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第23話「次の日の朝」

 金曜日の朝だった。


 目が覚めた瞬間に、左腕の痛みがあった。


 昨日の三浦の拳の感触が、まだ残っていた。ひびが入った骨は、一晩経っても完全には回復していない。人間の体の回復速度は、魔王時代より遥かに遅い。


 俺は起き上がって左腕を確認した。


 動く。握れる。ただ、力を入れると鈍く痛む。


 三日あれば動ける。一週間あれば完全に治る。


 それまでは、左腕に頼らない動き方をすればいい。


 俺は着替えて、アパートを出た。


---


 学園に着くと、颯が教室の入口で待っていた。


 腕を組んで、俺が来るのを待ち構えていた。


「煉」


「おはよう」


「おはようじゃない」颯が俺の左腕を見た。「昨日、何かあっただろ」


「なぜそう思う」


「昨日のメッセージで『少し運動した』って言ってたのに、今朝は左腕を庇って歩いてる。普通に歩いてるつもりだろうけど、わかるぞ俺には」


 俺は颯を見た。


 観察眼が上がっている。入学当初より、俺の動きを読めるようになっている。


「冥焔会の執行官が来た」


「やっぱりか!」颯が声を上げた。周りの生徒が振り返った。颯が「すみません」と小声で言った。それから俺に向き直り、声を落とした。「名前は」


「三浦。身体能力強化の異能者だ」


「結果は」


「引き分け」


「引き分け……」颯が少し黙った。「お前が引き分けになるのか」


「あいつは本物だ。純粋な力の強さという点では、これまで戦った中で一番手強かった」


 颯がしばらく俺を見ていた。


「怪我は左腕だけか」


「右腕も少し痺れている。今日中には治る」


「今日中に——って、どんな回復力してんだよ」颯が呆れたように言った。「まあいい。保健室行くか?」


「行かない。澪が包帯を持ってくると言っていた」


 颯がにやりとした。


「澪ちゃんが?」


「そうだ」


「へえ」


「余計なことを言うな」


「何も言ってない」颯が口元を緩めたまま先に教室に入っていった。


---


 席に着いて少し経ったところで、澪が来た。


 いつも通りの制服姿だったが、鞄が少し膨らんでいた。


 澪は俺の隣の席に座って、鞄から小さなポーチを取り出した。救急セットだ。包帯、消毒液、ガーゼ。丁寧に揃えられていた。


「左腕を見せてください」


「授業前だ」


「だから今やります。授業中は動かした方がいいので、今固定しておく方がいい」


 俺は言い返せなかった。正しいからだ。


 左腕を差し出した。


 澪が制服の袖をまくった。左腕の状態を確認した。


「……ひびが入っています。昨日より腫れています」


「明日には引く」


「今日は引かないじゃないですか」澪が包帯を取り出した。「固定します。動かしにくくなりますが、我慢してください」


「わかった」


 澪が包帯を巻き始めた。


 丁寧な手つきだった。力加減が的確だ。強すぎず、弱すぎず。痛みが最小限になる巻き方だ。


「澪、救急の知識があるのか」


「独学です」澪が包帯を巻きながら言った。「あなたが怪我をした時のために、少し勉強しました」


 俺は澪を見た。


「俺のために?」


「あなたはよく怪我をするので」澪が視線を手元に落としたまま言った。「備えておいた方がいいと思いまして」


 颯が後ろの席から「いい話だ」と小声で言った。澪が「神崎くん、聞こえています」と言った。颯が「すみません」と言った。


 澪が包帯を巻き終えた。


「動かしてみてください」


 俺は左腕を動かした。


「どうですか」


「動きやすい。うまい」


「そうですか」澪が道具をポーチにしまった。「授業中、無理に動かさないでください」


「わかった」


「約束ですよ」


「約束だ」


 澪がポーチを鞄にしまった。それから俺を横目で見た。


「相手は強かったですか」


「本物だった」


「……そうですか」澪が少し間を置いた。「勝てましたか」


「引き分けだ」


「引き分け」澪が静かに繰り返した。「あなたが引き分けになるんですね」


「ああ」


 澪がしばらく前を向いていた。


「冥焔会には、まだ上がいますか」


「いる」


「そうですか」澪の声が、少し低くなった。「気をつけてください」


「わかっている」


「わかっている、じゃなくて——」澪が俺を見た。その目が、珍しく真剣だった。「本当に、気をつけてください。あなたが引き分けになる相手がいるなら、その上には——」


