第22話「拳と拳」
木曜日の放課後だった。
颯は部活の見学に行っていた。澪は委員会の仕事で残っていた。城島は生徒会の用事があると言っていた。
俺は一人で学園を出た。
商店街に向かうつもりだった。鞘の特注品が仕上がったと武具屋から連絡が来ていた。受け取りに行くだけだ。
学園の裏門を出て、人通りの少ない路地に入ったところだった。
気配を感じた。
一つだ。
隠していない。
むしろ、堂々とそこにいた。
路地の奥から、男が歩いてきた。
三十代半ばだろうか。中肉中背だが、その体格から尋常でない密度を感じた。筋肉が服の上からでもわかる。首が太い。手が大きい。歩き方に、無駄が一切ない。
黒いコートではなく、動きやすそうなジャケットを着ていた。
男が俺の前で立ち止まった。
俺を見た。
値踏みでも、品定めでもなかった。
ただ——確認するような目だった。
「黒瀬煉だな」
「そうだ」
「冥焔会の執行官、三浦だ」男が静かに言った。「単刀直入に言う。冥焔会に来い」
「断る」
「だと思った」三浦が小さく頷いた。「封書を無視し続けたんだ。口で言っても聞かないのはわかってる」
「ならなぜ来た」
「実力で連れて行く」三浦が静かに言った。「それだけだ」
俺は三浦を見た。
この男は今まで戦ってきた奴らとは違う。最初から戦いに来ている。余計なものが何もない。
「一つだけ聞く」
「なんだ」
「お前の異能は何だ」
三浦が少し目を細めた。
「珍しいことを聞くな。自分から教えてくれと言うやつは初めてだ」
「戦う前に知っておきたい」
「……正直なやつだ」三浦が右手を持ち上げた。「身体能力強化。それだけだ。速さも、力も、硬さも、全部底上げする。シンプルだろ」
「シンプルだな」
「シンプルなものは、強い」三浦が俺を見た。「そして俺のモットーがある」
「なんだ」
「確実に仕留める」三浦の目が静かに光った。「これが俺のモットーだ。派手なことはしない。確実に、仕留める。それだけを考えてきた」
三浦の体から、異能が溢れ出した。
光でも、霧でも、炎でもなかった。
ただ——圧だった。
三浦の全身から、純粋な力の圧が放出された。地面が微かに沈んだ。空気が震えた。アスファルトに細かいひびが入った。
俺は黒剣を抜いた。
「来い」
---
三浦が動いた。
速かった。
これまで戦ってきた誰とも違う速さだった。城島の光速に近い移動とは別の、純粋な肉体の速さだ。地面を蹴る音がして、次の瞬間には俺の目の前にいた。
右の拳が来た。
俺は黒剣で受けた。
鈍い音がした。
腕に、ずしりとした衝撃が走った。
俺は後退した。三歩。
三歩も下がったのは、いつぶりだろう。
「剣で受けるか」三浦が静かに言った。「普通なら骨が折れるぞ」
「丈夫な剣だ」
「剣がじゃなくて、お前の腕がだ」
俺は自分の右腕を確認した。
痺れている。骨にひびが入りかけた感覚があった。
「なるほど」
「もう一発来るぞ」
三浦が踏み込んだ。
今度は左からだった。右のフェイントから左の本命。シンプルで、速くて、重い。
俺は躱した。
だが完全には外れなかった。左肩を掠めた。
体が半回転した。
三浦が追いかけてきた。回転した俺の背中に向けて、右肘を打ち込もうとした。
俺は回転の勢いを利用して、さらに体を回した。
一回転して、三浦の側面に出た。
黒剣の腹を、三浦の脇腹に打ち込んだ。
三浦がよろけた。
だが倒れなかった。
身体能力強化は耐久も含む。通常の打撃では、効果が薄い。
「いい動きだ」三浦が脇腹を押さえながら言った。「反撃が速い」
「お前の肘は重い」
「もっと重くなるぞ」
三浦の体から、さらに圧が増した。
アスファルトのひびが広がった。
---
第二波が来た。
三浦が連打を始めた。
右、左、右、左。リズムが一定だ。だが一撃ごとに力が増している。まるで打つたびに強化の出力が上がっているようだ。
俺は捌き続けた。
