。「勧誘で引き込む派閥と、力で制圧して統合を強行する派閥に分かれている」


 颯が眉を寄せた。


「統合を強行? それって煉の意志は無視で、強制的に魔王の体と——」


「そういうことです」城島が静かに言った。

「ちなみに、以前あなたが戦った三浦は強行を押していました。」


「なるほど」俺は言った。「だから、三浦は最初から戦いに来たということか」


「おそらく」城島が頷いた。「そして——もう一人、名前が出てきました」


「誰だ」


 城島が少し間を置いた。


「橘将望(まさみ)という人物です」


 その名前を、俺は初めて聞いた。


 颯も澪も、聞き覚えがないらしく首を傾げた。


「冥焔会での立場は?」


「それが——わからないんです」城島が少し困った顔をした。「父に聞いても、詳しくは知らないと言っていました。ただ、上層部が最近この人物の話をしていると」


「強さは」


「情報がほとんどない」城島が俺を見た。「異能者の登録データを調べましたが、名前がありません。存在が薄い人物です」


 俺は少し考えた。


 存在が薄い。


 それは——隠れているのか。それとも本当に取るに足らない存在なのか。


「気をつけてください」澪が静かに言った。「情報がないということは、それだけ掴みにくいということです」


「そうだな」


 料理が来た。


 颯が「食おう!」と言ったことで、場の空気が少し和らいだ。


---


 食事が終わって、店を出た時だった。


 夜の商店街に、人通りが少なくなっていた。


 俺は気配を感じた。


 一つだけ。


 どこにあるのかわからない。


 わざわざ気配を隠しているわけではなく、三浦の時のように堂々としているわけでもない。


 ただ——ある。


 確かに、そこにある。


「颯」


「ん?」


「澪と城島を頼む」


 颯が一瞬固まった。それから俺の顔を見て、すぐに頷いた。


「わかった」


 澪が「黒瀬くん——」と言いかけた。


「すぐ戻る」


 俺は商店街の路地に入った。


---


 路地の奥に、男が立っていた。


 二十代前半だろうか。細身で、背が低い。ベージュのカーディガンを着ていた。ゆったりした服だ。戦いに来るような格好ではない。


 顔立ちは整っているが、印象が薄い。どこかで会っても忘れてしまいそうな顔癪に触るような表情を浮かべている。


 男が俺を見た。


 笑っていた。


 穏やかな笑顔だ。親しみやすい、人当たりの良さそうな笑顔だ。


 だが——その笑顔が、俺の肌に微かな違和感を起こした。


「あ、来てくれた」男が言った。「黒瀬煉くんだよね」


「そうだ。お前は」


「橘将望です」男がにこりとした。「はじめまして、かな。あ、でもこっちはずっと見てたから、はじめましてって感じでもないんだけど」


「ずっと見ていた?」


「うん」橘が軽く言った。「三浦さんがあなたと戦っている時も見ていたよ。」


「すぐ側でね」


橘はいつのまにか煉の背後に周り囁いた。


 俺は橘を見た。


 気配がなかった。


 あの時、俺は三浦の気配を感じていた。だが橘の気配は、今この瞬間まで全く感じなかった。


 それは——隠していたのではなく。


 気配がない、のか。


「冥焔会の人間か」


「そうだね」橘が頷いた。「一応ね」


「用件は」


「うーん」橘が少し首を傾げた。「用件、って言われると難しいんだけど」


「難しい?」


「冥焔会としては勧誘しろって話なんだけど」橘が続けた。「僕はそういう面倒なことが苦手でさ。勧誘とか説得とか、あんまり興味ないんだよね」


「では何をしに来た」


「見に来た」橘が俺を見た。「黒瀬煉がどんなやつか、自分で確かめたくて」


「確かめた結果は」


「うーん」橘が少し考えるような顔をした。「まあまあかな」


「まあまあ」


「うん。三浦さんが負けるのは、なんとなくわかる感じ。でも——」橘が俺を見た。「そこまでかな、って感じもする」


「だって、あの人弱いもん」


そう言っていきなりケラケラと笑い出した。


 俺は橘を見た。


 この男は俺を挑発しているのか。それとも本当にそう思っているのか。


 どちらにも見えた。


「一つ聞く」


「なに?」


橘が笑うのをやめて、煉の反応を確かめるかのように覗き込んだ。


「お前の異能は何だ」