「澪」


「なんですか」


「わかっている」俺は澪を真っ直ぐ見た。「お前が心配していることも、俺が無茶をすることも。全部わかっている上で言っている」


 澪がしばらく俺を見ていた。


 それから小さく息を吐いた。


「……信じます」


「ありがとう」


「お礼を言われることじゃないです」


 いつもの言葉だった。だが今日のそれは、少し安堵が混じっていた。


---


 一時限目が始まった。


 倉石がホームルームを終えて、教科書を持って教室を出ようとした時、俺に視線を向けた。


 一瞬だけ、左腕の包帯を見た。


 何も言わなかった。


 だが廊下に出る直前に、小さく言った。


「放課後、職員室に来い」


 俺は頷いた。


---


 昼休み、屋上に行くと澪がいた。


 いつもの定位置だ。弁当を開いていた。


 今日は玉子焼きに加えて、小さなおにぎりが二つ入った小皿が俺の方に差し出された。


「左腕が使いにくいと、おにぎりを買うのも大変かと思いまして」


「……作ってきたのか」


「朝、少し早く起きました」澪が前を向いたまま言った。「大したものではないですが」


 俺はおにぎりを受け取った。


「ありがとう」


「お礼を——」


「言われることじゃない、だろ」


 澪が少し目を細めた。


「……先に言わないでください」


「癖だ」


「私の台詞を取らないでください」


「覚えてしまった」


 澪がため息をついた。口元が緩んでいた。


 俺はおにぎりを食べた。


 うまかった。丁寧な味だ。澪の作るものは、いつも丁寧だ。


「澪」


「なんですか」


「一つ、頼みがある」


 澪が俺を見た。


「冥焔会のことを、少し調べてほしい」


「……調べる?」


「お前は頭がいい。俺が気づかないことを見つけられるかもしれない」


 澪がしばらく俺を見ていた。


「危ないことはしません」俺は続けた。「情報を集めるだけでいい。わかる範囲で構わない」


「……わかりました」澪が静かに言った。「やれる範囲でやります」


「ありがとう」


「お礼を言われることじゃないです」今度は先に言った。


 俺は少し笑った。


「……なぜ笑うんですか」


「取り返した」


「何をですか」


「台詞を」


 澪がしばらく俺を見て、それから吹き出した。


 珍しかった。澪がこういう笑い方をするのは、あまりない。


「……ずるいです」澪がまだ少し笑いながら言った。


「そうか」


「そうです」


 風が吹いた。澪の髪が揺れた。


 平和な昼だった。


---


 放課後、職員室に行った。


 倉石が一人でいた。他の教員はいなかった。


 倉石が俺に椅子を勧めた。俺は座った。


 倉石がしばらく俺を見ていた。


「左腕はどうだ」


「問題ない」


「嘘をつくな」


「動ける程度には問題ない」


「……まあいい」倉石が腕を組んだ。「冥焔会の執行官と戦ったな」


「ああ」


「三浦だろう」倉石が静かに言った。「引き分けと聞いた」


「誰から聞いた」


「城島だ。あいつは俺にも報告を入れてくる」倉石が俺を見た。「三浦は本物だ。冥焔会の執行官の中でも、純粋な戦闘力では上位に入る」


「知っている」


「その上がいる」


「それも知っている」


 倉石がしばらく黙っていた。


 俺は倉石を見た。


 この男は何かを知っている。最初からそう感じていた。今日呼ばれたのは、その「何か」を話すためだろう。


「倉石先生」


「なんだ」


「言いたいことがあるなら、言ってくれ。俺は急かさない」


 倉石が少し目を細めた。


 長い沈黙があった。


 やがて倉石が息を吐いた。


「……一つだけ聞く」倉石が俺を真っ直ぐ見た。「お前は、魔王という言葉に聞き覚えがあるか」


 俺は表情を変えなかった。


「どういう意味だ」


「そのままの意味だ」倉石の目が、鋭くなった。「魔王という存在を——お前は知っているか」


 静寂が、職員室に満ちた。


 俺は倉石を見た。


 倉石は俺を見ていた。


 どちらも動かなかった。


 やがて俺は静かに言った。


「……長い話になる」


 倉石がゆっくりと頷いた。


「時間はある」


 窓の外で、夕暮れの光が傾いていた。

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