黒剣で受ける。躱す。黒剣で受ける。躱す。
だが三浦の拳の重さが、明らかに増していた。七撃目を黒剣で受けた瞬間、腕が根元から痺れた。
下がった。
四歩。
「強化に上限はないのか」俺は聞いた。
「ない」三浦が静かに言った。「出力を上げ続ければ、上げ続けられる。その分、俺の体も削れるがな」
「自分の体も削るのか」
「確実に仕留めるためなら、それでいい」三浦が右拳を握った。「俺が削れる前に、お前を仕留める。それだけだ」
シンプルだ。
純粋に、削り合いだ。
どちらが先に限界を迎えるか。
俺は黒剣を構え直した。
この体は人間の体だ。魔王時代と違い、限界がある。三浦の強化出力が上がり続ければ、いずれ捌き切れなくなる。
ならば——捌くのをやめればいい。
「三浦」
「なんだ」
「お前の強化は、防御にも使えるか」
「使える。硬化すれば並の斬撃は通らない」
「なるほど」
「何を考えている」
「試してみることがある」
俺は走った。
三浦に向かって、真っ直ぐに。
三浦が迎撃の構えを取った。強化した右拳を振り被った。
俺はそれを見た。
躱さなかった。
受けた。
黒剣を盾にするのではなく、体を斜めにして、拳の衝撃を横に流した。
三浦の拳が俺の左肩を掠めた。
強化された拳の衝撃が、左肩を焼いた。骨にひびが入った感覚があった。
だが俺は前に出た。
衝撃を受けながら、前に出た。
三浦の懐に入り込んだ。
三浦が目を見開いた。
「っ——」
近距離だ。三浦の強化された拳は、大きく振り被るほど威力が増す。この距離では、フルスイングができない。
俺は黒剣の柄を三浦の顎に打ち込んだ。
三浦の頭が跳ね上がった。
続けて、黒剣の腹で三浦の脇腹を打った。
三浦が後退した。
今度は三浦が、三歩下がった。
---
三浦が止まった。
顎を押さえた。口の中が切れたのか、血の味がするのかもしれない。
「……やるな」三浦が静かに言った。「受けながら前に出るか」
「お前の拳は大きく振り被るほど強い。ならば懐に入ればいい」
「わかっていてもできないのが普通だ」三浦が俺を見た。「あの衝撃を受けながら前に出られる人間は、そうはいない」
「慣れているだけだ」
「慣れ?」三浦が少し首を傾げた。「何に慣れている」
「痛みに」
三浦がしばらく俺を見ていた。
それから、小さく笑った。
「……面白いやつだ」
「そうか」
「だが」三浦の目が、また静かな光を帯びた。「まだ本気じゃない」
「俺もだ」
「ならば——ここからが本番だ」
三浦の全身から、圧が一段階上がった。
さっきまでとは別次元だった。
路地のアスファルトが、三浦の足元から放射状にひび割れた。
空気が、重くなった。
俺は息を吸った。
左肩が痛む。右腕が痺れている。だが動ける。
「来い」
---
三浦が動いた。
先ほどより明らかに速かった。
俺は黒剣を構えた。
一撃目。右のストレート。黒剣で受けた。
衝撃が腕を通り抜けた。今度は後退しなかった。足を踏ん張り、全身で衝撃を受け止めた。
二撃目。左のアッパー。体を後ろに倒して躱した。
三撃目。右の蹴り。黒剣で弾いた。
四撃目。左の膝蹴り。横にずれて外した。
三浦の攻撃が、俺の読みより半歩速くなっていた。
五撃目が来た。右のボディ。
俺は受けた。
左腕で。
さっき拳を受けた、ひびが入りかけている左腕で。
ゴリ、という感覚があった。
骨が、悲鳴を上げた。
だが俺は動いた。
左腕で三浦の右拳を押さえながら、黒剣を三浦の首筋に当てた。
静止。
二人が止まった。
三浦の拳が俺の左腹部の寸前で止まっていた。俺の黒剣が三浦の首筋に触れていた。
互いに、あと一手で決まる距離だった。
---
路地に、荒い呼吸だけが響いた。
二人分の呼吸が、白く混じった。
俺の左腕が、じんじんと痛んでいた。
三浦の額に、汗が滲んでいた。身体能力強化の反動が、三浦自身の体にも来ているのだろう。