 橘が少し目を丸くした。それから、ふふっと笑った。


「直接的だね。そういうの聞く人、初めて」


橘が少し面白そうな顔をした。「どうしようかな。教えてあげてもいいけど」


「教えなくていい」


煉はそう言って橘から目線を外した。


「え?」


「教えないなら教えないでいい。今日のところはそれだけだ」俺は橘に背を向けた。


「あれ、もう行くの?」橘が少し拍子抜けしたような声を出した。


「用件が終わった」


「でも僕、まだ話したいんだけど」


「俺は終わりだ」


 俺は路地を歩き出した。


「黒瀬くん」


 橘の声がした。


 俺は振り返らなかった。


「また会いに来るね」橘が言った。「その時は——もう少し面白い話をしよう」


 俺は答えなかった。


 路地を出た。


---


 颯が俺の顔を見た瞬間に言った。


「……誰だった?」


「橘将望だ」


 颯、城島、澪が同時に反応した。


「今の人が!?」颯が路地の方を見た。「弱そうだったけど——」


「気配がなかった」俺は静かに言った。


「気配がない?」


「お前たちと食事をしている間、ずっとそこにいたらしい。だが俺は気づかなかった」


 颯が黙った。


 城島の表情が、少し固くなった。


「三浦と俺の戦いを、横で見ていたと言っていた」俺は続けた。「気配を消したまま、近くで見ていたということだ」


「……それは」澪が静かに言った。「相当な技術か、異能か」


「わからない。だがどちらにしても——普通ではない」


 四人が、しばらく黙っていた。


 颯が「どんな感じのやつだった?」と聞いた。


「飄々としていた」


「お前みたいに?」


「俺とは違う」俺は少し考えた。「俺の持っている雰囲気は——まあ、俺の性格だ。だがあいつのは」


「あいつのは?」


「底が見えない飄々さだ」


 颯が「怖いな」と小声で言い、城島が「同感です」と言った。澪は何も言わなかった。ただ、少し俯いた。


「澪」


「……はい」


「大丈夫か」


「大丈夫です」澪が顔を上げた。その目が、少し緊張していた。「ただ——嫌な予感がします」


「俺もだ」


 澪が少し目を見開いた。


「……あなたが嫌な予感と言うのは、初めて聞きました」


「そうか」


「初めてですよ」


「そうかもしれない」


 颯が「それ相当やばいやつってことじゃないか」と言った。城島が「おそらく」と言った。


 俺は夜空を見上げた。


 橘将望。


 気配がない。底が見えない。三浦との戦いを横で見ていた。


 何を見ていたのか。


 何を確かめていたのか。


「まあ」


「またそれか」颯が苦笑した。「なんとかなるだろ、だろ」


「そうだ」


「今回は本当になるか?」


 俺は少し考えた。


「なる」


「根拠は?」


「お前たちがいるからだ」


 颯が固まった。


 城島が少し目を細めた。


 澪が視線を逸らした。耳が赤かった。


「……煉、さらっとすごいこと言うな」颯が頭を掻いた。「照れるだろ」


「本当のことだ」


「わかってる。わかってるけど——」


「神崎くん」澪が静かに言った。


「なんだ?」


「黙っていてください」


「なんで! 俺だって感動してるのに!」


 城島が「私も同じ気持ちですが、黙っています」と言った。颯が「なんで城島先輩は黙れるんだ」と言った。


 夜の商店街に、四人の声が溶けた。


 橘将望が現れた夜だったが——不思議と、暗い気持ちにはならなかった。


 この仲間がいる。


 それだけで、十分だった。


---


 アパートに帰った夜、俺は黒剣を手に取った。


 橘将望のことを考えた。


 あの男は、弱かった。


 見た目も、気配も、話し方も。どこからどう見ても、強者には見えなかった。


 だが——何かある。


 俺の本能が、それを言っていた。


 数百年の戦場で磨いた本能が。


 俺は天井を見上げた。


 まだ答えは出ない。


 だが確かめなければならない。


 橘将望が何者なのかを。


「まあ」


 俺は目を閉じた。


「なんとかなるだろ」


 夜の部屋に、独り言が落ちた。


 窓の外で、夜風が木々を揺らした。

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