しばらく、誰も動かなかった。
「……引き分けか」三浦が静かに言った。
「そうかもしれない」
「お前の首に剣が届く前に、俺の拳がお前の腹に届く」
「お前の拳が俺の腹に届く前に、俺の剣がお前の首に届く」
また沈黙があった。
三浦がゆっくりと拳を下げた。
俺も黒剣を下げた。
三浦が体の力を抜いた。強化の圧が、少しずつ収まっていった。
「黒瀬煉」
「なんだ」
「お前は——何者だ」三浦が俺を見た。「あの強化を受けながら前に出られる。骨が悲鳴を上げているのに動ける。普通じゃない」
「普通かどうかはわからない」
「わからない、か」三浦が少し考えた。「一つだけ聞いていいか」
「どうぞ」
「痛くないのか」
「痛い」
「痛いのに、なぜ動ける」
俺は少し考えた。
「痛みは、倒れる理由にならない」
三浦がしばらく俺を見ていた。
「……そうか」三浦が静かに言った。「お前と戦えて、よかった」
「そうか」
「俺は確実に仕留めることを信条にしてきた」三浦が右拳を見た。「だが今日、仕留めきれなかった。これが引き分けなら——俺の負けだ」
「なぜだ。引き分けは引き分けだ」
「俺が先に限界に達していた」三浦が俺を見た。「お前はまだ動けるが、俺は強化の反動で、もう一撃が出せない。引き分けの形だが——内容はお前の勝ちだ」
俺は三浦を見た。
正直な男だ。
「三浦」
「なんだ」
「お前の拳は本物だ」
三浦が少し目を見開いた。
「……褒めているのか」
「事実を言っている」俺はお世辞を言わない。「あれだけの純粋な力は、長い時間をかけて磨いたものだ。本物だ」
三浦がしばらく俺を見ていた。
それから、小さく笑った。
「お前に言われると、素直に嬉しいな」三浦が踵を返した。「今日のところは引く」
「そうしてくれ」
「だが」三浦が振り返らずに言った。「次に来る時は、俺も限界まで強化を上げる。反動で体が壊れても構わない。確実に仕留めるために」
「楽しみにしている」
「……変なやつだ」三浦が歩きながら言った。
「次会う時には楽しくゲームでもしようか」
「敵視している相手に面白い冗談を言うんだな」
「冗談じゃないさ。お前とは気が合いそう、そう感じたんだよ」
「そうか」
「またいつか」
三浦の背中が、路地の奥に消えた。
---
俺は一人になった。
左腕を確認した。
ひびが入っていた。動くが、痛い。
右腕の痺れは、まだ残っていた。
俺は路地の壁に背中をつけた。
空を見上げた。
夕暮れの空が、細長く見えた。
三浦は強かった。
蒼井とは全く違う種類の強さだ。技術も異能もなく、ただ純粋な力だけで俺を追い詰めた。
あれが冥焔会の執行官の上位か。
さらに上がいるとすれば——
「まあ」
俺は空を見たまま言った。
「なんとかなるだろ」
---
その夜、颯からメッセージが来た。
「今日、何かあったろ。顔に出てたぞ。左腕、庇ってたし」
俺は少し考えてから返信した。
「少し運動した」
「また運動!!! 何回目だよ!!!」
澪からもメッセージが来た。
「左腕、怪我していますか」
俺は少し驚いた。
「なぜわかった」
「帰りに少し庇っているように見えました」
俺は澪の観察眼に、改めて感心した。
「ひびが入った」
しばらく間があった。
「明日、学校で確認させてください」
「包帯を持っていきます」
「無理しないでください」
三つ続けて来た。
俺は少し笑った。
「わかった」
「おやすみ」
すぐに返ってきた。
「おやすみなさい」
「ちゃんと寝てください」
俺はスマホを置いた。
黒剣を手に取った。
三浦の拳の感覚が、まだ腕に残っていた。
本物の強さだった。
冥焔会には、まだ上がいる。
この先、どんな相手が来るのか。
俺は天井を見上げた。
左腕が痛んだ。
だが——悪くない痛みだった。
本物と戦った証拠だ。
「まあ、なんとかなるだろ」
夜の部屋に、独り言が落ちた。




